2010/06/30

今日の衝撃はホンモノ?


  
  ~同じぐらいの年齢の男性に~
 席を譲られました。横浜経由で追浜まで今日は行くことになっていました。勇んで駆け込んで茅ヶ崎駅で東海道本線に乗り込みました。確かに「息は荒かった」かな?(笑)。網棚に荷物を置いてふ~っと一息しました。
 前に座っていた男性が起ち上がりました。まだ、次の停車駅(辻堂)までは3分はあります。電車は茅ヶ崎駅を出たばかりでした。すると、その男性から笑顔で「どうぞ・・」と声が掛かったではありませんか。判断能力の整理整頓は間に合いません。立って行った男性には無言のままで失礼してしまいました。それにしても・・・。
 空けて戴いたので座らないわけにも行かず、とにかく着席。
 どんなに考えても50才代半ばは過ぎていた男性だった(と、悪あがきする)。大船駅を電車が動き出した瞬間、席を譲って戴いた男性の姿がホームにあった。やっぱり同年代か、ホンの少しだけの後輩ではなかっただろうか。
 感謝の言葉を発することが出来ない衝撃は、以前に体験した「席譲られ事件」の相手の時とは年齢差が小生にグッと近かったことでより大きいモノとなってしまった。そんな高齢者に受け止められるほどやつれていたのだろうか。
 今、笑って読んでいる輩よ。キミもいずれ、この運命を辿ることになるんだよ!!

※埼玉県三郷市に住む白川好光氏が最近の新聞記事を送っていただいた。地域のために懸命に尽くされる氏の心意気には頭が下がります。ご一読下さい。

明日から今年も、もう「後半戦」

  ~脱皮の「音」って聞こえるのかな~
 2010年も半年が過ぎ去ります。
 昨日はもう過去になります。1年間の半分が、「過去」になります。こんな表現をすると「えっ、角田先生もそんな年寄り臭い発想をするようになっちゃったんですか?」と詰問されそうです。いいえ!!以前も同様な発想は「持参していた」んですよ、と応えましょう(笑)。
 過ぎ去っていく日々を懐古しているだけの情意は持ち合わせていません。
 過去の財産で、未来への大きな夢を築き上げたいという願望だとご理解いただきたい。生来、「過去を懐かしがりながら」生きる術は持ち合わせていません。確かに時が流れ、時を積んで確かな「過去」はずっと続いてはいますが、それは「明日への架け橋」のための糧であると確信しているところに小生の生き甲斐が存在しているのです。
 全国の小中学校で「授業研究」なる作業に関わることが多くなりました。頓に退職後の6年間で何十校もの研究会に関わっています。現役で活躍した(そんな時代もあったんですよ、ホントに。)研究会の日々は、確かな「過去形」ですが、現在、関わっている小中学校の研究会は「現在進行形」です。過去があって現在があるのならば、過去の経験値が、現在から未来への架け橋にならなければ過去の徒労は空しくなります。
 学校教育関係者なら誰もが認知している言語に「校内研究会」があります。
 旧態依然として過去を引き摺りながら「歩んでいる」(慣習としての諦めている)学校が多いのに驚きます。それでも名称に「授業」と言う名詞が加わり始めていることには変化への胎動を感じています。「校内」が「授業」に置き換えられて「授業研究会」となり、変容を確認しつつあることはとても嬉しい限りです。
 昨日は市内の小学校への指導訪問でした。
 1年半の訪問を続けている小学校です。昨日の研究会には、『脱皮』する「音」が聞こえたような気がしました。気がしただけですし、実際に脱皮には「音」があるかどうかは、興味範囲外の領域のことですから定かではありません。

 ◎ 脱皮とは、広辞苑によりますと ①は虫類・昆虫類などが成長するにつれて古い皮を脱ぎ捨てること。②古い考えや習   慣を脱して進歩すること。 だそうです。

 この小学校では「研究授業」とは言わずに、『提案授業』と表現しています。教員の発言の中で小生が取り上げた貴重な言葉です。昨日の、その『提案授業』が脱皮の方向性を示唆しました。
 2011年は学習指導要領(小学校)の完全実施に伴い、小学校教育が名実共に大きな方向転換をする節目の年です。つまり、半年後に迫ってきているのです。大綱だけが声高に叫ばれても、毎日実践している「授業」の研究が旧態依然の状況下では被害を受ける「児童生徒」の悲鳴は大きくなるばかりです。授業研究の質の向上には「提案する授業」の新しい方向性の提示にしか期待出来ないのです。
昨日は、経験3年目の若き教師の果敢な『提案授業』を見る事が出来ました。すると、その後の研究会も急変します。当事者には当事者だから聞こえない足音・見えない風景があるのですが、指導者として出席している小生には確かに「聞こえて・見えて」いました。そして研究会の指導助言の出番がありました。少々興奮したのは事実です。嬉しさを隠しきれなかったからです。
 明日から2010年も後半。後、半年で、この小学校の研究会が大きな脱皮の方向性が出来ることに期待が膨らんでいる嬉しい朝です。【ワールドカップ・決勝トーナメント出場の日本選手の大健闘を心から祝福している朝でもあります】 

