~現象は閉じても心の中に残ったモノは・・・~
尋常の沙汰ではない。
こんな日本語を思い出させる事件であった。こんな事件は思い返しただけでも心が痛んでしまう。被害に遭われた数えきれない犠牲者の中で、幾つかのお顔やシーンが浮かんで来る。哀しさで遣り切れなくなってしまう。宗教力とは怖い!
昨日は民放のテレビは最後の逮捕劇の報道で埋め尽くされていた。見るとは無しに画面に視線が行ってしまう。おぞましい!!何度も口走りながら腸が煮え繰り返る思いである。20年間近くもこれだけの包囲網を掻い潜り逃亡し続けたエネルギーが勿体ない。個々に持っている有能性がエネルギーの掛け方でここまで違った出現状態になるとは??
今日は、早朝からの出講なので詳細は論述できない。「教育をする」という業の成果の怖さも痛感している観点から、近日中に考えを述べてみたい。
今日の出先は小生の第二の故郷・茅ヶ崎市である。
『響の会』という教員の自主研修会を立ち上げた地である。奇しくも、逮捕された犯罪者が逃亡し始めた年に発足した会である。あれから17年間の歳月が流れていると思うと複雑な心境になってしまう。そんな思いを複雑に絡ませながら17年も付き合ってくれている「茅ヶ崎の友」に会いに行って来よう。
小生の第一の故郷は、「誕生して18年間過ごした」九州の熊本県である。熊本県八代市は決して忘れられない「幼き日々を過ごした」大好きな地である。昨日の逃亡劇に『幕が下ろされた』宗教をこの世に開こうとした人物が誕生した地と全くの同郷なのである。同郷人の罪業に小生の心の痛みは治まりそうにもない朝である。外を打つ雨音は、犠牲者の方々の悔し「涙」の音かも知れない。事件の終幕は下ろされても被害者やご遺族、関係者の方々の心に付いた傷や痛みは簡単に消え去ることも無い。ホントに悔しい思いである。
ご冥福を心から祈りつつ準備を始めることにしましょう。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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