2012/10/30

年末の佇まい

 ~年賀状購入の案内パンフレット~

 先日、久しぶりに郵便局に立ち寄った。荷物発送の用務を終えて、葉書と切手を購入して帰ろうとすると局員から声が掛かった。「お客さま、年賀状のサンプルがわかるパンフレットはいかがでしょうか?」と。拒む理由も無いので手にして局を出た。

 家に持ち帰ってじっくりと見詰めながら「年賀状」という季語に触れた瞬間、「もう、今年も「年の瀬」か!?そんな呟きが飛び出した。考えてみれば、当地から2回目の年賀状投函になるのか、と神妙な気持ちになってしまった。地元の色合いがあるデザインの年賀状を何枚買おうかと思案も後に続いた。

 今日から長期の出講になる。

 高知市から広島市へと移動日を入れた行程となる。以前、佐賀市の講演を終えて福岡空港に移動してプロペラ機で豊後水道の上空から高知空港に着いたことを思い出した。今回は、高知から広島への空路が無いので、高知駅から岡山駅まで移動して新幹線を利用して広島駅に向かうしか手段が無い。

 そこで、善通寺市で校長を退職した友人に声を掛けてみた。高知からの途中下車を考えたのである。運よくお昼ごろには会えることになったので中途休憩をして旧交を温めつつ広島に向かうことが出来ることになった(謝)。岡山県新見市にも友人がいるので、時として再会の時間を取ることもあるが一度に2回の途中下車は時間的に厳しいので今回は岡山の友人には一報をしてはいない。

 高知から愛媛への「移動の旅」がすんなり出来れば、憧れの詩人・坂村真民の記念館(松山市)経由で広島に移動したかったが少々無理なようである。改めて未だ踏み入れたことが一度も無い愛媛県への旅は考えることにしよう。

 ところで、読者諸兄に質問。

 小生は都道府県のなかで「2つの県」だけで「仕事」をしていません。どことどこでしょうか?(観光目的では行っています)

 今朝は冷え込んでいます。皆さんの地方でも冬の到来が近いことを感じられる朝だろうと思います。そんな時期に本年最大の長期出講に出向きます。元気で動ける身体に感謝しながら「待っていただいている」方々の地に向かいます。行ってまいります。

 ブログは暫くの休刊です。ご容赦願います。

2012/10/29

「お礼状」という日本文化

 ~誰に何を感謝するのか?~

 加齢に伴って何かに関われば「お礼状」が届くことが多くなった。礼状をいただくのは決して気分は悪くないが、この歳になるとお礼状自体についても考えることも多くなった。

 誰が?誰に?どんな事で?

 屁理屈を述べるようになると人生も黄昏期なのか。いや、幼児期への戻り現象なのかも知れない。どうして?何故?と繰り返し問いかけながらも正答を追究するわけでもないからである。

 退職して(要請に従って各地の)様々な人たちが集う場所で講演や講義をするために出向いている。明日からも高知市~広島市と長距離の移動でその類に対応することになっている。初対面の場合が多いが、常連客(笑)もあるので再会の感激も味わうことが出来る。乙な仕事であり、止めることが出来ないのも神経が鈍ってしまっている証しかも知れない。

 神経が鈍ると感情表現が疎くなる。

 最たるものが「感謝の気持ち」が焦点ボケしてしまうようだ。当事者意識がビタミン不足状況に陥るのかも知れない。誰かの熱意と力量で拵えてもらった土俵に載せられて勝利を味わうかのような誤解に気付かずに酔いしれて台風一過の秋空に、「感謝の気持ち」が吹っ飛んでしまうのだろう。

 お礼とは、形式ではなく、内容である。表現ではなく、気持ちである。

 『御礼』という日本文化の本質を論究するほど学びは深くないので敢えて論じることは出来ないが、感謝の気持ちを表するには屁理屈は要らない。美辞麗句を並べた礼状を読んだ瞬間に、「二度と行かない」と意を決する天邪鬼が小生である。

 本気で本音で要望も含めた「お礼」が欲しい。上下関係から成立するのが「お礼」と考えるのは間違っている。偉い地位、とはどこまでを言うのかはわからないが、偉くなった人は、「お礼」は述べなくて良いのだろうか?

 他人事では済まない。己の猛省を述べよう。

感激のあの日から、もう1週間以上が過ぎた。50歳も過ぎた卒業生との再会の機会を戴いた。そして、たまたま当日が小生の誕生日だと言うことでケーキまで準備して待っていてくれた。中身の無い恩師との再会だっただろうが、8年ぶりの再会には老脳にもかなりの刺激は走った。感激と感涙を礼状として一人一人に宛てたかった。うっかりして参加者名簿を貰って来るのを忘れてしまった。幹事役の卒業生にお願いして郵送してもらった。感激も感謝の気持ちも10日も経って届けるようでは、「気の抜けたお酒」のようなものではないか。

親しい著名な学者が葉書を持ち歩いていることを知った。彼は、帰路に着く駅や空港の待合室で「礼状」を書いて投函するのだそうだ。彼に学んだ哲学は、「礼状は感情が失せない時間に届くが一番。内容より速さだよ」であった。主宰者だった当方にも講演の翌日には彼からの礼状が届いた。大きな文字で字数は100文字を超えていなかった。しかし、感激した。

 今回の卒業生には、謝罪と感謝の意を込めた礼状が「昨日」届いただろう。再会の感激から8日目である。学んだ筈の人生哲学が実践されない自身への戒めを葉書にした礼状でもあった。卒業生よ、許されたし!!

2012/10/27

歩禅の記(5)

~小学校の「秋祭り」~

 孫がお世話になっている小学校でも「秋祭り=学校によってネーミングは異なる」があると言うので老妻と一緒に「歩いて=「歩禅」」出かけた。「お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも来れる?」と、未だ意向を質す年齢なので、行事を参観しても良さそうだと判断した。

 早朝歩禅コースにある小学校なので時間的には15分では到着する距離にある。嫁と末っ子の保育園児は8時半には車で出かけたが、我々夫婦はプログラムを見て9時半開始の「金管演奏」に合わせて出発した。全校児童が200名に満たない全学年単学級規模なので演奏発表を聞きに集まった児童の集団が体育館の広さに比べると極小の面積に座っていた。

 楽器(金管)演奏を聴くたびに感心することがある。

 「練習という訓練」によって、ここまで演奏が出来るのだ、という劣等感が唸らせるのである。自慢ではないが楽器と言う楽器で演奏できるものは何一つない小生である。小学生時代に友達のお姉さんがバイオリン(=当時は名称も知らず)の演奏を小学校の講堂で聞いた。高い音の細い音色のきれいなことに感動した。遊びに行くたびに弾いてもらった。幼心にも優雅さが伝わり、心が澄んでいくような気分にもなったものだった。

