2011/06/12

早朝の読書で爽やかな衝撃!

 ~講演のレジュメを送ったばかり・・・~
 敬愛する(一方的に)某氏のエッセイを読んだ。
 「学校で育てたい人間像」というタイトルで書かれているので興味津々なる姿勢でページをめくりながら引き込まれてしまった。書物の中の小さな活字が拡大鏡で見るかのような文字化けには、未熟な大脳(老化のために縮んだのはない)に血液が流れ込む音すら聞き取ってしまった程である。これが「衝撃」という現象であろうか。

 ・・・「学校で育てたい人間像」というテーマをいただいて、そこでハタと困った。子どもは「育てたい」のではなくて、「育ってしまう」のである。「ひとりでにそうなる」、それを自然という。自然に対してできることは「手入れ」だけである。なんとか、こちらが思うような方向に行ってくれないか。親ならだれでもそう思うであろう。でもなかなかそうはいかない。うまくそう行っている面については、じつは何も考えていないはずである。そこには抵抗が一切ない。問題がない。それなら「育てたい」もクソもない。当たり前だと思っているだけであろう。手入れという言葉は、自然のものを相手にするときに使われている。道具のように、人工物に対しても使われる。・・・・・・

 講演の主催者に送ったレジュメのテーマは、~教えなければ育たない~である。
 皮肉にもこのエッセイの真逆ではないか。子ども達の自主性を尊重するという主義で「何も教えない」「子どもが自ら考えるまで待つ」指導法だけで対処する教員集団と数多く出会った。その現役時代の苦渋が、いつの間にかこのテーマにたどり着かせたのかも知れない。言い訳?決してそうではないが、小生には小生の根拠もあり講演会場でその主旨を伝えて来なければいけないと深くため息をついている。ブログでは多くを語れない。「育てたように子は育つ」という書物もある。我々老夫婦の子育ての結果を語る時の「慰め合い」の言葉が実はこれである。3人のわが子の現状を見つめながら「育てたように育ってしまったね」、と目と目で語り合いながら、「どちらの責任でもないよね」、と言及する視線に落ち着くのである。
 特集『いま、教育に求められる人材育成』の巻頭言にも当たるようなポジションに掲載されている。第1ページからのエッセイ(上掲)を一通り目を通し終えた朝は、思考回路の血液循環が良くなったような爽やかな衝撃を受けた「至福の時間」ともなった。
 ところで現況を・・・。
 今朝は、ほぼ1週間をボケ~っとして過ごした老脳に喝を入れられた気分である。今日は正真正銘の「お仕事」である。午後日程の講座に登壇するために横浜市まで行くことになっている。幸いにも晴れ間も見えてきた。上りの常磐線(75分間)で、もう一度某氏のエッセイをじっくり読み直すことにしよう。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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