~久しぶりの歩禅を意識して~
老妻を促して墓参りをしようと試みる。
出発は10時過ぎ。義父母の眠る墓地が歩禅①コースである。そろそろ転居して6か月が過ぎる。つまり半年も住んだとなれば種々の思いも錯綜する時期である。小生は一月の半分近くを定住地から離れた時間を過ごしている、ほぼ定住している老妻には、細やかな苦労が積み重なる時期なのかもしれない。無神経を装う主としても気になる事象は幾つもある。
朝夕の気温の下がり具合も心地よくなっている。
午前10時でも酷暑の時間帯とは異なる。比較的大型のリュックを背負って老夫妻が自宅を出るのです。小生をご存知の方には「似合わない」との酷評を受けそうですが、それは大間違いです。こんな姿が凡人の生活としての常態なのです。公務として壇上から、あるいは講師として発する「言語」を優先させて評価される人間にもこの状態があって初めて成立することを心底からご理解いただきたい。
片道30分間。義父母の眠る墓地の途中にスーパーで買い物をして帰るコースである。往復で8000歩は快適な疲労感を伴う場所でもある。教員現職時代にも「対話」の考え方を工夫して生徒指導をした実績もあり、そのスキルで大人社会でも対話力の効果を得たことがある。「歩きながら話す」対話もあることを読者の皆さんにもお勧めしたい。対話と言うと向かい合うと曲解する人が多い。進路相談も、生徒と対応する場合に、「掃除をしながら」とか「窓から見える富士山を見ながら」対話をして本音を探ることで成功した例は数多い。
転居してからの老妻の苦労や悩みを「横で」聴きながら歩く。いい加減な爺のいい加減な対応と思いきや、本音が語れる隊形であることを今日も感知した。お試しあれ!
お彼岸に供えた花がもう枯れている。きれいに片づけると「心も洗われる思い」になる。そんなコースが設定できることは至福である。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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