2011/06/18

新聞記事に思う

 ~母語は道具ではなく、精神そのものである~
 外国語を学ぶことは素晴らしいことである。それが「英語」に限るものではない。外国の人と交友するためにはその国で使用されている言語を習得しなければなるまい。更に親しくなりたい場合には、その国の風習や伝統も理解した方が良いに決まっている。つまり、母国語を理解するための条件である。我が国には「英会話」という妙な日本語が存在する。「会話をする」と言う定義を疑いたくなる。英会話学校とやらの存在感をずっと否定しつつも絶縁するところまで至らなかったのは、この記事の終わり6~8行に解説が付けられているので不思議なほどに納得してしまった。
 書けるが話せない、読めるが聞けない(11~12行目)。
 日本人の外国語学習の始発点に「学校教育」というステージがある。受験英語というツールの存在を重視してきた学校教育のツケは大きい。しかし、それだけではないことも作家の井上ひさし氏が証明していただいている。『母語は道具(ツール)ではなく、精神そのものである』とは、外国語と母国語の大きな差異を言い得て妙である。
 母国語は「精神そのもの」とは?
 この命題を、これからの小学校英語学習を進展させていくに当たる関係者各位には十分に理解していただきた。これは願望でもなく熱望でもない。切望である。「望み」という日本語は、願望・熱望・切望と小刻みに、しかも微妙なニュアンスを違えながら個々に存在する。それほどに緻密で且つ曖昧な意味を携える素晴らしい言語であることも再確認したい。その上に立った母語の授業を真剣に開発してほしいのである。
 曖昧な日本語こそ日本という日本人にとって「母なる国」に確立している文化に立脚している世界無比なる立派な言語である。英語が話せる日本人ならば、日本語の精神をしっかり身に着けて世界を羽ばたいて欲しいと願うばかりである。
 小学校から「英語教育」が始まる新時代が到来したと意識することは「母語(=国語)」教育の見直しが必須であることを頑なまでに叫んでおこう。
 
 今日は転居後2回目の「里帰り」です。
 妻も同伴して出発します。妻は、転居したまま放置している旧宅の草取りと部屋に風を入れるために随行することにしたようである。小生は、今日の午後は茅ヶ崎での『響の会』のセミナーに出講して、明日は横浜での担当講座で講義をする予定になっています。留守しても母屋の長男一家がいるのが何よりも安心です。当ブログは、次回は20日となりますのでご了承願います。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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