~「時間に追われる」のがイヤで『せっかち』になりました(笑)~
他人やきょうだいは小生の事を「せっかち」と言う。
決して否定はしない。しかし、非難をされるモノでは無いと確信しているが、時として周囲には「せっかち」は嫌われる。常磐線を利用する生活者になって1年間が過ぎた。以前は東海道線が旅の始発点だった。列車ダイヤの密度は雲泥の差である。茅ヶ崎では「一本の電車に乗り遅れても」人生にはさほどの影響は無かった(笑)。しかし、今は違う。一本の電車が発ってしまったら30分間を待つことは常識である。そして、遅延と遭遇すると数多く追い越していく特急電車を各駅で待機しての発車となると、新幹線や飛行機の時刻に大きく連動してしまい到着地への予定時刻が大幅な遅れとなってしまう。となると、「せっかち」者は、1時間に2本しか走らない電車の1本先の電車に乗りたくなってしまう。家人は苦笑する。
時間は待ってくれない。電車も飛行機も待ってくれない。待ってくれるのは??締め切りが「在って無い」のが、学校教育界の常識であった。校長時代を懐かしく思い出している。時間を守らない教員集団に何度大声を上げただろうか。決して怒鳴ったのではない。警鐘を鳴らしたという意味である。定刻に集合した参加者を待たせて始める主催者の間違った配慮を詰ったことも、今となれば懐かしい。会議も長い。終わる時刻を決めていない研究会の延長時間になると苛立った。
時間に追われ、追いかけられ、追いつめられる人生は嫌いだ。
そんな哲学を抱くようになったのはいつ頃からかは記憶していないが、だらしない集団心理の体たらくにウンザリすることが多かったからではないのか。
時間を追いかける人生を送りたいモノである。原稿執筆依頼が突然に飛び込んでくる。締切日指定が1週間後のモノがメールで届くこともある。編集者の苦労を忍びつつ執筆する。そして、締切日前には送信を完了する。依頼した執筆者に何かが起きたのだろう。こんな生活信条が「せっかち者」を育成してくれたようだ。
今日は時の記念日。
子ども時代を思い出しながら「時は金なり」と書かれた黒板の文字が浮かんできた。良い教育を受けた時代だった。しかし、そんな「とき」ももう戻っては来ない。神様が全てのモノに平等にお与えになったのが「1日は24時間」だと、説かれた小学校時代の恩師の声が天上から聞こえて来そうな朝である。使い方次第で24時間は生きることもあれば死ぬこともある、と教わった。
読者の皆さんの「時間との闘い」状況はいかがでしょうか??
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