妻も頑張って歩けるようになったのが心強い。
帰宅すると6時の時報がラジオから聞こえてくる。パンとコーヒーで朝食が済むと、ラジオ体操である。これで早朝の『我が日課』は無事に完了。東京への出発指示が母屋から届くまでのんびりだ。朝の空気はいつものことながら身体の深部まで爽やかにしてくれるのが至福である。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
先日、広島市での会場で関係者と話をしていると、「疲れるからそろそろ広島遠征も終わりにしようかな」との話題に辿り着いてしまったのです。「角田先生、広島にも空港があるんですよ」と返されてしまいました。それに返す言葉もなく、次回(7月5~7日)の広島行きも空路になってしまいました(笑)。
朝礼台から指導される「怖い体育(系)の先生」からの叱咤の声が運動場を木霊して幼い少年の耳(鼓膜)を振わせて緊張感を募らせた。「やりなお~し!」が何回続いただろうか。児童が倒れて校舎の日陰に運ばれる光景が続くと、「気合が入ってないから倒れるんだ」と檄が飛んだ。定例の朝会でも倒れる友人に「根性なし」とレッテルが貼られる時代だった。是非論を提供しているのではないが、価値観や教育観は確かに時代と共に変容していることは確かである。