 孫の叩く大太鼓の音色を聴きながら、「いつ、こんな技能を体得したのかな」と呟くと、隣席の老妻が、指揮をしておられる先生を見ながら「教育の賜ですよね」と返答した。分かっているが呟いてしまうのである。

 教育現場から遠ざかっておよそ10年になる。日常的な「指導と訓練」風景を飽きる程見続けてきた小生であるが、今日の鑑賞視線は違った。「孫の演奏」を聴くために祖父母の姿が多かった勤務校の多目的ホールを思い出した。そして、今、己がその立場にいることに気づいて苦笑した。

 30分間の『学校現場』に滞在して満足して小学校を出た。早朝歩禅のコースを通常通りに回って帰宅した。学校では、演奏会の後に学年ごとのプログラムがあることは知っていたが、歩禅の一環として立ち寄ることで孫への配慮も果たし事になるので残りのプログラムは母親に任せて帰って来た。    【5600歩】

2012/10/26

「時機の早晩」を考える

これは広島の小学校でご案内戴いた場で偶然出会った坂村真民氏の直筆書です。2009/07/02 撮影(本人)
 
 ~「二度とない人生」と言うが・・・~

 大物政治家の現職辞職のニュースが飛び込んできた。夕暮れのTV番組でちょっと覗きたい番組があってスイッチを入れた瞬間だった。思考回路(老脳)を過ったのは「時機の早晩」というキーワードであった。

 実は、お目当ての娯楽番組とは日本プロ野球のドラフト会議の中継であった。昨年のこの日に下された球団の交渉権を拒んで1年間を過ごした選手への、主体である12球団の次の手立てを確認したかったからである。その瞬間をライブで見たいと言う単なる野次馬根性だった。少々恥ずかしい思いもしながらも結果を確認することが出来た。結果自体への批判中傷は全くない。

 そこで二人の「人物」についてふと、愛読書の内容を思い出した。

 『人生二度なし…』と論じる森信三氏と、『念ずれば花開く』と述べる坂村真民氏である。80歳の大物政治家には『人生二度なし…』を、そして23歳のプロ野球選手になる青年には『念ずれば花開く』という書物を当てはめて思いを巡らせた。

年齢差では単純に『時機の早晩』等の比較は出来ない。ましてや、活躍分野も全く違うからでもある。しかし、小生にとっては十分に比較できる領域が存在する。それは「二度とない人生だから」という理念の土俵である。

年齢も「考え方」によってどうにでも曲解できる。

80歳。人生の残りの日々を単純計算しても、「今さら・・・」と矛先を収めてしまうだろう。そして周囲の多くの人は納得する。しかし、「二度とない人生だから」の理念で追及すれば、残された人生を悔いの無いモノにするために「できること」にチャレンジすることは、また多くの人の関心を集めても押し止めることはするまい。

23歳の青年にとって、1年間の待機時間は人生の何年分に相当したと考えるのだろうか。システムだから仕方が無い。「勝手に待ったんだから」との発言は厳し過ぎないだろうか。機構やその組織についての是非論はこの場には似合わない。この青年には『念ずれば花開く』という信念で、これからのプロ野球人生で「花が咲いて」くれることを祈るばかりである。

早朝歩禅で出会った老紳士が後輩の我々夫婦に、「どんなに生きても、あと10年の保障は無い。無理のない生活を楽しく過ごすんですよ」とアドバイスを戴いた。その後も歩きながら夫婦の会話も、「あと10年の命の保障は無いかぁ~」で一致した(笑)。二度とない人生を、人それぞれが人それぞれの道を歩んでいる。

森信三氏は著書で読者である教師に向かって言い続けられた。
・・・・・教育とは流れる水に文字を書くようなはかない仕事なのです。しかし、それをあたかも岸壁にのみで刻み付けるほどの真剣さで取り組まなければなりません。教師がおのれ自身、あかあかと生命の火を燃やさずにいて、どうして生徒の心に点火できますか。教育とはそれほどに厳粛で崇高な仕事なのです。民族の文化と魂を受け継ぎ、伝えていく大事業なのです・・・・・

 80歳にして新たな挑戦を志す政治家、これから日本のプロ野球で大輪の花を咲かせ国民に夢と勇気を与え得るスポーツマンにも、この本文の「教師・教育」という言葉をその世界の言葉と入れ替えても不自然ではない。ここが森信三氏を尊敬する所以である。

 「二度とない人生だから」、と詠う詩人・坂村真民氏の詩行にも、同様に二人に贈る温かい励ましの言葉が多く詠われている。茨の道を切り開かれんことを祈る!
 
歩禅の記録 【08:25~09:35 7100歩】
初めてのコースを歩いたので道に迷ってしまいました。(笑)

2012/10/25

歩禅の記(4)

 
歩禅の記録【08:25~09:35 7100歩】

 ~視界が変われば視点も変わる~

 以前にも触れた話題ですが、この歩禅のコースも歩く方向を変えるだけで別世界のようになるんですよ。夏の間は朝陽が射すと熱くなるので真っ暗な時間帯に家を出ます。足元も馴れた道であれば窪みも水溜まりの位置でも身体は覚えています。だから、決まった時間に決まったコースを歩けます。つまり、明暗の具合はその日によって程度も違いますが、視野に入る景色は全く同じものなのです。従って、視点にも影響はありません。つまり「見えない」部分も結構多くあるということです。

 衣替えも済んだ10月からは、8時半を出発時刻にしました。

 明るくなっているので見たくないものまで見えてしまいます(笑)。いつもの景色に慣れてくると視野の持つ癖も手伝っているのか倦怠ムードでの歩行になってしまうんですよ。そんな頃になったら、同じコースを全く逆方向から歩き始めます。

 今日はそのファーストチャレンジでした。

 全く逆方向とは言っても少々の道の変更もあります。しかし、90%は同じ道程です。だから、振り向いてみるといつものコースであることが確認できます。刈り取られた田んぼには切り株から芽が出て低い丈に米粒がなっています。全く同一風景で変化は何もありません。ところが方向を逆にして歩くとその背景が違うので、視点は定まりません。その所為でしょうか?まるで初めて見るような風景に生まれ変わった視野が展開されるのです。読者諸兄も一度試みてください。

 農作業する人たちも見慣れた「散歩人」が方向を違えて歩いていることに気付いてくれません。茶目っ気たっぷりの遊び心が展開されて、性分にマッチしているのかとても歩くのが楽しくなります。

 校長の現職時代に、「校長が替われば学校が変わる」というフレーズが氾濫しました。そんなことを思い出しながら今日の歩禅から帰って来ました。視点や観点が変われば、印象が変わることには納得です。空気まで変わったような気分です。人物の交替をしなくても、同一人物が視野と視点を工夫して摂り込んだら人間味の味覚変革に繋がると言うことになりませんかね?

