2011/10/03

ラジオを聴きながら・・・(5)

 ~喜劇役者「伊東四朗」氏の重い言葉~
 昨朝に続く「私の役者人生を語る」というラジオ番組。
 個人的にも関心がありファンでもある氏の登場を心待ちにしていた。期待通り?いや想定通りに『重い言葉』をいただける至福の時間を過ごすことが出来た。教員生活しか知らないまま、間もなく70歳になる凡庸な人生を振り返りながら傾聴した。
 
 アドリブは準備万端整えて「待ってました」とばかりに出す演技ではない。その場の空気を相手にして、とっさに飛び出す演技でなければ観客には受けない。受けを狙って準備して舞台に立っても反応を無視して準備されたセリフを発したらしらけるのが「喜劇」の世界である。喜劇役者は人を、心から笑わせる力量があって初めて一流であり、人に笑われている時代は喜劇役者とは言えない。そんなに厳しい世界である。アドリブだけでは生きて行けないので、無駄と思える『稽古』を飽きることなく続けているのである。一度も陽の目を見ずに、その世界から消えてしまう人の数が遥かに多い。しかし、苦しかった稽古は決して無駄なことはなかった、と自信を持って言える。
 
 だから自分の息子には違う世界で苦労をしてもらいたかった。本人がやりたいと言うので断ったり禁止したり権利はオレ(親)にはないので不安な視線で見詰めなければならない自分の今の人生はきつい。親心の不安定さとの闘いが氏の演技に更に幅を付けるのだろうなぁ。全て喜劇役者の「血と肉」になっていることを実感として受け止めることが出来た。
 明日から2日間、この爺が教室に立たねばならない。授業をすることを請け負っている。
 高座に出る心境なのか。授業でも、やはり「楽しく・受けて」もらえる準備に明け暮れる。まだ見ぬ観客の実態も分からないままに準備をしているのは舞台稽古にあたるのだろうか。伊東氏の言葉が被ってくる。昨日の舞台で受けても、今日のお客には全く受けない。その日のその場のその視線を受け止めて「本能で動く」しかない。感性の鈍い奴にはその能力が欠ける。それは、日常的な努力を怠っているからではないか。そのために『稽古を積む』という理論がどの世界でも重要なのである。
 老脳の味噌を掻き混ぜられたような衝撃が走る。しかし、何故か新鮮で嬉しい気分である。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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