2011/10/17

「故郷の夕陽」に見送られても・・・

 ~湘南電車の窓から見えた風景~
 やっぱり違和感が先行した。
 仕事を終えて茅ヶ崎へ帰る習慣が48年間も続いた。その人間が仕事を終えて茅ヶ崎から帰るというのはやっぱり違和感である。「茅ヶ崎駅」という交通公共機関は「心の玄関口」でもあった訳である。勇んで改札口を出たこともあり、落ち込んで帰路に着いたこともあの「心の玄関口」は見詰めていただろう。励ましてもくれなかったし、喜んでもくれなかった改札口を茅ヶ崎の仲間達に見送られて帰路に着くのが何とも不自然に感じたのは今回が初めてであった。
 電車に飛び乗って東京駅に向かう。
 どの地点を電車が走る時にどんな光景が見えるかも、ほぼ100パーセントわかる。辻堂駅北口の開発工事が進んでいる個所を除けば、の話ではある。真っ赤な夕焼けの空に富士山のシルエットが目に入った。長年見飽きる程眺めた光景である。しかし、何と、「懐かしい」と言葉を発してしまったではないか。18歳から住んでいた生まれ故郷に住んでいた年数の約3倍も住み慣れた(第二の)故郷である。しかし、ホンモノの「故郷」ではない。なぜならばそこには『竹馬の友』との幼い日々の思い出がないからである。そして、親やきょうだいの香りもない。小中学校と言う青春の胸を時めかした思い出もない。
 大人になって、所帯を持って懸命に働いた「働き蜂」には、そこは汗の涙の結晶が苦い思い出だけが詰め込まれたままで存在しているのかもしれない。働き蜂は働き仲間と群れを成しながらその日暮らしで時間が流れて行ってしまうのだろうか。働き蜂には働く場所がなくなれば存在感や威厳も消滅するものらしい。生まれ故郷とは感傷の度合いが違うのはそんな諸々の条件が加味されるからだろう。見慣れた車窓と語り掛けながらの帰路は妙に冷めていた。
 今夜、別れる(妻の)叔父も、同郷の熊本県八代市に誕生して高校を卒業と同時に社会人になった。東京~大阪~福島~宮城と転戦(?)した働き蜂である。前夜式では、親族代表として故人を紹介する立場を仰せつかっている。家族への遺言で(姪の夫である)小生を生前に指名してあったようである。故人が生前に書いている職歴や自らを紹介するメモ用紙がA41枚で手元に届いている。その用紙を昨日の帰路の車中で活字を追いながら今日の「挨拶の骨子」を作った。
 夕陽に映える富士山の雄姿を見詰めながら77歳の生涯を、晩年は生まれ故郷に戻ることも無くこの世を去る叔父に思いを馳せた。殆ど行き来のない叔父であったのが、今度の我が転居で至近距離に住むことになった。これも、唯一と言うほどに可愛がっていた姪(小生の妻)を近くに呼び寄せたのだろうか、と夫婦で語り合うほどである。
 そろそろ取手市の教会に向かう時間である。「千の風に乗って・・・」九州の生まれ故郷の空にでも行くのであろうか。心置きなく妻が別れることが出来るようにサポートすることにして出発である。 

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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