 調子に乗って歩いたら65分も歩いてしまいました(笑)。

しかし、こんな単純な方法では明日の保障はございませんよね。そんな自省を含めて「人生は工夫次第でどうにでも楽しく有意義に生きられる」と、自らに言い聞かせつつペンを執りました。

2012/10/24

歩禅の記(3)

歩禅の記録【08:35~09:30 5600歩】

 ~風の冷たさはやっぱり「北関東」~

 若干遅れの出発ではあったが、「秋晴れ」と言うより小生には「初冬の」の澄みきった青空と表現したくなるような陽気の中の散歩である。

昨日はいつもながら(隔週予定)の鍼診療日であった。前回もそうであった(笑)が、帰路の中央快速線の人身事故で三鷹まで到着せず途中駅で止まってしまった。復旧の目途が立たないと言う車内アナウンスに応えて、まだ動いていた下り線(立川方面)に乗り換えて、立川駅から南武線に乗って川崎駅経由で上野駅に辿り着いた。約2時間のロスタイムを生じてしまい老夫婦のエネルギーも限界だった。

 そんな疲れも今朝の好天に救われて勇んで歩くことが出来た。

 田園地帯の西に聳える筑波山が今朝はとてもきれいに見えた。早朝歩禅コースの鶴沼を回りたいと言う老妻の要望に添って方向を転換して歩いた。明るくなる頃には既に帰宅していたので陽射しを受けている湖面を眺めたことはなかった。また趣が違って良いモノだった。

 帰路にある林の中から、独特な匂いがした。

 熟して落ちた銀杏の実の匂いだった。好物だと言った夫のために銀杏の実を拾った妻が全身蕁麻疹に罹った思い出の話になるのが、「この匂い」がきっかけである。その度に苦笑する。まだ、小学生だった我が子どもたちも小生も一緒に拾ったが犠牲者は妻だけだった。その後、かなり長い期間、「銀杏料理」は食卓には載らなかった。今は、何事も無かったように振る舞ってくれるので若き夫婦時代の小さな思い出として、この時期になって口に上るのである。

 ほぼ1時間を歩いて帰宅すると、庭先に干していた(昨日の雨に濡れた)傘が風で飛んでいた。洗濯物も風に吹かれて気持ち良さそうだった。

 南向きで陽射しを遮る建物も大木も無いので母屋のベランダに干してある洗濯物も、平屋の離れの軒先に干している洗濯物も日光時間が少なくなる冬場でも一日で洗濯物が十分に乾くらしい。老妻にとっては何よりも嬉しい事らしい。

 歩禅で温まった身体は、温かい陽射しと爽やかな風(ちょっと冷たいかな)で身も心もリフレッシュできたようで、昨日の疲れも消え去った。

2012/10/23

原因と結果

 ~「結果」に驚いてばかりでは進歩はない?~

 ●10月17日=144件 ●10月18日=168件。

 この件数は、当方のブログを覗いてもらった回数なのです。このデータを確認した当事者は仰天してしまいました。「何かの間違いかな?」と、決して間違うことの無い有能なパソコン機能を疑ったりするほどの結果でした。

 『ブログ』なるコンピュータ機能に触れ始めて、信じられない事象に遭遇して動顚したり、恐る恐る新しい使途に挑んだりしながら今日に至っています。誘導はホームページ管理人の同僚でした。しかし、今では全くの独力で(失敗にメゲながらも)ブログ編集に取り組んでいます。あっという間に打ち込んだ文章やデータが消えてしまうことも数えきれません(笑)。しかしながら、現職が無い立場に追い込まれると「おたく」紛いになってパソコンに向き合う時間も退屈しのぎには役立つものです。

 現状のブログも自らが開発(?)した形式です。更新している内に、「ブログの訪問者数」とやらが数値として日毎に提示されることを知りました。人情ですよね、その数が気になるのは!!

 これまでの最高値は98件でした。平均すると40~50件でしょうかね。それでも毎日のことですから、「爺さんの作業」にしては驚くべき数値なのです。時に70件の訪問者数を目にすると「力んで」編集するんですよね。これも、また、人情??(笑)

 ところが今月になって二日間連続して我がブログ史上最高の数値が表示され、余りの高値にビックリ仰天でした。なぜ?どうしたんだろう??自問しても解明策等が見つかる訳がありません。

 何気なく覗いた、10月17日の玉置崇氏のブログ(=『三楽の仕事日記』 *下記参照)に目が止まった。当方のブログを紹介してもらっているではないか!氏のブログは正真正銘の全国版である。そこに集う熱心な関係者は敬愛する氏に紹介されれば読まざるを得なくなるのは当然のことでしょうね。異常な高数値の謎が解けました。

 結果には原因が必ず付いて回ります。時として原因が結果に繋がるまでに相当の年数が掛かる場合もあるようです。また、原因が誘因となって異なる原因に連なっていることも理解しないと正式な結果にはならないとも考えます。いずれにしても、何事も「原因と結果」のローテーションですよね。良い結果ばかりが先行する人生なんて、あり得ない、ってことです。良い「学び」をさせていただいています!

 19時に名古屋到着。角田明先生にお会いするためだ。実は8月末に、自分にとっては偶然が重なっての今年度最高の感動!と思うほどのある出来事が発生している。
 それというのは、ある職員と話していて、その外国語活動の考えは角田明先生からお聞きしたことがあるよ、と言ったことがきっかけ。なんと角田先生の授業を見て、大学の先生らと共同研究を始めたというのだ。角田先生の授業を企画したのは、僕が義務教育課にいたとき。いろいろとあったが(笑)、県事業として「外国語活動プロフェッショナル派遣事業」が実現し、角田先生らに授業をやっていただくことになった。
 角田先生には県内あちこちで授業をやっていただいたが、角田先生が仮説とされたことが、本校職員によって教材として具現化し、昨日は豊橋でその教材を使っての授業が実現。名古屋に来られた機会の久々の再会となった。
 8月末からの経緯については、すでに角田先生のブログに何度か書かれている。まずは角田先生のブログをご覧いただきたい。
 この歳になっても嬉しい話
 そして、「先生が蒔かれた種が発芽しました」とメールで表現していただいた小牧中学校長(=平成21年度は愛知県教委勤務)の言葉は、小生にとっては退職者人生最高の『金メダル』である。と書いていただいたブログがこれ。
 まず実践あるのみ!
 このような思いをもっていただいた角田先生とお会いしたのだから、話が弾まないわけはない。先生との出会いから振り返った2時間余。角田先生との出会いも、僕の人生にとってはとても幸運なこと。先生に深謝した2時間余。

2012/10/22

歩禅の記(2)

 
08:20~09:15【6400歩】

 ~心が和む路傍の風景(花や樹木)~

 早朝から時刻を遅らせた時間の散歩は、また趣が違う。

 末孫が母親の通勤に合わせて一緒に保育園に向かったのを確認して即刻の出発が「朝の歩禅」となる。湘南の穏やかな地での早朝歩禅は10月末まで行っていたが、当地は北関東に位置しているためか朝晩の気温の低下は老体に堪えるほどである。無理をしての歩禅では意味が無い。転居して1年半が過ぎて、四季の移ろいの違いを老体も受け止めている。

