
このブログで最近、「月刊誌」を話題にすることが多くなっている、と読者の方々からメールが届く。「そうかな?」と自問する。そう言えば、講座や講演会場にも『旅の友』(=月刊誌を勝手にネーミングしているだけ)を持ち込んで、提供する話題のつなぎに使っていることに気が付いた。この気づきが自問に対する自答である。現在、連続講座を担当している会場に集う聴講生の一人から、「先生、私も◎◎という雑誌を以前読んでいました」と声を掛けられ驚いたことも思い出した。「そうだよ、確かに月刊誌の記事を話材にしている」ことに気づいて、全国の愛読者からのご指摘にも妙に納得した。
ところで、今日の紹介も月刊誌(「致知」7月号)の記事『致知随想』からである(写真版)。
注目をしたのはタイトルの表面的な「・・・学力日本一の町」というものではない。投稿者(氏)の哲学(=朱書きで上掲)である。全国の教育現場を巡りながら、「ふと、思う」ことがある。教育行政のトップには教員経験者が選出されている場合が殆どである。そのこと自体には依存など全くない。どんなポジションも経歴や実績ではなく「その人となり」だと確信しているからである。学力日本一の町には教員経験者のトップではない人材が配置されていることを真摯に受け止めた。人選の経緯や深意はわからないが、活字を追いながら唸ってしまった。教育は教育に精通している人だけの聖域だと考えるのは非常に危険であると痛感したからである。他業種で半生を賭けて生きてきた人材は教育界でも威光は放てるのである。
逆に望まれる教員経験者はいるのだろうか?そんな投げかけをしてみてハッとする。そんな力が自らには存在しないからである。「学校の常識は社会の・・・」とは、まさに的を得た表現なのだろう。せめて、学校教育に携わっている貴重な存在である教員集団が、社会の常識を受け入れつつわが身を磨くことの重要性に気づいてくれたら、この複雑な社会での学校教育も重鎮的存在に生まれ変わることだろう。現状の教育界を攻撃しているのではない。自己反省を基にした自らは成し得なかった難題の解決に期待しているという真意であることをお分かりいただきたい。
「明日の教師」を目指す集団の指導をしながら、こんな思いも彼らに伝えたくなっている朝である。
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