2010/06/29

「国民健康保険証」と私

  ~今回の歯科医通院が終了~
 2000年9月1日。間もなく10年になります。この日に、当時服用していた常備薬も含めて医者の処方で飲んでいた降圧剤も「すべて」をドブに捨てました。血圧が高い時期には200を超えていた頃です。主治医は「教え子」でした。
 大英断(笑)だと?英断ではなく単なる「決心」しただけでした。
通院する度に症状に応じて処方される降圧剤と対峙した時点でした。教え子である医師に「先生、この薬は死ぬまで手放ししてはいけませんよ」と忠告を受けた瞬間、強いインパクトは「死ぬまで・・・」の言葉でした。教育指導担当参事という市教委の重要なポストにあった時期です。現職で何かあったら関係者に多大な迷惑が掛かる、との意識だけで良い患者になっていましたが、役職は時間が経てば変わり、いずれは一人の人間としてだけで生きていくのか。薬に頼って長生きするぐらいだったら、薬と縁を断って「生きられるだけ生きる」人生の方がましだ。そんな悶々とした時間を過ごしていたのです。
そんな折り、鍼診療を長男から勧められました。天秤に掛けられた人生は、「薬」から「鍼」へと賭場を変更したのです。正解だったかどうかは今でもわかりません。
 この展開で無縁状態になったのが国民健康保険証でした。しかし、2年前から使用することになりました。それは歯科医への通院のためです。一回の診療費は850~1100円ほどです。キッカケは義父の最期を看取ったことで学んだことを実践するためです。しっかりした歯を持っていたはずの義父も加齢と共に放置したままの状態で虫歯になってしまっていました。辛そうに痛みを堪える義父が、我慢できなくなったのでしょう。初めて「歯医者に行きたい」と訴えたのです。少々の痛みではなかったことが想像できました。小生が連れて行きました。歯科医が「う~ん」と唸り声をあげて、この年齢では処置するのも可哀想だから・・・、と痛まない方法で処理をしていただいたようでした。
 歯痛の経験のない小生には衝撃でした。少々の痛みには平気だった義父の歯痛に歪んだ顔が義理の息子の通院人生観を変えました。義父を見送って妻と二人きりになって直後に「歯医者に行く」と言った夫を見て妻は怪訝な顔をしましたが、直ぐにわかってくれました。歯石を取るための通院が始まったのが2年前なのです。つまり保険証が必要になったというわけです。
 今回は8回通院しました。それが昨日で終了でした。「立派な歯です。歯茎も2年前より肥えてきています。大事にしましょう。」、と歯科医から笑顔の忠告がありました。未だに虫歯のない夫をみると、歯の弱い妻には羨ましい限りでしょう。歯間ブラシとやらを妻から勧められて使用も始めました。こんなに「歯の大事さ」を感じるようになったのも義父のお陰です。あの辛そうで歪んだ顔を思い出すだけでも歯科医への通院は億劫ではなくなりました(笑)。

2010/06/28

我が家の夏の『風物詩』

  ~「蚊帳」ってまだ、あったの?~
 先日、ラジオを聴いていたら「蚊帳を吊り始めました」との葉書(リスナーからの)が読まれました。えっ、今時、蚊帳ってあるのか?と耳がダンボ状態になりました。約1時間ばかりのその番組の中で、続くは続くは・・・。合計何通のメールやファックスが読まれたかは不明ですが、「蚊帳」は今でも健在であることを知りました。
 幼い頃、「蚊帳の吊り方」と「蚊帳への入り方」の指南は祖母に受けました。「そんな張り方では蚊が入ってくる」と兄や姉が良く叱られていました。末っ子の小生は「入り方」に厳しく指導を受けました。高校受験の折には蚊帳の中に卓袱台を運んで勉強しました。そんな夏の光景が、このラジオ情報を聴きながら懐かしく浮かんできました。
 ところで、皆さんのご家庭での夏の風物詩は何でしょうか?
 所帯を持って生家から離れているわが子達は夏の里帰りで、我が家の夏の風物詩を必ず確認できる「モノ」があるのです。玄関先に一歩足を踏み入れただけでその香りが教えてくれます。茅ヶ崎の祖父ちゃん祖母ちゃんの「夏の家の匂い」になってしまっているようです。写真に掲載しましたが「蚊取り線香」が我が家の風物詩の主人公なのです。
 またまた、ラジオからの情報です。蚊取り線香は日本だけにあると信じて疑わなかった小生の我が耳を疑うほどの現実を知ることになりました。世界の多くの国で蚊取り線香(表現言語は定かではありません)が愛用されているとのことでした。驚きました。
 数日前に、外出先から戻った小生の鼻腔に風物詩の香りが進入してきました。
 「あ、夏だ!」との季節の郷愁を感じて嬉しくなりました。書斎の机の足下にも妻が常設(笑)してくれています。いつの間にか「精神安定剤」となっているように錯覚しています。
 今日も西日本では大雨らしいですね。梅雨時期とは言え当該地では大変です。雨に打たれた蚊軍団は雨が小休止すると家屋の中に乱入します。蚊との格闘は日本の夏の風物詩?お互いの健闘を誓い合いましょう。

2010/06/27

『霧中の2ヶ月』で結果を出す

  ~今までにない「経験」~
 帰宅して夕食を終える。
 ドッと疲れを感じる。それは通常の講演活動の疲労感とは異なる。教員採用試験受験者を対象にした講座の「指導者」を請けて5月8日からその業務に就いた。今日がその最終日であった。受講者は7月11日が受験日である。
 教員時代には高校受験も大学受験も「指導者」としての業務には就いたことがある。「偉そうに受験指導をした」己の姿は今でも再現できる。そして、結果はそれなりのモノがあった。今となればこれは単なる自尊心か。
 今日は40数名(受講登録者)の受験直前最後の講座だった。何とも言えない「消化不良」状態に陥ったのは何故だろうか。受講者との「関係づくり」が未完成のままに業務が完了したからである。これは「元・教員」の「教員たる」甘えの構造によるものなのかも知れない。
 ともあれ、受講者諸君の最後の「孤軍奮闘」を期待するばかりである。

7月「第4日曜日」って?