 10月に入ってからは歩禅の「早朝」設定は止めた。色々と試行錯誤を繰り返しながら「8時半の出発」に落ち着いた。コースも早朝歩禅とは違って田園地帯を抜けて車の通りが少ない行程を選べるようにまで地理に詳しくなっているのが嬉しい。

 日の出前の真っ暗な道路を黙々と歩く。これが早朝歩禅であるが、朝の歩禅は陽射しが(今日は)強く、長袖のシャツでは汗ばむほどで歩く環境が同一地域かと思うぐらい違って、趣が違う。早朝の真っ暗な路面に急ぎ足で歩を進める目的は、沼の湖面に映る日の出の光景を見る事だった。まさにその瞬間が醍醐味だった。来年の春先までお預けとしよう。

朝のそれは、足元に「季節の移ろい」が見える。

見たことも無い草花が咲き揃っているのを見るだけでも心が和む。肥沃な土地らしく造園業の植栽地が多い。帆掛け船に剪定されている柘植の樹を発見できるのも早朝では難しい。柿の実が、枝が折れる程に実って朝日に輝いているのを見詰めると「秋深し」を実感する。

1時間の所要時間には変更は無い。

朝の歩禅は9時半ごろには帰宅する。大型店舗の開店時間が、こちらでも多くは10時である。妻の予定があれば湘南ナンバー(まだ、そのまま)の軽自動車でショッピングの運転手になる。昼食前に用務を済ませて帰宅すれば午前中の日程として退屈はなさそうだ。妻の要請が無ければ大好きな「読書の時間」に充てることになる。これも、ちっちゃな至福の時間である。

今日は、孫からの要望に応えるべく料理の材料を仕入れに行きたいと言う婆様の予定に従い、これから出発である。

2012/10/21

教師稼業・回顧録(1)

~正規教員としての初仕事~

「先生は、私たちが中学1年生の時は何歳だったんですか?」と質問が飛んできた。「27歳だった」と答えると、何とも言えない声となって返って来た。我が子が27歳だと言う母親としての反応が混じった声だったようだ。誰かが呟いた。「老けて見えたよね」と小声を発したのも聞き取れた(笑)。

次のセリフが卒業生たちの成長を裏付けた。

「今の27歳って、子どもだね」「昔の27歳って堂々としたオトナだったね」と続く呟きを受け止めながら観点が違うことで理解度が変わることを発言してみた。親の視点と観点は一般論とは少々異なっていることを説明した。今日の集まりは「中学校女子ソフトボールOG会」として8年ぶりに再会であった。私立高校教員(3年)を経て、公立学校の正規教員として一歩を踏み出した中学校の卒業生である。6年間勤務して隣接都市の中学校に異動した。当時の中学生(最上級生)が殆ど50歳の大台の年齢になっているようだ。

運動部員の回想は、これも観点が違う。いい意味での先輩後輩の上下関係が明確である。思い出話は、やっぱり厳しかった練習と勝敗に一喜一憂したシーンが多くなる。指導者の回顧がそこに同時並行して浮かぶ。部を新設して2年で市内大会を制して地区大会を勝ち抜いて県大会に出場したのは快挙であったらしい。常勝チームを負かした決勝戦の思い出話を聞きながら選手としての克己心に今更ながら感涙であった。

ソフトボールは野球と類似するスポーツである。女子がバットを振り回す競技なので「男勝り」という接頭辞が選手たちには付いた。中学校の体育教員になっている卒業生からは「野球部より厳しいノックだった」とばかりに、意地悪なノックの仕方を懐かしく語ってくれた。罵声を飛ばしながらの練習風景は6年間の勤務で有名になってしまっていたようだ。神奈川県下でも屈指の強豪チームに成長していた。今となれば指導者の至らなさも時効として許されるのかな?(笑)

東海道線「藤沢駅」から東京駅経由で上野駅始発の特急電車に乗りついでも3時間は掛かる。宴たけなわの時刻には中座して帰路に着くことを幹事には伝えておいた。中締めをしてもらって帰ろうとした瞬間、ハッピーバースデーの合唱が始まった。準備してあったらしいバースデーケーキが運ばれ、当事者である小生はドキッとしたのである。

我が家を出る時に、年少の孫が「お祖父ちゃんは今夜はいないの?」と、とても残念がったのはケーキが食べられない悔しさだったのである。苦笑いしながら玄関を出たことを、運ばれたケーキの前で「感謝の意」として述べた。

卒業して40年も経っている。記憶の片隅に残していてくれたこと、それだけで鬼の目にも「不覚の涙」が滲んでしまったのかも知れない。あ・り・が・と・う!と車窓から見える27歳の頃過ごした風景に向かって呟いた。外が暗いので「爺さんの顔」がそこにハッキリと映し出された。40年後の小生であった。若さだけの無茶苦茶な指導者だったことを詫びつつ教師稼業を回顧した夜だった。

2012/10/20

講演・旅日記(愛知編)② 授業実践の研究・

 ~形式より内容、内容より意識の共有~

 (授業)研究のための協議会は、その学校だけにある「一つだけの学校文化」であると思い込んでいたのであるが、大同小異の協議会に遭遇することが多いのは何故なんだろうか?

 20年前は中学校で教頭職にあった。

校内研究会が行事予定に入っていても、生徒指導問題の解決が優先され授業に関しての協議会は先送りにされた。優先順位も学校文化であったようだ。結局、授業に関しての会は公式では一度も実施されないまま、たった1年間の教頭職を終えて市教委に異動した。在任中は、職員室で「授業を語り合う」雰囲気づくりを意図的に創っては孤軍奮闘したが、中学校の荒れは完治しないままに職を離れた。情報だけを教委のデスクで受け止めるだけの寂しさであった。

授業づくりは学校づくり。

こんな理念が脳裏で蠢いたのはこの時期ではなかろうか。その3年後、小学校の校長職を拝命して高学年の校長として授業を見詰めて愕然とした。そこで辿り着いたのが「授業で積極的な生徒指導を」と言う授業論である。教員集団に積極的に説き続けながら学校経営に没頭した。「授業を研究する」等と、最上段から振りかぶる力みもなく、「指名を工夫する」観点を前面に置いて授業を振り返る特設時間として他校でも実施している「研究会」を存続させ学校経営の中心点に位置づけたのである。

