~今日は里帰りです~
10日に九州の伯母(102歳)とお別れして帰宅。
13日には病状が悪化している取手市に住む叔父(77歳)の見舞いに行った。2週間余り会わなかった間にこんなにも症状が進んでしまったのかと落胆して帰宅した。翌朝(14日)息を引き取った。生前の最後に見舞ったのが妻だった。伯母も叔父も妻の両親との関係である。クリスチャンである叔父の葬儀は土日を避けることも知った。そんな事情もすべてが小生の「出講を妨害しない」リズムになっているのが不思議に思える。
立て続けの葬儀に遭遇しているが、妻との対話に登場する言語は「怖い」というキーワードである。
それは、あいだみつお氏の言葉・『育てたように子は育つ』という書である。愚かな我々夫婦にも生まれて育った子供が3人もいる。現在はそれぞれに所帯を持って子育てに勤しんでいる。負の再生産に至らないことを祈りつつも「育てたように」しか育っていないと心を決める。この現実を「怖い」という言葉で妻が夫婦の対話を締めくくることが多くなっている。
一つの命がこの世から消えることは一大事件である。
当該関係者の狼狽は隠せない。予行練習のない事件である。身内の悲しみの中に「人間の生き様」を垣間見るのである。我が目と耳を疑うような言動に接することは当然のことかも知れない。しかし、「生き方」は親から学ぶしかないことはやっぱり避けられない事実である。人としての『生き方』は、「家庭という園」で生活をする中でしか学べないのであるならば、両親と言う『幹』の偉大さを認識せざるを得ないのである。そんな対話を妻と交わしながら、後戻りできない「子育て」の日々に思いを馳せ「怖い」という結語に至ってしまうのもご理解いただけるのではないだろうか。
今日は葬送の合間を縫って第二の故郷・神奈川県茅ケ崎市に向かう。楽しみにしている懇親会も辞退させてもらってセミナーが終了次第直帰する日程にした。
我が家は、昨日の東京ディズニーランドに行った孫軍団の興奮で朝から活気に満ち溢れている。興奮冷めやらぬ元気な孫たちの声が母屋から伝わって聞こえてくる。曇り空からは止まない雨が小降りにはなったものの未だ栗の木々の葉っぱに落ちている。そんな音を聴きながら故郷への出発準備である。
朝から湿っぽいお話で失礼しましたね。許されたし!!行ってまいります、
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
0 件のコメント:
コメントを投稿