 ~初めて知った「親子の日」~

今朝の新聞第1面への広報でこの言葉を知った。妻との朝の会話の主になった。ふと昨日の新聞記事を思い出した。宗教学者の山折哲雄氏がインタビューに答えて次のように語った部分をご一読願いたい。


教育では生きる力の涵養が何より大事。しかし人間は死ぬ存在であり、いかにそれを引き受け、乗り越えるかを教えないと、生きることの尊さが分からない。戦後、そういう教育をしなかった。その結果か、20年ほど前から残虐な事件が起きるようになった。背景には平等幻想が崩れたことがあると思います。

 戦後、アメリカから民主主義が入り、平等思想が高らかに唱えられた。それ自体は大切な考え方だが、日本では横並び平等主義がはびこり半世紀。身の回りを見渡せば才能、容貌、家庭環境など何から何まで違う。不平等に気づくと、他人と比較せずにはおれなくなる。いつの間にか「比較地獄」に陥った。

 やがて「比較地獄」は「嫉妬地獄」になる。それが鬱積すると「怨念」なる。さらに高まると「敵意」になり、殺意に進む。殺意のエネルギーが他者に向かえば殺人、自分に向かえば自殺。一般の人は、殺人も自殺もできない。そこで、抑圧された「鬱」を招き寄せることになる。現代は「鬱の時代」といわれていますね。そこまで来てしまった。

 

サブタイトルの一つに ~平等幻想が崩れ「鬱の時代」に~ が妙に意識から離れず、今朝の新聞の「親子の日」に何となく連なってしまった。

 記憶は小学生時代に遡る。母の日のカーネーションを学校で配っていた時代である。級友でただ一人、赤いカーネーションを貰えない友がいた。誰も追求こそしなかったがわかっていた。「かあさん ありがとう」と書いたカーネーションは母親が現存する証だったのだ。還暦同窓会で本人にそっと聞いた。「もう、忘れたよ」と笑った。

 親子の日は「親」と「子」の共存が必要である。

 勤務した小学校には児童養護施設から多くの子供達が通ってきていた。母の日も父の日も、本人の望むと望まざるとに関わらず存在する「日」である。どんな思いで過ごしていたのだろうと考えると胸が痛む。

 5月第2日曜日~6月第3日曜日~7月第4日曜日と、連鎖する「~の日」。提唱者に苦言など発する意識はない。皆が平等に楽しく過ごせるために「廃止しろ」という極論も持ち合わせていない。

 山折氏の「比較地獄」の表現を借りれば、比較力のパワーに負けない生き方を大人は子どもに教えるべきだと心底から感じる。自分の「親子の日」と他人のそれを比較しない訳がないのだから、これも鬱の要因の引き金に繋がるのかも知れない。「みんなちがってみんないい」(かねこみすず)の理念を、幼い頃にきちんと学んでおくことが重要ではないかとしみじみ感じている。

 貧乏で育った小生は「金持ちにはない幸福がある」と無学な母親が言ったことを「しっかり受け止めて」成長してきた。他者と比較をすればするほど惨めになった日々は長かった。しかし、幼い頃に学んだ人生哲学の威力は凄かった。比較地獄に堕ちなかったからである。学歴が教えることではない。そんな深い学びを伝えてくれた母に感謝である。毎度の事ながら母のことを偲ぶには、反抗ばかりして困らせた思春期の自分に戻って素直に謝りたくなる。こんな思いに駆られた日が小生にとっては「母の日」である。「親子の日」についても、親の立場で考えてみなければならない齢になったようだ。皆さんも「○○の日」について考えてみてくださいませ!

 

今日は「教員採用試験受験者講座」の最終回です。横浜まで出講します。受講生の真剣な眼差しに圧倒されそうです。どれだけ支援できたか不安ですが、彼らの健闘を祈る心境です。早い昼食を済ませて行ってまいります!!

2010/06/26

「感謝」は再縁への祈り

  ~「お礼状」って?~
 手元に届いた『私信』(写真版に合成)に目を通しました。
 ずっと以前の話です。古い「歩禅記」時代の話題を思い出しました。まだ、ホームページを起ち上げていただいたばかりの頃です。管理人さんから「エッセイ」風なモノで週刊に掲載したいとの意向が届きました。定年退職という人生の転機の時期でした。時々、「過去を振り返る」ような年齢にも達していたのでしょうか。
 腹が立ったこと?として自問自答しました。
「頼むだけ頼んでお礼の一言もない」人種に腹が立ったことが多かったのでしょうね。力んで書いたことをここで再現したくなりました。礼儀は「形」で始まって「形」で終わる。これが礼儀の基本形式ではあるが、形式から内容に入るべきだと考えるのが「人間としての常識」と記述したのです。お礼状は「ありがとうございました」の言葉の形式的文章表示でしょう。頼むときはどんなにしても頼んでおきながら「事が済んで」一段落すると、「ありがとう」の意識がどこかへ消えてしまうのでしょうかね。「依頼状」と「お礼状」は一組です。「情」には温度差もあります。「伝」にも誠意が無い場合もあるでしょう。しかし、「お礼状」は、例え、形式的で「情」も「伝」も上手く表現できなくても準備万端にしておくべきでしょう。
 市教委の課長時代に指導主事諸兄にこんな暴言を吐きました。「講師への礼状は、出講の前に書いておけ」と。ご丁寧に駅頭までお見送りしたらその帰りには駅前の郵便ポストに礼状を投函しなさい、との極言でした。「そんな形ばかりじゃ・・」との反発もあったでしょう。しかし、「後で礼状を書いて・・」と思っていると、次から次へと仕事は追いかけてくるのです。一つの業務は「段取りから締めくくり」がワンセット。つまり、お礼状が届かなければ業務の完了はないのです。
 しかしながら、日本人ならばもっと大事なことが出来なければなりません。
それは、「見えない第二弾のお礼状」の発信です。それが「真心のこもった私信」なのです。写真版で掲載した「私信・礼状」をご一読下さい。紙面の関係で全文はお読みいただけませんが「心からのお礼=私信」が伝わってくるでしょう。すでに、正式な「お礼状」は出講した当日の夜にはメールで着信していました。
 「感謝する」ことの奥義。それは次のご縁を途絶えさせないための「自戒」手段のことなのです。小生の自戒の念として改めて自覚した証としてご理解願います。心のこもったお手紙有難うございました。また、ご縁がありましたら一緒にお仕事をしましょう。楽しみにしています。