今回の豊橋市立多米小学校で、「意図的な指名を取り入れる授業づくり」について触れることが出来たことは意図的な考案ではなかった。このような方向性を伝えてくれた研究主任の配慮に感謝した。それは、午前中に3名(自発的な授業公開)をじっくり観察したことに端を発している。意欲的に公開する姿勢に敬意を表することとは別の視点から、「折角の機会」として小生の拙い実践を紐解きながら苦言も呈した。その3名の教員からは、昨日の夕刻までに「熱き想いのメール」を受信した。全体協議会のための中心授業者からもメールが届いていたので、今朝は4時から「返信のための時間」として5時半まで掛かってしまった。「自らの課題」として、『意図的な指名』への取り組みが今後の授業で研究されそうで嬉しくなった。意図的な指名こそが「積極的な生徒指導」になるのである。

知り得た学習者の情報を活かしながら「意図的な指名」をして、その答えぶりに対応することが積極的な生徒指導である。これは実践者として確信している。豊橋の小学校で20年来説き続けた「教科授業での生徒指導論」の実践が出来そうな気がして来た。

生徒指導を、問題行動や事件が起きてから「特設時間」の中で該当者だけを対象にして行っているから指導者サイドも力量と気力の限界にも達してしまうのでないだろうか?放課後(=学校文化)の時間に、授業の延長戦が出来なくなって久しい。多忙を創り出す学校教育文化が繁盛すればするほど生徒指導という課外授業へのエネルギーが増加するとなる。「授業を研究する」ための協議会も焦点ボケになってしまうのも頷ける。教科指導のために協働での教材研究をする教師集団であれば、意識の共有が容易であると信じて疑わない。
 
朝の歩禅記録【06:45~07:30 5900歩】
朝陽に浴びるように水面に首を突っ込んだままの鴨の群れが動きません。
今朝の土浦は急に初冬のような冷え込みでした。

2012/10/19

講演・旅日記(実践授業・愛知編)①

 
写真はネット情報で「秘境」と「源泉」をキーワードにして得たものです。
 
~底知れぬ「学び」のパワーの源泉~

 嬉しい恐怖心が蠢いたのはそんな源泉と遭遇したからである。

 学びの源泉が「澄んで清らかに流れている」ことに気付いた。その源泉の流れにどんな感動の色を流し込んであげられるのであろうか?人生の旅人は立ち止まって考えてしまった。その清流に流し込める色合いを持ち合わせていないとなると源泉の色は澄んだままで下流に流れ去ってしまうのか?いや、源泉の色合いのママに流れ去る清流はあり得ない。途中で流れて来る枯葉や枝木、あるいは流れを遮るほどの大きな流木とも遭遇するのだろう?

 ふと、ある教育理念(=『学びを学ぶ』)を思い出した。

 清流の資質と、その流れの行く手を想定できないと「清流という学習者」への手当は施せないかもしれない。手当に関わる人材の資質と研鑽が充実しないと「学び」を「学ぶ」指導者集団の任は果たせまい。流れを創り出す堤防や淵に盛る木々や雑草の手入れも欠かせない。これも軽視できない人材である。小さな橋も作って流れて来る不要なモノを除去する作業も決して忘れてはなるまい。清流に生きる生物の存在も無視は出来ない。

 源泉の清流が、やがて大海に注ぐまでの長い道程を「学び」と考えれば、時には「竿を挿して」流れの方向性を変えることも「学びを学ぶ」ことに繋がるのではないかと思いを巡らせながらの45分間だった。

 豊橋市立多米小学校6年4組。数名の空席があるのは本校のどの教室でも見受ける本校の特徴でもある。指導困難校を証明する学習環境はまさに秘境の渓谷に足を踏み入れる困難さではないか。指導の難しさと共生している本校の特徴と理解した。授業を観察する全ての学級に「空席」が1つや2つでは無いことがわかればわかるほど、「学びを学ぶ」足取りが鈍くなってしまうのではないだろうか。

 しかし、授業が始まると悲境の渓谷の清流に棲む「学び人」たちの眼光は異常なまでに光った。それは素直に「学び」を受け入れる眼光であった。豊橋市教委が特設した学習環境(=英語特区)を過ごした6年生の児童の「学び」の効果がそこに顕在していた。その「学び」に圧倒される時間と闘う老脳には快感が走った。

 犬は英語で何と言うの?でも小学生の英語の「学び」には難しい。しかし、今回の授業では「りっちゃんのお母さんは病気です」って英語ではどう言いますか?を英語で問うパターンにも、いとも簡単に英文で答えが返ってきた。小学校での学びがここまで到達しているとなれば中学校での英語教育はどうなるのだろうか。楽しく空想しながら授業を進めた。教壇から離れて年月が長くなっている老輩に大きな刺激が走った証拠になる授業展開であった。

 学びを学ぶ姿勢を発見するには、それに見合う授業をするしかない。
 授業の流れにその源泉がある。良い授業をしなければ「学び」の発見は期待できない。授業は理論ではない。授業は泥臭い実践である。そんな学びを気付かせてくれた豊橋の小学6年生には感謝状でも贈るかな(笑)。
 
歩禅の記録 15:00~15:45【5200歩】
秋の陽射しの中を田んぼ地帯を歩きました。すっかり秋の深まりを感じる程にヒンヤリした北関東の風を受けながら歩いていると田んぼの中に白い円柱状の束が幾つも転がっていました。これって何だかわかりますか?やっぱり大好きな柿の実に注目してしまいました(笑)。良い風景でしょ?

2012/10/16

久しぶりの『良い』緊張感

 ~理論を裏付ける授業づくり~

 小学校での「外国語教育(=英語)」が本年度から完全実施になった。数年前から小学校教育関係者の間では、必ず苦労の話題として上った一つであった。何せ、授業の主体者である「学校現場」への配慮など無視されての教育課程実施であったからである。

 小生も、中学校の英語科教員だけの経験では、ここまで真剣に考えなかったかも知れない。小学校教員の(中学校教員とは違う面で「良い」)特質を考えると、黙っては通過できなかった。「ことば」の正式な学習の出発点である小学校1年生の「こくご」の時間を、「英語学習」の原点として位置付けられれば小学校教員も負担が軽くなるのでは、と仮説の仮説を立てて軽い理論構成に挑んでみたのは12年前のことである。

 その理論の一握りを、実践として公開できたのが愛知県教委の『プロフェッショナル事業(=略称)』への登壇要請であった。その種の研究も全く無い状態での教材探しには苦労をした。小学校1年生の国語・教科書の内容を「英語でつなぐ」教材は学校関係者での発掘は皆無だった(ようだ)。市販されているCDDVDから、小学校1年生の「こくご」教材と合致するモノを数種類発見して、俄か仕立てをして臨んだのが愛知県教委の要請授業であった。その当時の示範授業が、「今日の出来事」に繋がったのである。

 愛知県小牧市立小牧中学校・英語科教諭の山本敦子先生が創案された小学校1年生の「こくご」教材を「英語の絵本」として完成されたホンモノを使って授業を試みる記念すべき日となったのである。

