毎年、広島・長崎の原爆投下の日がやって来ると、記憶にも無い『終戦』という文字が蘇るのはなぜだろうか?
小生は昭和19年に誕生している。まだ満1歳にも達していない。
小学校5年生の時に、同居していた祖母(父方の)が77歳で他界した。「末期の水」が焼酎だったという女傑だった。生まれた時にはもう祖父はいなかったようだ。父が戦地に駆り出された我が家に男系は10歳年上の長兄が頭だった。祖母の死には会社勤めの兄は間に合わなかった。家に居たのは次兄と小生だった。田んぼから上がって来た母が、様子が変な姑に気付いて布団を敷いて横にならせた。
近所に住む祖母の血縁者を呼びに行かされてほぼ顔が揃った頃、静かに息を引き取った。末息子(小生にとっては叔父)がコップに汲んできた末期の水は焼酎だったそうだ。「ゴクン!」という焼酎が咽喉を通った音は何故か覚えている。
その祖母が、この終戦記念日には5人の孫を相手にして「戦死した我が息子」、つまり私たちの「父親」の自慢話を決まって聴かされた。飽きるほどに聞いた話なので良く記憶している。4歳上の次兄までは「父親と一緒の写真」が残っている。出征直前に写真館で撮ったらしい写真を指差して、必ず祖母は言った。小生だけが映っていない写真であるが、「ここにおる(=居る)!」と声高に言ったものだった。「ここに」と指さす場所は決まっていて写真はその部分が変色するほどだった。
母の「お腹」を差しながら、いつも涙を流して喋った。
最愛の息子を戦争で亡くした母親の心境が、今となれば良くわかる。祖母と母との仲は好ましい状態では無かったと記憶は残っている。小学校5年生の末っ子の孫息子に祖母は、取り分け厳しく諭したことがある。「父ちゃんの生まれ変わりのお前だから、父ちゃんの分も世の中の役に立つ人間にならんといかん!」と。
戦争の惨さは直接体験はしていない。祖母の声は思い出さなくても、「父ちゃんの分も・・・」と小生に託した祖母の思いは今でもしっかり脳裏に焼き付いている。それが、小生にとっての「終戦記念日」の思い出でなのである。
写真は、父が戦死したと言われている離島「伊江島」と、当時の新聞記事である。結婚40年の記念は、三人の子ども達にプレゼントしてもらった「沖縄・伊江島旅行」だった。祖母に向かって「行って来たよ」と墓前で報告を済ませている。
パソコン定期検査のために、8月20日までブログを休刊します。
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