2012/10/20

講演・旅日記(愛知編)② 授業実践の研究・

 ~形式より内容、内容より意識の共有~

 (授業)研究のための協議会は、その学校だけにある「一つだけの学校文化」であると思い込んでいたのであるが、大同小異の協議会に遭遇することが多いのは何故なんだろうか?

 20年前は中学校で教頭職にあった。

校内研究会が行事予定に入っていても、生徒指導問題の解決が優先され授業に関しての協議会は先送りにされた。優先順位も学校文化であったようだ。結局、授業に関しての会は公式では一度も実施されないまま、たった1年間の教頭職を終えて市教委に異動した。在任中は、職員室で「授業を語り合う」雰囲気づくりを意図的に創っては孤軍奮闘したが、中学校の荒れは完治しないままに職を離れた。情報だけを教委のデスクで受け止めるだけの寂しさであった。

授業づくりは学校づくり。

こんな理念が脳裏で蠢いたのはこの時期ではなかろうか。その3年後、小学校の校長職を拝命して高学年の校長として授業を見詰めて愕然とした。そこで辿り着いたのが「授業で積極的な生徒指導を」と言う授業論である。教員集団に積極的に説き続けながら学校経営に没頭した。「授業を研究する」等と、最上段から振りかぶる力みもなく、「指名を工夫する」観点を前面に置いて授業を振り返る特設時間として他校でも実施している「研究会」を存続させ学校経営の中心点に位置づけたのである。

今回の豊橋市立多米小学校で、「意図的な指名を取り入れる授業づくり」について触れることが出来たことは意図的な考案ではなかった。このような方向性を伝えてくれた研究主任の配慮に感謝した。それは、午前中に3名(自発的な授業公開)をじっくり観察したことに端を発している。意欲的に公開する姿勢に敬意を表することとは別の視点から、「折角の機会」として小生の拙い実践を紐解きながら苦言も呈した。その3名の教員からは、昨日の夕刻までに「熱き想いのメール」を受信した。全体協議会のための中心授業者からもメールが届いていたので、今朝は4時から「返信のための時間」として5時半まで掛かってしまった。「自らの課題」として、『意図的な指名』への取り組みが今後の授業で研究されそうで嬉しくなった。意図的な指名こそが「積極的な生徒指導」になるのである。

知り得た学習者の情報を活かしながら「意図的な指名」をして、その答えぶりに対応することが積極的な生徒指導である。これは実践者として確信している。豊橋の小学校で20年来説き続けた「教科授業での生徒指導論」の実践が出来そうな気がして来た。

生徒指導を、問題行動や事件が起きてから「特設時間」の中で該当者だけを対象にして行っているから指導者サイドも力量と気力の限界にも達してしまうのでないだろうか?放課後(=学校文化)の時間に、授業の延長戦が出来なくなって久しい。多忙を創り出す学校教育文化が繁盛すればするほど生徒指導という課外授業へのエネルギーが増加するとなる。「授業を研究する」ための協議会も焦点ボケになってしまうのも頷ける。教科指導のために協働での教材研究をする教師集団であれば、意識の共有が容易であると信じて疑わない。
 
朝の歩禅記録【06:45~07:30 5900歩】
朝陽に浴びるように水面に首を突っ込んだままの鴨の群れが動きません。
今朝の土浦は急に初冬のような冷え込みでした。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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