 英語を(正式な授業として)学習する小学生にとって、数年前の記憶を蘇らせながら英語の学習へと誘導する展開である。その教材発掘を今夏まで継続されていたことを(山本教諭との出会いから3年を経ている)知らなかった。偶然とは偉大である。山本教諭が勤務する中学校の校長は長年親しくお付き合いしている玉置崇氏である。氏から情報としてメールが届いて感動の事実との遭遇となった。氏の配慮でその後は山本教諭と連絡を取り合って本日に至ったのである。氏が愛知県教委の要職にあった時点での事業が『プロフェッショナル事業』だったのだから運命的な展開としか言い様がない。

 偶然の偶然が二重奏となったのは、本日の教室を提供していただく小学校との出会いである。校長は小生の大学の後輩なのである。しかも、愛知県下にあったことである。この部分については後日の報告としたい。この偶然も、小生の『運の強さ』そのものであると言わざるを得ない。

初めて出会う6年生の子ども達の中で「たった一人」にでも、英語学習への誘いが出来たらサイコーと考えている。そろそろ、会場校である豊橋市立多米小学校まで出かける準備に取り掛かることにしましょう。後日の報告をお待ちください。

2012/10/15

歩禅の記

 ~陽射しはまだ夏?~

 まだ早朝歩禅に出向いていた時、「もう、金木犀の香りが・・・」と妻が呟いた。小生の鼻はそれをキャッチしていなかった。十年以上も前の話である。『花粉症』とやらが秋の季節にも襲来して匂いの世界を遮断した時期があった生活への直接影響は無いが情緒の欠乏に連なり、精神的に芽逝ったことを思い出した。「もしや・・」その再来かと不安に感じたのである。

 そして、今日は秋の陽射しをたっぷり受けている時間帯を選んで妻と一緒に歩くことにした。日中の歩禅は「用足し」歩禅である。つまり、何かの用務を済ませながら歩くことである。最初の用務先はJRの駅である。明日からの愛知県(豊橋市~名古屋市)への旅のチケットを購入することで徒歩5分の距離を手始めに歩いた。往復乗車券と東海道新幹線の自由席特急券を3回分購入した。

 駅前の商店街にもすっかり馴染が出来た。

 妻が最後の時間帯に立ち寄りたいと言うマーケットを指定した。そこでルートを考えた。駅の小さなロータリーを渡って北へ向かって歩を進めた。幼稚園があり、電気製品量販店が並んでいる商店街を抜けて路地裏の道を選んだ。このあたりは道幅が狭い割には交通量が一定量以上あるので歩行者には危険極まりない区域である。その辺まで感知できる町民になってしまった(笑)ようだ。

 お肉屋さんのご主人から声が掛かった。孫たちが肉が好きなので連れてはこの店にやってきているので面が割れていたようだ(笑)。開店したばかりなので未だお客様がいなかったこともあったのだろう。しかし、業務上とは言え通りすがりの客の顔を覚えると言うのも難儀なことだ、と妙に感心しながら更に北へ進んだ。

 商店街の裏には大きなお屋敷が沢山ある。

 金木犀の香りが鼻に届いた。妻に向かって「金木犀の樹がどっかにあるぞ」と叫んだ。「目の前ですよ」とさり気ない応答だった。先々週あたりの「匂いがしない」世界から抜け出た、夫の喜びを十分に理解していないらしい。

 秋の香りの主人公は金木犀かな?と話しかけると「菊の香り」も主人公になるのでは?と問い直され答えに窮してしまった。

 40分少々の歩禅であるが、帰路は「買い物袋」の重さで疲労度は通常歩禅(45~60分)の疲労度と大して変わらない。我が家に最も近いマーケットを選んだのは妻の配慮だったのか(?)。  【40分・4900歩】

2012/10/14

世は、「秋祭り」の氾濫

 ~行ってみたい各地の秋祭り~

 秋祭りには少年時代の思い出がある。

 九州・熊本県八代市には、当時は11月18日(限定)に妙見神社の秋の大祭(=妙見祭・写真)があった。九州三大祭とも言われるだけあって、当時は学校も授業が2時間だけで放校だった。低学年の頃は、保護者の同伴が無ければ遠隔地の神社までは行けなかったので殆ど行ったことが無かった。兄や姉が持ち帰る細やかなお土産を玄関先で首を長くして待ったものだった。

 高学年にもなると(学校の指導は意識していても)、ガキ大将の指示で自転車に二人乗りして軍団で出かけた。お祭り会場にかなり近い場所まで行って、自転車にカギをかけて我先に「お祭り」の輪に飛び込んだ。スリルと冒険心に酔って過ごした幼い日の思い出が蘇る季節である。けが人も出るような豪壮なお祭りでもあったのでこの歳になっても、その迫力は鮮明に蘇るほどである。

 昨日は長女が嫁いでいる市の「秋祭り」とやらで、同居の孫二人を乗せて出かけた。城下町ならでは旧家や豪邸を横目に見ながら雑踏を歩いた。孫たちが迷子にならないようにして気配りをして歩くのは疲れる。孫軍団のお目当ては高く聳える「山車」のダイナミックな動きではない。道路の両脇に並ぶ出店である。

 こんなに食べてお腹でも壊したら?とお祖母ちゃんは気が気でないらしい。全く頓着せずに、食べる・食べる・飲む・飲む、そしてゲーム形式の「当て物」に夢中になる。我が子を連れて祭りに行った頃の財布のひもと緩み具合が随分違っている(笑)。祖父ちゃん祖母ちゃんの同行を要求する孫たちは賢い。核家族で子育ての我々夫婦の下で育った3人の子どもたちは、考え方を変えれば「可哀そうだった」のかな?反省心も過らせながら祭り会場をほぼ周回して帰路に向かった。

 毎度のことながら「孫守り」はお疲れ様です。ご丁寧に帰路の道路も混んで2時間半の運転をさせていただきました(笑)。

2012/10/13

大失態

 ~どうかしたのかい、講師・爺さん1?~

 控室に戻っても自己嫌悪感が治まらん(笑)。

 霧中の講義を続けながら終了予定時刻を大幅に超過していることを気付いてからは動顚状態に陥った。小生の講師稼業が始まってからかれこれ10年が過ぎる。死守したのは「角田・定刻主義」であった。取り分け「終了時刻」を厳守することには拘りが粘着していた(笑)。主宰する『響の会』では、意識的に時間オーバーをしたこともある(無意識の場合もあった)が、ちっちゃな哲学心が揺らぐ所まで自身を追い詰めることはなかった。

 今回の会場では、何が起きたのか??

