2010/11/10

TV番組 : 先生たちへ 繰り返されるいじめにどんな対策を?


~たかがTV番組
  されど・・・・~
 昨日の夕刊記事(左)がとても気になっていたところに、タイトルに示した番組が放映されることが合致した。小生は殆ど昼間のテレビ視聴は無い生活者である。だから、午後の言動に妻が驚きながら付き合って画面を見てくれた。
 番組構成とかコメンテーター(?)の顔ぶれ等は番組選択基準には無い。タイトルが「先生たちへ」との呼びかけ表現と、「繰り返されるいじめ」というフレーズに「覗いてみよう」という心境になった。
 やはり、所詮は「元・先生」である。
 担任教員時代のあの頃も「いじめ」は存在していた。いじめという表現も「理解の歴史」は長い。小生が小学生時代にもいじめは存在していた。拙著にも自身の苦しかったいじめられた体験談を記述した。あの頃は「いじめられる側」に全ての非難が集中していた。「いじめられたらいじめ返せ」、と家人は大声を上げて叱咤激励したモノだった。弱虫というレッテルを貼られた哀しい時代であった。「男らしい」という伝家の宝刀は、時としてそれらしい振る舞いが出来ない「男の子」にとっては人生の落人であったような思いであったが、今は、違うぞ。それは、育んでいただいた「先生たち」や立派な大人の皆さんのお陰なのである。
 時代はあれから50年(半世紀)以上も経っている。
 それでも「繰り返される」いじめが顕在しているようだ。現実問題として、小学校6年生の女児が一つの命を自らが絶ってしまったではないか。要因を「いじめではない」との方向性を出す・出さない、と言うことが問題ではない。一つの命が何らかの状況下でこの世から消えてしまったことを、他人事にして欲しくないのである。それが世論の中心になるべきだ。
 そんな思いで見ていた画面に「尖閣諸島のビデオ流出事件の該当人物が・・・」とテロップで流れた。大人社会の違った側面をまた見せつけられる。切ない瞬間でもある。
 いじめであろうが、このような「あってはならない事件」であろうが、「何でもあり」の社会事象が多すぎる。「社会生活での是非善悪の判断力」を麻痺させてしまいそうな世相が怖くなってしまう。
 長閑な爺と婆二人だけの昼下がり。
 午前中の強い風もいつしか止んで、窓から差し込む西からの陽ざしに熱いと感じるほどの時間。しかし、心の中を吹き抜ける「多すぎるほど」の事件や事故に心が底から冷え込んでしまう思いになった。同時に、「孫世代」が生きるこれからのわが国に不安を感じてしまい暗い気持ちになってしまった。
 「学校の先生たちへ・・・」 
 先輩として、心からお願いしたい。弱いからこそ「先生たち」の助けを求めている子ども達がいることを決して軽視しないで欲しい。先生も辛いことだろう。しかし、「せんせい」と呼ばれる職業の意識を、改めて自己認識に置き換えて欲しいのである。大人に期待している子供達に、安心と安全を確保してあげて下さい。お願いします。
 教育者のみならず、この世代を生きる「全ての大人」が真剣に考えないととんでも無い時代を残してしまうことになるのではないか。「大人の責任」を考えてしまった午後である。
 

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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