2010/06/25

私は「65歳」です!



  ~17歳の女子高生の「詩」に誓う~
 6月23日は「沖縄慰霊の日」だそうだ。と言えば他人事のように考えているように誤解されそうですが、実は、違います。「叫び」なのです。
 私の父は沖縄・伊江島で戦死したのだそうです。その伊江島をこの4月に妻と一緒に訪れることが出来ました(既にこのブログ「旅日記」で公開済み)。我が子三人の家族達の配慮で実現した感動の3日間でした。そして、今年もこの「沖縄慰霊の日」を迎えました。昨日の新聞記事に掲載された女子高生の『平和の詩』を読みました。父が戦死したと言われる沖縄・伊江島全景が訪問したままの姿で浮かんできました。今まで、「戦死」という言葉に拘りがあり、「戦死したと言われる」と表現したくなる戦争遺児の心情は変えることが出来ませんでした。
 しかし、女子高生の詩を読みながら「変えてゆく」気持ちは、私達戦争遺児が最も努めなくてはならない事なのかも知れない、に変わりました。「変えてゆく」と考えるまで65年もの歳月が掛かったことになります。お恥ずかしい話ですが、今の今まで、「ひょっとしたらどこかで生きて居るんじゃないだろうか」と何十回、いや何百回も考えたモノです。嬉しいにつけ哀しいにつけ、女々しくも独りで思い込んだことがありました。妻も、子ども達も居て、孫にも恵まれながらも強欲な人情には「欠けている」モノを欲しがる習性があるのでしょうか。
 関係者や当事者が「変えてゆく」意識が無ければ変わっては行かないのでしょうね。
 毎年実施されている「沖縄慰霊の日」であるにも拘わらず、今年は格段の違いです。それは、「行きたくない・見たくない・認めたくない」と頑なに拒み続けてきた沖縄訪問を「わが子達に背中を押され」て実現させたからなのでしょう。現場に踏み込んで戦死の現場を自分の足で歩いて、現地のガイドさんから悲惨な状況もお聴きすることが出来たからでしょう。
 65年間もの「とき」が流れて、やっと「心のしこり」が溶けていくのです。そんな朝、孫世代の女子高生が囁きかけてくれた『変えてゆく』という詩に向かって心に誓いました。
私の心は私が『変えてゆく』ことしか手立てはないだよ、ね。素敵な詩をありがとう!『変えてゆきます』!!

追記:サッカー日本チームの決勝トーナメント進出の快挙。嬉しいニュースに『何かが変わる』予感を抱いて嬉しい朝です。

2010/06/24

『惚れ症候群』の爪痕

  ~「夏つばき」の歓迎~
 寒椿は知っていましたが、夏つばきは知りませんでした。
 読者諸兄から軽蔑されそうですが、本当にしらなかったのです。昨日訪問した立川市立第七小学校の正面玄関脇にきれいに咲いている「白い」花が目につきました。雨が降ったり止んだりの梅雨空の鬱陶しさの空気の中にこの清楚な花が凛として映りました。花の名前を問いました。そして知りました。雨に似合う紫陽花と争っても今日は勝ちそうでした。
 今回の訪問は、「ひょんなキッカケ」(「惚れ症候群」)で成立しました。
 今年の2月に開催された教育実践・立川『響の会』セミナーでのことです。若い男性教諭が授業実践の発表をしました。小生は指導助言をすることになっていて出席していました。好感度の高い発表でした。学級の子供達への「声掛け」の内容に惚れました。思わず「今度は学校訪問して直接授業を見たいですね」と講評の弁として発してまったのです。たかが一言、されど一言、の大反省心とは反対に「学校全体の授業研究会」として実現してしまいました。
 学校行事は盛りだくさん。教務を担当すれば苦労が良くわかる。校長や教頭から突然に「降って涌いた」如くの申し出には困惑するモノなのです。「年間行事として年度当初に無いモノは・・・」と規定通りにバッサリ切られて当然。
 小生の性格は、多方面から分析されるので自身は掴んでいない領域に達することも多いのです。しかし、この「惚れ性」に関しては自覚症状も明白です。他人の言動に感動すると「軽々しく惚れて」しまうらしいのです。そして、「無償の愛」を押しつけてしまうという性癖になって現れます。結局は「ありがた迷惑」としてご迷惑をお掛けしてしまうわけです。この行為を損得抜き?と言えば格好が良いのでしょうが、惚れ込まれたサイドでは大迷惑なことですよね。
分かっているのですが治りません(笑)。
 該当者としての実感がある方々は、このブログを読みながら苦笑していることでしょうね。とんでも無い被害者にされてしまいます(ました)ね。お詫び申し上げます。 「小生が訪問する」、ただこれだけで膨大な教材研究から指導法の改善へと真剣に取り組んで公開せざるを得なかった当事者にはご苦労をお掛けしてしまいました。しかし、2月の時点より更に大きな成長を確認できました。今後への期待がまた高まりました。
 学校を揚げて特別日課としてお迎えいただいた校長先生、教頭先生はじめ全教職員の皆様に心より感謝申し上げます。

