どうやら誤解をしていたようだ。今の時代の子どもはキュウリを丸齧りすることは出来ないようだ、と。
リビングの窓を開けると、庭先とは名ばかりの「猫の額」ほどのスペースがある。すぐに庭に出ることが出来る。そこにキュウリとインゲンと茄子とピーマンの苗を買って来て植えてみた。収穫への期待度はゼロ。
このブログの画面でも紹介したが、信じられないほどに成長する苗木があることに気づかされる梅雨時期である。キュウリなどもう背丈ほどに伸びている。大きな葉っぱに隠れて見えなかったがこんなに大きくなっていた。母の日に貰った紫陽花も鉢植えから地植えにしたが、雨に強く逞しい新芽を出して、老妻は来年が楽しみの様である。昨年長女から届いた紫陽花も確かな生命力を発揮しているので種類の違う紫陽花の「花の競演」は小生も楽しみになって来た。
キュウリを捥ぎながら、孫が「痛い」と叫ぶ。キュウリのトゲの様だ。祖母ちゃんが「トゲがあるのは新鮮なんだって。きっと美味しいと思うよ」と説明すると、「食べたい」と絶叫する。十分に水洗いをしてもらう時間も待ちきれないようにしてキュウリに齧り付く孫の姿を見て、「なぁ~んだ、今の子も食べれるんだ」と妙に感心してしまった。そこには勝手な思い込みと言うバリアがあったようだ。
「旨い!」を連発させながら食べる姿は大昔の(笑)自分を見ているようだった。おやつなんて何もなかった時代は、庭先のトマトやキュウリを捥いで来て(洗わずにシャツの裾で拭いて)縁側に座って齧りついたモノだった。腹ごなしを終えてから友人と遊びに出て行った。セピア色の思い出である。
自然環境と触れ合う日常生活がない孫世代だ。無から有は生まれないのだから、キュウリが生っている状況下に無ければ食べるという行為の食欲は無い。恥ずかしながら、小生は生家が農業だったことにコンプレックスすら感じてしまった日々がある。キュウリやトマトを食べるよりパンを買って来て食べたい願望に脳味噌は支配されていた。農業を継ぎたくないばかりに(笑)、懸命に勉学に勤しんだ(?)のである幼かりし日々が自責の念までは無いが自分史には明らかに刻まれている。
小さなザルに載せてみる(写真)と自然の恵みの威力に感動である。転居先のここでもご近所には農家も多くあり、市場に出した残り物と言いながら届けていただく老女もおられる。彼女が栽培されるキュウリは既に「離れ」の我が家のテーブルにも数回載っている。新鮮な美味に舌鼓を打ちながら完食している。
農家で生産された立派なキュウリより、ど素人の祖父ちゃんと祖母ちゃんが丹精した(笑)ミニの畑に生ったキュウリが旨いらしいのは何よりのご褒美だった。「現代の子ども」でも齧り付くことが出来ることも学習した。「お天道様に顔向けできない」とか「お天道様に感謝」などの祖母の言葉が、こんな小さな収穫(=自然の恵み)にも蘇って来る。嬉しい限りで、正真正銘の「至福の時間」ではないか。
曲がったり、成長し切れなかったり、大きく立派に成長したキュウリを見詰めながら、「人間も同じだなぁ~」、と感じ入るのは職業病の症状かな?(笑)
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