~何にもしないで「一日」が終わる~
ちょっと朝寝坊で今日の一日は始まった。
4時に目が覚めたのにラジオのスイッチを入れ忘れたのが今日の始まり。昨夕のTVサッカー応援が通常の就床時刻が遥かに超えていたのが原因であった。加齢すれば睡眠時間は減っても大丈夫だと聞いていたが今朝は、「未だ若かった」ことにしよう(笑)。昨日の激務(10数通の添削業務)の名残も老体は記憶していたようだ。その疲れが早朝まで身体に宿っていたらしい(笑)。
朝食が済んだら母屋に届いた朝刊を読む。
何ら進展しない(らしい)「震災救済事業」を活字で確かめる。哀しくなる。被災地への思いが募る朝である。ロスアンジェルスに住む(妻の)従姉から電話がかかった。個人的な話題は別にしても、現地の様子を聴いて啞然とした。現地に住む日系人の話題は悲痛にも似ているというではないか。「祖国・日本は大丈夫か。どうして確かな進展が無いのか」と心配していると言う。
電話を切って、しばらく老夫婦には会話が無かった。
ここ(「転居先=茨城県土浦市」)に転居して間もなく、「やっと2か月」である。余震の影は潜んではきたものの油断はできない。時折、茅ヶ崎では体感しなかったような地震を未だに意識する。ロスに住む日本人の皆さんの「故郷への思い」も、もっともっと自国民が感じなくてはなるまい。
今日という日は、全く何もせずに過ごした時間だった。
孫が帰宅するのを楽しみに待つ「老夫婦」のゆったりとした時間も、たまには良いものですよ。疲れがどんどん取れて行く内に、数日前の筋肉痛に襲われるのであろうか?まだ、今日も筋肉痛の自覚症状が無いのが心配だ(笑)。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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