2010/06/23

講演『旅』日記


  ~道中の愉しみは?~
6月16日(水):
 自宅に予約タクシー到着が午前5時。JR茅ヶ崎駅発5:22。小田原駅発新幹線「ひかり号」6:15。岡山駅着9:21。ここで約40分間の待ち合わせ時間。従来なら待合室で退屈するのだが、今回は「虫の知らせ」か、改札を一旦出て駅ビルに足が向かった。本屋さんに入り、目に入ったのが機関誌『盛和塾』であった。
 一つの情報としての知識はあったが、機関誌そのものとの出会いはここが初めて。早速買い込んで(と言う値段ではない)、他の店をウインドウショッピングしながら時間を潰す。土讃線:特急「南風号」(10:05発)で今回の目的地・高知へ向かう。土讃線の風景はお気に入りスポットが多い。取り分け「大歩危小歩危」(写真)周辺は、木曽路の車窓とオーバーラップしても愉しい。うっとり眺める旅が高知への出講の旅の醍醐味。
 しかし、今回はまったく違った。
 いつ、お気に入りポイントを通過したのかも覚えていない。確かに車内アナウンスで「観光案内」は耳には届いていたが、無意識のまま通過してしまった。岡山駅ビルの本屋で購入した1冊の機関誌が、大歩危小歩危の魅力を遠ざけたからである。
 機関誌の特集とし掲載された「経営のこころ」は、「小生のこころ」を引きつけてしまった。高知駅到着時刻が12:28。2時間少々の四国の旅は、妻が作って持たせてくれたおにぎり弁当を頬張りながら、機関誌の哲学論との格闘であっと言う間の時間となった。いつか、機会があったら「経営のこころ」の角田バージョン(「教育を経営する」)でお話ししたい。
 全国各地を回る「旅人」にとっての道中は人生そのもの。ボーッとする時間もあれば、飛ぶように過ぎ去る景色に焦点を合わせながら時間を潰すことも多い。この旅人は訪問処女地に向かう道中が何とも言えない歓びとして胸がワクワクする。従って今回のような何回も通過した道中には「旅の伴」が必要となる。それは「BOOK」である。
 夢中にさせてくれる本こそがベストな友になる。盛和塾の機関誌との出会いは正しく2時間の道中の最高の伴(=友)となってくれた。しかし、往路の友は復路の友にはなれない。一旦没頭した本は、二回目には没頭が約束されないからである。 帰路の道中の友。それは、「地元新聞」が相応しい。広島市や高知市のように定期的に何度も訪れる都市には耳慣れた地名があり、親しみを感じるからである。地方独特のニュースには「旅のこころ」を擽るモノがある。

今日はこれからJR相模線の旅。立川市の小学校へ行ってまいります。

2010/06/22

『修理・修繕』も死語に?

  ~古い扇風機の処分~
 陽ざしは無いのに蒸し暑い。この時期の特徴とは言え不快感は拭えない。一時期「不快指数」なる言語が流行ったことがあった。流行は廃れる。これもやむを得ない。我が家では来客が無い限りエアコンを使用することはない。義父の介護をしている時期は、冬季の暖房には使用していたが、夏期の冷房には使用しなかった。除湿という機能で賄った。
 幼い頃、農家作りの建物だった実家に長兄が「扇風機」を買ってきたことを思い出した。団扇の風が涼味を運んで来ていた時代だった。スイッチ一つで強力な風が吹いてくる文明の利器には驚きと感動があった。今朝、妻が「製造年月日を確認してください」と言いながらどこかに仕舞い込んでいた扇風機を持ち出してきた。2個ある古い扇風機も結構重宝していた。ある年代以前の製造年月日の製品は使用を控えなければいけないと言うではないか。1つは製造年月日すら明記されていない。もう一つは12年前の製品であることが判明した。妻は、「危険だ」とのメッセージをどこからか入手したようだ。そう言えば、昨年の夏、里帰りした娘に注意されたことを思い出した。火が出たりショートしたり危険なので使っては駄目だと言ってくれていた。しかし、その後も老夫婦は、何ごともなかったかのように(娘の忠告を無視したわけではないが)古い扇風機の御利益をいただいて昨夏は過ごしてしまったのだ。
 真剣な眼差しの妻の申し出に夫も渋々納得せざるを得ない状況下になった。
 「修理して再利用する」消費文化が日本からすっかり消滅している。メーカーでは、単一部品の製造をしていないと言うではないか。街角にあった「電気屋さん」の姿も消えた。明かりを点けて虫眼鏡のような厚い眼鏡を目にはめて「修理をしてくれた電気屋さん」の存在が、生活共同体の人間関係も円滑にしてくれていた。大型電気量販店が拙宅の至近距離にもある。しかも安い。「新製品を他社より安く売る」競争に徹している。保証書はあって無いようなものだ。修理している姿も全く見えない。だから「有難うございました」「いいえ」の会話も存在しない。
 経済原理が「利益の追求」に突っ走り、いつの間にか利便性だけを提供される時代に慣れてしまったようだ。新・扇風機を購入することに「夫婦閣議の決定(笑)」となった。また、我が家から「ゴミ」が増えた。ゴミの処分はどこでどうなっているのだろうか。
 話題は飛ぶが、ゴミとして(?)処分され山林に埋められた宮崎の牛や豚の死骸処理が妙に気になる朝である。

