ラジオを聴きながら一日が始まる。これが小生の日課である。
諸事を熟しながらラジオを聴く。これは小生の習性である。始まりは高校時代に遡る。テレビの無い時代だから、当時は一家に一台のラジオが娯楽の源泉であった。ラジオから家族が離れるのを見計らってラジオを移動させる。神棚と同じぐらい高所に取り付けられているラジオを移動させるのは骨が折れた。しかし、「命綱」的存在価値があったラジオを動かすことは数時間の「孤立の世界」を作り出すための必要な行為であった。飽きもせず毎夜というほどこの行為を続けながら高校生生活を過ごした。習性になる筈だ(笑)。
ある時、母が叱った。ラジオの独占を咎めるのが主眼であっただろうに、大義名分に照らしての事だったので確かな効果は無かった。大義名分とは「ながら族」という悪風潮(今は「風評」かな?)を説くことにあった。『ながら族』は今朝も健在なり。天国の母親は、「思うようにいかなかった愚息」を諦め顔で、今も見詰めているだろうか(笑)。
メール返信をキーボードで打ち「ながら」、耳に飛び込んできた言葉が『外来種の駆除』であった。国産種の魚が外来魚に食い荒らされて絶滅の危機にあるとのことであった。その種のニュースは過去にも何回か耳にしていた。魚のみならず、草花やペット動物等々に外来種があることは知っている。「外からの」攻めが頻繁にニュースになる。そして、今回も外来種の撲滅作戦にエネルギーを消耗する。国風はどこに行ったのだろうか。外国種への憧れと羨望を煽られ、己の価値を忘れてコンプレックスとして受け止めてしまう。
終戦後の政情のツケが明らかに表出している。「声の大きい」(論理は間違っていても)体制に気を遣う行政が戦後70年も続けばこの体は納得できる。愛読月刊誌の今月号の巻頭言(一部分を抜粋)を提供する。読者諸兄の読後感を聞きたい。
いまを生きる者の任務
教育の場には、家庭、学校、社会(会社)の三つがあります。
よい家庭に育った子供は自ずと立派な人間に育ち、よい校風を持つ学校に入ると問題を抱えた生徒もいつの間にかよくなり、よい社風の会社に入ると意識せずして立派な人材に成長します。
国にも国風があります。よい家庭、よい校風、よい社風によって日本人一人ひとりが立派に育てば、世の中がよくなり、立派な国風が形成されていきます。
しかしながらいまの日本は、未熟な親や、尊ぶに値しない教師も多く、無垢な子供を託すには心許ない状況にあります。これは戦後の占領政策によって、『小学』の教えなど、長年継承されてきた優れた日本精神の縦糸が断ち切られ、さらに時代を反映する横糸もいかがわしいものが蔓延してきたため、国としてまともな織物を紡ぎ出せなくなったのです。
『論語』に、「性、相近きなり。習、相遠きなり」
という言葉があります。もともと人間一人ひとりに大きな違いがあるわけではなく、誰もが相近きものです。しかしながら、躾や教育によって身についた習慣により、人間的に大きな差がついてくるものだという教えです。
いま一度、断ち切られた縦糸を繋ぎ直し、よい横糸と組み合わせ、日本に相応しい素晴らしい織物を創っていかなければなりません。そのことを通じて次代を担う子供たちを立派に導いていくことが、いまを生きる私たちに課せられた重大な任務ではないでしょうか。
今日の歩禅記録 08:20~09:20【6300歩】
早朝の気温がかなり低く感じるので今日から歩禅の時刻を変えています。このブログを搭載したのは早起き鳥の勝手でいつも通りですが、歩禅の時刻が表記のようになりました。末孫が保育園に行くのを見送ってから出発してみました。明るい秋の日差しとひんやりとした秋風にそよぐコスモスがとても素敵に映ります。ところで、このコスモスって国産品種?それとも外来種なのかな??
0 件のコメント:
コメントを投稿