 4時に終了時刻が設定された当日の最終回の講義を担当することは案内を受けていた。受講生である教員の皆さんは連続の聴講である。当方の講師哲学では、最終回の講座ほど「終わり良ければ皆善し」と確信していた筈だった(泣)。

 原因はわかった。

 「慣れ」による心に生じた「油断」である。

この講座は心地よく「現場力」を受け止める講師冥利に尽きるモノとして5年間連続しての請け負い稼業でもある。毎回20名の少数精鋭の聴講生諸氏は当市の「未来を託す」教員である。従って、多くの聴講生の視線には滾るものを感じる。駄弁を労しても(?)、受け止める度量も備えていてくれる頼もしい後輩諸氏である。

 レジュメは1か月前には担当指導主事氏には届けておいた。

 使用する資料の鮮度が若干落ちるのが気にはなりながらも、神経質になるほどの思慮も失してしまうほどまで、「慣れ」ていたのかも知れない。上野駅からも、あっという間に到着する交通手段も「慣れ」に拍車を掛けたのかも知れない。

 適度の緊張感が無いことは怖い事である。

 聴講生諸氏には退屈な時間を徒に延長した非礼をお詫びして退出したが、市教委の関係者には謝罪する時間も無く会場を後にしてしまった。担当指導主事氏は当ブログを読んでおられる様子なので、小生の心情はご理解願えるかも知れない。心からお詫びを申し上げ、上司への謝罪も伝言をお願いしたい心情である。姑息な依頼をこんな形ですること自体も「慣れ」の延長線にあるのだろうか。自省の朝である。

2012/10/11

考え込んでしまった朝

 ~地域ぐるみで「外来種」の駆除~

 ラジオを聴きながら一日が始まる。これが小生の日課である。

 諸事を熟しながらラジオを聴く。これは小生の習性である。始まりは高校時代に遡る。テレビの無い時代だから、当時は一家に一台のラジオが娯楽の源泉であった。ラジオから家族が離れるのを見計らってラジオを移動させる。神棚と同じぐらい高所に取り付けられているラジオを移動させるのは骨が折れた。しかし、「命綱」的存在価値があったラジオを動かすことは数時間の「孤立の世界」を作り出すための必要な行為であった。飽きもせず毎夜というほどこの行為を続けながら高校生生活を過ごした。習性になる筈だ(笑)。

ある時、母が叱った。ラジオの独占を咎めるのが主眼であっただろうに、大義名分に照らしての事だったので確かな効果は無かった。大義名分とは「ながら族」という悪風潮(今は「風評」かな?)を説くことにあった。『ながら族』は今朝も健在なり。天国の母親は、「思うようにいかなかった愚息」を諦め顔で、今も見詰めているだろうか(笑)。

メール返信をキーボードで打ち「ながら」、耳に飛び込んできた言葉が『外来種の駆除』であった。国産種の魚が外来魚に食い荒らされて絶滅の危機にあるとのことであった。その種のニュースは過去にも何回か耳にしていた。魚のみならず、草花やペット動物等々に外来種があることは知っている。「外からの」攻めが頻繁にニュースになる。そして、今回も外来種の撲滅作戦にエネルギーを消耗する。国風はどこに行ったのだろうか。外国種への憧れと羨望を煽られ、己の価値を忘れてコンプレックスとして受け止めてしまう。

終戦後の政情のツケが明らかに表出している。「声の大きい」(論理は間違っていても)体制に気を遣う行政が戦後70年も続けばこの体は納得できる。愛読月刊誌の今月号の巻頭言(一部分を抜粋)を提供する。読者諸兄の読後感を聞きたい。 

いまを生きる者の任務

 教育の場には、家庭、学校、社会(会社)の三つがあります。

 よい家庭に育った子供は自ずと立派な人間に育ち、よい校風を持つ学校に入ると問題を抱えた生徒もいつの間にかよくなり、よい社風の会社に入ると意識せずして立派な人材に成長します。

国にも国風があります。よい家庭、よい校風、よい社風によって日本人一人ひとりが立派に育てば、世の中がよくなり、立派な国風が形成されていきます。

 しかしながらいまの日本は、未熟な親や、尊ぶに値しない教師も多く、無垢な子供を託すには心許ない状況にあります。これは戦後の占領政策によって、『小学』の教えなど、長年継承されてきた優れた日本精神の縦糸が断ち切られ、さらに時代を反映する横糸もいかがわしいものが蔓延してきたため、国としてまともな織物を紡ぎ出せなくなったのです。

 『論語』に、「、相近きなり。、相遠きなり」

 という言葉があります。もともと人間一人ひとりに大きな違いがあるわけではなく、誰もが相近きものです。しかしながら、躾や教育によって身についた習慣により、人間的に大きな差がついてくるものだという教えです。
いま一度、断ち切られた縦糸を繋ぎ直し、よい横糸と組み合わせ、日本に相応しい素晴らしい織物を創っていかなければなりません。そのことを通じて次代を担う子供たちを立派に導いていくことが、いまを生きる私たちに課せられた重大な任務ではないでしょうか。

今日の歩禅記録 08:20~09:20【6300歩】
早朝の気温がかなり低く感じるので今日から歩禅の時刻を変えています。このブログを搭載したのは早起き鳥の勝手でいつも通りですが、歩禅の時刻が表記のようになりました。末孫が保育園に行くのを見送ってから出発してみました。明るい秋の日差しとひんやりとした秋風にそよぐコスモスがとても素敵に映ります。ところで、このコスモスって国産品種?それとも外来種なのかな??

2012/10/10

改装成った『東京駅』

 ~やっぱり凄い人だかり~

 「わざわざ」東京駅の駅舎を観るだけのために上京することは考えない。

 しかし、東京駅で中央線に乗り換えて鍼診療所に向かうとなれば、「ついでに」降りて改札口を出るだけで良いと考えれば実践したくなるのが性分である。いつもの通りに夫の物見遊山的発想による提案には同行の妻の尻込みが付き纏う。しかし偶発的な事故の発生は侮れない(笑)。

 鍼診療を終えて携帯電話を見る。蒲田(東京)に住む次女から中央線の人身事故の情報をメールで知らせてくれていた。仕方なく横浜線の乗車駅(相原)まで歩いていると、次女の第二弾情報が届いた。運転再開はしたがダイヤに大きな乱れがあるとの事だった。妻に再度の提案。時刻通りに上野駅からの帰宅予定案が崩れたのだから「東京駅・中途下車」案はすんなりと受け入れられた。「災い転じて福と為す」は人生哲学の一つでもある。

 写真をご覧ください。

 同じ思いの人々の多い事。恐らく多くの人たちが「中途見学」だと思われる。時間的にラッシュ時刻ではないので丸の内界隈勤務の人たちの群れとは遭遇しない。これも偶然の救いでもあった。観光スポットになっている東京駅であることだけを実感して帰路の電車に乗った。下車時間は10分間であった。

 鍼診療は診療中より診療後に怠さがあり長時間の歩行はかなり厳しいモノがあるので妻の不安も理解できてはいたが、帰路の特急電車の車中でデジカメの写真を見ながらまんざらでもなさそうな妻の横顔に安堵したのか眠ってしまった。

 東京駅は通過することが多い。

新幹線に乗り換えるための駅となりがちではあるが、「ちょっと下車」して、変わりつつある八重洲口界隈に競合するかのようにレンガ造りの東京駅(「丸の内」口)周辺の改装ぶりは、見るに堪えうるものであった。自己満足は得意芸である小生ではあるが、ホンの10分間の途中下車の「ぶらり旅」も乙なモノであった。

2012/10/09

やっぱり馴染めません!