2010/06/21

『心ぽかぽか』ニュース(7)


  ~こんな立派な子供達が・・・~
 
 わが国の「国技」も泣いている?大人社会の膿はどこでどう切開されるのか。
 友人の外国人が、知り合った頃「大衆の面前で全裸で」と不思議な顔をした瞬間を思い出す。小生には自慢の国技・相撲であったので力んで説明したことも懐かしく思い出した。「国技館」と言う名が地に落ちるのか。名古屋場所を続けるか、って?他人事のように語る角界トップの声を聞きながらわが国で育ったはずの日本人独特のリーダー性は何だろうか、と腹立たしく思えてならないこれでもか、とばかりに政治にしろ経済にしろリーダーの未成熟さを見せつけられて哀しくなる。今や、業界や職種の問題ではない。大人社会の持つべき風土がいつの間にか若い世代に認知されなくなるような所まで落ちてしまったのではないだろうか。(人のことを言えるほど小生も立派な大人ではないが)7月の国会議員の選挙も結果に大きな期待が持てないようであれば日本国家はどうなるのだろうか。心痛の極みである。
 掲載した新聞記事に心を救われた。
 他人の命を救うという行為は間違えば自らの命を落としてしまうほど危険である。判断力と度胸と協力性を持っている頼もしい若者世代がここにも生きているではないか。「命の恩人」と表現される素敵な日本語が浮かんでくる。こんなにも前向きで、真剣に生きている次世代に、日本を諦めさせては申し訳ないと思うのは小生だけではないでしょう。
 最も昼間の時間が長いという夏至の一日を、不在が多かったので読み切れなかった新聞をじっくり読んで過ごした。心がぽかぽかするような記事が目に止まった。
 せめて「嬉しさのお裾分け」ぐらいしてみたくなったのである。

『夏至』の日に思う

  ~疲れも頂点(笑)!~
 日課の『腰湯』を満喫しながら浴室の窓から差し込む明るさに見とれる。今日も若干の寝坊だった。疲れは身体が正しくキャッチしているようだ。曇天らしく太陽光線は無いが明るさは十分である。雨戸を開ければ室内灯は不要な時間帯である。
 浴槽の中で目を閉じる。座禅の境地に入る。全身に疲労感がのし掛かっている実感を持つ。全く休養日無しの1週間を振り返る。その間に四国までの往復もある。四国から帰宅しても翌日もその翌々日もフルタイムで「お仕事」が待っていた。
 「お父さんは仕事が好きだからね」と忠告を受け入れられないフラストレーションを含んだわが娘達の声が耳に付いている。「いい加減にしろよ。歳を考えろよ」と叱りつける長男の声も心の中に響いてくる。
 そんな浴室の朝から今日も一日が始まる。
 今日は「梅雨の中休み」的な休日である。しかし、やりたいことが沢山ある。いや、やらなければならないことが山ほどある。と言うことは休養日にはなりそうにもない。小生の健康状態を心配してくれる妻やわが子達の「優しさ」には感謝はするものの、この気力と体力、そして意欲が続く内は彼らの思うような行動にはなれない。
 四国は遠隔地。しかし、そこには小生如き老身にでも「待っている」人たちが居る。確かに居た。そこに感動と感謝が併存する限り足は止められない。そして何よりも「求められている幸せ」に酔うのである。後何年続けることが出来る?答えは「解なし」(笑)。
 明日からまた連続する講演活動が待っている。束の間のフリーデーの今日は昼間の時間が最も長い一日(【夏至】)らしい。意識的に「休養する」態勢で時間を過ごすことにしよう。

