~貴重な情報を授受して~
世はまさに超高速情報化時代と実感。
当方のブログでのぼやきに数通のメールや電話が届きました。そして、その情報に基づいて今朝、8時半から老妻と一緒に画面に釘付けになってしまいました。前回の場合は、リモコンの悪戯的操作の先にあの番組がありました。今回は、初めに「見たい番組」ありきの状態での対応となりました。前回は見過ごしてしまった未練心から「録画撮り」というつぶやきを発してしまいましたが今朝は違いました。メモするノートも準備して待機する対応です。こんな場合は録画撮りの甘えはありません。
★今、美しいだけでなく1000年先の美しさを追求して作り上げる ★解体することができるには、解体しながら当時の技術や文化を知り再現できる能力があるという資格が必要である。★1本たりとも同じ木は存在しない。★どんな木でも、時間が経てば曲がるものである。★切れる刃物は嘘をつかない。だから研ぐのである。★どんな仕事も一人前になるには最低でも10年は掛かる。その最低条件がその仕事が「好きである」ことではないか。
実はここに列挙した事柄以上に、胸をえぐるような表現がありました。ドキッとするような言葉ですが小川三夫氏の言葉はさらりとしていました。それについては、どっかの会場で「披露する気分」になりましたら公開(講演)することをお約束します。いつ・どこで・誰に・・・・は、現状では全く未定でございます。ご了承いただきたい。
ビデオをお撮りになった方は、当方の胸が締め付けられた場面を再度ご覧戴くことをお願いします。収録ビデオテープをこちらへ送付等のお気遣いは無用です。直に、ペンを持って記録しましたので十分に資料化することができます。情報のご提供、本当に有難うございました。
研いで、研いで、研いで、その行為に明け暮れることで初めて精神が研ぎ澄まされる、のだそうです。研ぎ澄まされた感性の世界で授業をやってみたくなりましたが、研いで、研いで、研いでいる内にわが人生も終わってしまいそうです(笑)。
読者の皆さんには、ご自身の将来のためにも、今の時間を「研いで」過ごされる事をお勧めします。要らねお世話とわかりつつ述べることが研ぎ澄まされていない精神状態の証でございましょうかね。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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