 ~老脳の洗脳は無理?(笑)~

 昨日の朝のこと。

 何気なく(いつもの通りに)、登校して行く孫たちを見送る態勢になっている老父に「今日はお休みですよ」と冷ややかな声が浴びせられました。「えっ、何で?」と性懲りもなく聞き返す老父は、カレンダーを見てハッとしました。

 そんなタイミングで国旗を揚げるチャンスすら逸してしまったのです。東京オリンピックを記憶している世代には、『体育の日』は10月10日なのです。連休法案が成立するには国情があったことは否定しませんし、「第●月曜日」として設定され3連休が出来たこと自体には不満がある訳でもないのですが、固定概念(=思い込み)を払拭するには自身の意識改革が必要なんでしょうね。ハッピーマンデー法とやらの法案が実施されて『その日』の持っている国民感情の本質までが交換されたような気がして仕方が無いのは小生だけなんでしょうね。「成人の日」や「敬老の日」の意識の変色していくのが、腑に落ちないまま我が人生は終幕に近づいて行きそうです(笑)。

 今日は、隔週で通院する鍼診療日です。

 往復5時間半は電車の中です。老体には堪えますが、12年間も受診している夫婦にとっては貴重な時間なので欠かすことなく続けています。心配は空模様です。下車駅の横浜線「相原駅」から20分近く歩く時点だけ降雨が無いように祈る思いになるのです。甚だ身勝手な願いを抱きながら毎回出かけています。今日は大丈夫のようです。行ってまいります!!
 
早朝歩禅の記録 05:00~05:50【6200歩】
今朝の東の空は沼の湖面にもこんな状態でしか映らない状態でした。1時間近く歩いているうちに東の空から明るくなってきました。

2012/10/08

早朝歩禅の記(20)

「秋の深まり」を実感~

 そろそろ本格的な「冬支度」?と、歩きながら妻と対話する。
 それは下着の話であった。「地元の人は11月が近付くと下着が冬物になる」との情報を長男から得ていた。しかしながら、昨年は全く無視した。いや、無視するほどの学習をしていたわけではないが、昼間の温度が茅ヶ崎と殆ど変らなかったからである。汗ばむ状況に追い込まれると「未だ早い」との勝手な判断をしたのだと思い出している。妻も同感だったようだが、今年はそろそろ長男のアドバイスを素直に受けようとの結論となった。

 5時15分に玄関のドアを開けた。

 庭先を数歩進んで「寒いね」と、妻に声をかけた。昨年は早朝歩禅を定例化していなかったので早朝の体感が無かったことも手遅れになったと言えそうだ。負け惜しみでもないが、転居しても風邪一つ引かないで生活が出来ているのが不思議でもあり、いい意味での自信にも繋がっているような気がしないでもない。

 歩禅写真をご覧ください。

 流石に季節の移ろいが「真実を映す」写真でおわかりいただけるでしょう。全国の愛読者の皆さんの周囲にも、季節の変わり目の兆候が現れ始めたのではないでしょうか?体調管理には十分に気を付けてお過ごしください。
早朝歩禅記録 05:15~06:15【6900歩】
下の段の3枚は帰路の田園地帯です。遅れて咲いた彼岸花(畑)がこれから最盛期?刈入れの済んだ田んぼでシラサギの姿も冬が近いことを教えているようです。この頃、東の空から今日は、温かくしてあげますよ、と太陽が顔を出してきてくれたようです。太陽の存在は大なり!!

2012/10/07

来年も花火の鑑賞を!

デジカメの性能の所為ではありませんが、花火を撮るの難しいですね。2万発の花火の競演にうっとりとしているとシャッターチャンスを逸してしまいました(笑)。
 ~「花火大会」のトラウマが・・・・~
 
 噂は噂。
 「土浦の花火大会は凄いんだって!」「土浦の花火大会は花火師の技術競技会だから凄いんだよ!」「常磐線は超満員の盛況だってよ!」等々、噂は遠近問わずに耳に届いていました。小生には単なる噂は噂でしかありませんでした。同居する前にも孫たちからもお誘いがありました。

 花火大会は故郷での幼い日の苦い思い出の一つでした。
 母親に連れられ幼い兄弟姉妹で球磨川という河川敷まで歩きました(4.5キロ)。会場は「人・人・人・・・・・の人の波」で、小さな子供には空高く打ち上げられる花火を首が疲れる程に見上げて疲労困憊で同じ道を帰って来るのでした。「連れて行ってもらえるだけでも幸せだ」と長兄に言われ、必死になって行動を共にしました。その部分しか記憶ない花火大会の思い出でした。ある年は、会場に向かう途中で豪雨となりました。母の知り合いの農家の小屋で雨宿りをさせていただいて止んだ雨を確認して帰って来たことも花火大会の思い出として記憶に残っています。いずれも「好感度」の花火大会ではありません。

 茅ヶ崎に自宅を建てて住んだ夏。新居のベランダから見えた「江の島の花火大会」は夢心地でした。人間は贅沢な動物です、我が子たちは「仕掛け花火」を現地で見たいと所望しました。現地の混雑は花火大会トラウマになっている父親は、とうとう一度も現場で花火を鑑賞する家庭文化は築けませんでした。

 ここ、土浦を流れる桜川は故郷の球磨川とは比べ物にならない程小さな川です。運転するようになっている小生は土浦市役所に行くために何度もこの川を渡っています。こんな小さな川の河川敷では、子ども時代の二の舞だと思い込んでいました。

長男一家に誘導され到着した河川敷は空き場所が多いのに驚きました。今回は古河市に住んでいる妻の従姉の子ども一家も同行したので総勢11人にもなってしまいました。予想は完全に覆されました。11人が座わるスペースにゆとりもあり、正面には間髪入れずに上がる花火を十分すぎるほどまで満喫できたのです。

 孫軍団から仕掛け花火へのご所望がある頃には、いずれ桟敷席でも購入して鑑賞させることにしましょうかね。我が子にしてあげることの出来なかった行為の懺悔のお返しといたしましょう。ともあれ、「花火大会」のトラウマは昨夜の河川敷での鑑賞で完全に断ち切ることが出来ました。

 夜が明けて爺婆の朝食の話題は、「来年はもっと準備して出かけるぞ」と燥ぐ爺に対して苦笑いしながらも「何か、料理を作りましょうかね」と相槌を打つ会話で小さな盛り上がりでした。

 やっぱりこのお祖父さんは『短絡性・能天気症候群』(命名は本人)でございました(笑)。
 
【歩禅記録】
土浦は朝から強雨。疲れた体には良い休養になりました。昨日は何と14000歩も歩きましたよ。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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