2010/06/20

やくざな「義理・人情」論


 ~お義父さん・お義母さん~
 今日は「父の日」だ、と。
 誰が決めたんだよ~、と、「肥後もっこす」の小生は喚きたい心境になってしまう。自分を産んで育ててくれた両親に「ありがとう」を言わせる日が「母の日・父の日」なのか。決して否定はしないが、成人して結婚できたわが子が、今でもそうであると思っているようでは大人社会の成熟は保障できない。
小生には結婚できた娘が二人と息子が一人いる。娘には必ず言う。「良い嫁」になれ、と。良い嫁になる努力の最低の条件は、「産みの親を忘れるくらいに尽くすこと」と言い続けてきた。
嫁ぎ先の両親は義父母。つまり、義理と人情で「親子」の関係が成立すると考えている。義理と人情というと「別世界」と誤解される。そうではない!!その本質すら忘れかけている今の大人社会が嘆かわしい。おまえ達のお母さんも、お父さんの家に嫁いできた40年前は「嫁」だったんだぞ、と。義理の世界でお母さんは頑張ってくれたんだぞ、と。「娘達に届け!」と願うばかりである。『育てたように子は育つ』という書物がまた、脳裏を掠めた。
 孫の守りに行っていた妻が、義理の娘(=「嫁」)からの父の日の贈り物を預かって来た。
 とっても嬉しい。義理だから人情味が無い?形式だけ?そんなことは全くない。受け取ってお礼の電話を済ませた。本気で嬉しいから本音でお礼を言う。爽やかな義理の娘(=嫁)の声を聞いて更に満足である。可愛い娘が一人増えたことを喜べる至福の時間である。
 妻に「おい、娘達は嫁ぎ先のお父さんに「ありがとう」が言えただろうな」、と問う。
愛娘達は実家の両親にはいつでも出来るではないか。時期がズレても言い訳がつく。言い訳は「義理の世界」では哀しい誤解になってしまう。そう言うことを心配するのが実の親である。
 変わりモン爺は、いつもこんな事しか考えていない。
教員の世界でも「義理も感じない」「ご恩も忘れる」教師達が増えたと嘆く輩が多くなった。それなのに、教師達は叫ぶ、「ありがとう」を言わせよう、と。誰に言わせるの?先生達に言わせたいの?教育の傲慢を感じる事が多い。所詮、公務員か!と嘯きたくなる夜である。
 親は喰わなくても子どもには・・・。そんな母親の時代だった。だから親への恩も成立したのだろう。とっくに亡くなった母親の顔を思い浮かべてしまう。
我が娘達からはきれい事は要らない。元気で嫁ぎ先のご両親に可愛がっていただければこの爺は何も要らない。
 可愛い嫁に貰った「父の日」のプレゼントは、いつ?どこで?ご披露しましょうか?

2010/06/19

朝一番の「お手紙」

 ~やっぱり寝坊しました~
 仕方ないジャン!三日間の超・ハードスケジュールを消化したんだからさ!!『腰湯』の時間は身勝手な「慰め」の言葉を繰り返していました。16日の早朝から移動して18日の夜の帰宅までの間、車中が往復12時間でした。固定した姿勢での長時間は疲労困憊の老体に拍車を掛けていただきました(笑)。しかし、今回の高知訪問も「感動と感激」の二重奏を堪能しました。その一コマをお知らせしましょう。
 
 寝坊した角田先生から「朝一番のお手紙」を書きます。
 担任の先生にはお手数をお掛けしますが、読んであげてください。お願いします。
 
「しなね学級」のみなさん へ
 てづくりしふぉんけーきを4こもいただいてかえりました。おうちにかえってからすぐにほとけさまにあげました。ほとけさまはせんせいの「おとうさんとおかあさん」です。うれしいことがあったらかならずほうこくします。こんども「また、もらってきたよ」とはなしかけました。きっとよろこんでたべているでしょう。
 きょうしつにはいったらすぐに、たっちゃんが、「あ、つのだせんせいだ」とおおきなこえでいってくれたときはびっくりしました。おぼえてくれていたことにおどろきました。でも、とてもうれしかったですよ。あたらしいおともだちもふえていましたが、てんこうしたおともだちもいるのをきいてさびしくなりました。
 せんせいのきょうのおやつにはしふぉんけーきをいただきます。ほんとうにありがとう。また、あいましょう。  つのだせんせいより
 
 何よりも一番にこの気持ちを伝えたかったのです。本日の第一弾のブログはこの位で一旦止めます。後続弾は時間が取れ次第発刊します。

2010/06/16

高知へ出講します。

  ~定刻より1時間早い起床~
 しかし、いつもの日課(『腰湯』)は欠かせない。長旅の身には腰痛は爆弾を抱えている様なモノだから予防行為は重要なのです。朝食も1時間早く・・・。そう言えば、1ヶ月前から「朝食の復活」でした。考えることもあり健康管理の為の得意芸として「半断食」を生かすこと。その意志決定をしました。5年間続けてみての結論です。
 通常のリズムの「1時間前倒し」リズム。今日は「高知で待つ」人たちの許へ出講です。人として産まれ生きていて「待っていてくれる人」がいることは最高の幸せだと最近、妙に感じるのですが、加齢症候群?久し振りに再会する面々の様子がちらつき始めました。
 冗談は二の次。5時には予約したタクシーが玄関先に到着する。旅の荷物を確認して「龍馬の待つ高知」(笑)に出掛けるぜよ~!! 
 ◇◇帰宅までの数日間はブログも休刊です。高知のお土産話をお楽しみに!

2010/06/15

新・歩禅記(32)



~梅雨入りしたら・・・青空の朝~
 明日から高知市への出講。例によって前日はチケットの購入である。青空が眩しいほどなので茅ヶ崎駅まで歩くことにした。こんな設定には妻の同伴は無い。出発したのが7時半だったので30分ばかり掛かって辿り着く茅ヶ崎駅周辺は電車から降りて来る人が多い。茅ヶ崎市内に勤務する人の波がピデストリアンデッキには押し寄せていた。もう額の汗を拭きながら歩いている人の群れとすれ違う。これから勤務先に着いて一日のお務めが始まるのか。現役時代の遠い日々を思い浮かべながら「みどりの窓口」に到着した。ラッシュ時間は寧ろこの窓口は比較的に空いている。勤め人はチケットの購入が無いからである。並ぶことなく明日の高知行きのチケットの購入が済んだ。
意図的に持参したカメラを片手に茅ヶ崎駅南口のローターリーに向かった。
被写体は「JR茅ヶ崎駅」自体(建物)である。なぜ、南口?今日の午後、訪問する東海岸小学校の子供達はこの出口を使用しているからである。今日の研究会で使用したいとの「思いつき」の行動である。講師としての持ち時間で「もし、時間があれば・・・」の想定でこの写真を基本材料としてオリジナル教材の開発に指導助言をしたいのである。
 この「茅ヶ崎駅」の建造物はいつ出来たのか?つまり、出来て何年になるのか?東海岸小学校は記念すべき「周年行事」の年になっているそうだ(=貴重な情報資料)。そこに「思考」のピントを合わせて創立●●周年を英語で勉強させてはどうだろうか、と着想。これが「生きた教材づくり」だと、教師サイドで深く認識して貰いたいのである。
 参考までに、小生がデザインする「オリジナル教材」も一緒にご紹介(写真版)しておこう。あくまでも想定内のデザインである。子供達のつぶやきや反応で、大きく様変わりすることも十分考えられる。そう言う点も大いに教師は楽しんで欲しい。
 暑くなりそうです。月末まで全く「休業日」無しのスケジュールになる予定。元気で乗り切れれば、一足も二足も早い「夏やすみ」になる。頑張りましょう!!

