駅頭にお迎え戴いた原田備子校長先生(広島市立井口明神小学校・当時の校長)が歓迎のご挨拶をされてから仰った言葉に何の反動も出来なかった無知な己に恥じ入りました。
「本来でしたら、広島駅まで車で迎えに出ることが常識なのでしょうが、今日の広島には一市民の常識が通じないんです。申し訳ございませんが在来線でご案内させていただきます。電車も混んでいますので立ったままでの移動になりますがお許しください」
1945(昭和20)年8月6日。
社会科の学習で暗記できるほど深く刻み込んだ(筈の)、その日に、その現地に足を踏み込んだにも関わらず、校長先生の御丁寧なご挨拶の行りだとしか受け止めず、訪問先の小学校に到着しました。確かに電車は混んでいました。校長先生の予想通りに立ったまま12分間の電車での移動でした。未だこの時点でも、校長先生の真意を理解していませんでした(恥)。
研修会が始まりました。教頭先生から本日の研修会不参加者の理由が説明されました。出講した会場で欠席者の理由説明を聞かされるのも初めてでした。
両親に代わって育ててくれた叔母が昨年の暮れに亡くなられ、被爆者としての弔いの献花の席に参加させていただいております。今日は、それを抑えて研修会に出席することを強制することは出来ません。欠席者はその1名です。お許しください。
今日は特別な日。
鈍感なわが身にも理解の血液が流れました。同時に戦慄が走りました。決して無学ではない。知識も教養もある(と思われている)職業に就いている。自らに冷たい水を頭からかけられた思いがしました。机上での学習は済んでいました。そして、テスト用紙にも日付と歴史上の出来事は繋ぐことは出来ていました。しかし、被爆地の当地の人たちにとっては決して忘れ得ない『特別な日』なのです。同時に、広島市の学校訪問が始まった我が講演活動人生の『特別な日』になりました。
この日から14年が過ぎた今日。
数えきれない程に訪問している広島市の学校からの要請です。正式には明日の研修会への出講ですが、今日前日入りの為に「特別な日」の広島市に足を踏み入れます。心新たにして広島市の小学校の先生方に真心を込めて接したいと考えながら出立の準備をしています。14年前の写真を探し出しました。ご覧ください。
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