2010/06/14

『括り着想』の落とし穴に填りました!




 ~いるじゃん!しっかりした若者が~
 写真版でお示ししたのはメール交信のホンの一部分です。
 去る12日、愛知県小牧市で開催された『教師力アップセミナー』に出講しました。数ヶ月前から主催者側から担当窓口として一人の教員をご紹介いただきました。当然ながら全く存じ上げない人物です。セミナー前夜の事務局関係者との夕食会の会場で担当者とは初対面でした。ホテルまでお迎えいただいた主宰者のご案内で食事会場に到着しました。出迎えてくれた若い女性がいました。初対面の挨拶で今回の講座の担当窓口として事務連絡をしてくれている人物だと分かりました。約束の時間までにはまだ15分ほどの余裕がありました。名刺を差し上げて、今日までの担当業務の遂行にお礼を申し上げました。
 「お会いできるのをとても楽しみにしていましたが、今日は緊張してしまっています」と笑顔で応えてくれました。行政用語ではこの一連の動きを「接遇」と言うそうです。来客への接し方の無神経さが話題になる公共機関での難題・課題の一つとして意識されている言語です。
 若い女性教員が、主賓の到着より一足先に会場で待機して「楽しみにして待っていました」とさり気ない言葉を発することこそ接遇の基礎基本事項なのでしょう。かく言う小生など伊達に加齢はしていても接遇とは無縁な人間としてここまで成長(笑)してしまいました。
 爽やかな笑顔と必要以上のお喋りをしない接遇の基本的な「しつけ」は彼女をお育てになったご両親始めご家庭での教育の賜なのだと確信しました。
 講座自体は、上掲のメールの本文にも記した通りです。あれも、これも?ザル状態で抜け落ちてしまいました。担当の彼女には「あれも・これも」準備しておくようにと偉そうに命令したことが恥ずかしい限りです。《どこかで、リベンジさせていただけませんかね》
「350ミリリットルのアサヒスーパードライ(缶)を購入して会場に持参しなさい」と夕食会の席上で命令しておきながら・・・会場では目の前の担当者の机上にはその実物も置いてあったにも拘わらず・・・使わず仕舞い!この非礼なる高齢者は若者に偉そうなことなど言えませんな!
 「今の若者は・・」との括り着想に逆上しそうだった「若かりし頃」の小生。それがいつの間にか思考回路に錆まで着いて「全く、今の若い人たちは・・」と括ってしまって愚痴ることもしばしば。担当窓口として当日まで、本務の合間を縫って懸命に頑張ってくれた彼女の素晴らしさに、完全脱帽。講義進行上の機器操作等の手際も言うこと無し。感服。
 そして、まだあるのです。
ダメ押しが今朝のメール。上掲の最後の部分で朱書きにしてある「受信時刻」をご注目下さい。そして、今朝の心情を記した「教員としての心構え」には、後頭部を何かで殴られたような衝撃が走りました。恐れ入りました!!「今後ともこの爺をお見限りなくよろしくお願いします」とそぼ降る雨の西空に向かって両手を合わせてしまいました。娘のような「若者」に、「爺も頑張ります!!」と小さな声で叫ぶのが精一杯のことでございます(笑)。

2010/06/13

大役は果たせただろうか?


昨日の充実感が全身に詰まってはいるが・・~
 しかし、珍しく腰の疲労感を覚える朝だった。日課の『腰湯』の時間を10分間長目に取って『湯禅の心境』に浸ることにした。昨日、会場を出る時点で本(写真版)を頂いた。その中の数節・行が浮かんできた。著者はどうやら小生と同年齢のようだ。退職年月が同じであることを略歴から知った。同じ年数を「生きてきた」者でも、日常的な情報収集能力や学びの機会設定の得手不得手でここまで差が付くのか。我が身の浅学を悔しくさえ感じた。お湯の温もりが腰にも入り込んでくると「音を立てながら疲れが放出される」体感になる。
 浴室から出てお礼のお葉書を認めた。
 感想を詳細に述べるより、「まずご著書との遭遇へのお礼だけでも・・」、の境地で葉書にした。そして、残部がお手元にあるのかどうかと問うことにした。図々しさは隠せない。今、接触している後輩諸兄にも一読させたい欲望のままに、お譲りいただきたい旨添えてしまった。
 著書名を知った時点で、直ぐにネット書店で検索したが見当たらなかった。そこで紹介者に1冊を所望したのである。非売品のようである。どこにも頒価が記されていない。帰路の新幹線車中で一気に読破してしまった。素敵な「旅の友」をいただいた。感謝。
 今日はこれから横浜での仕事。
 昨日の教師力アップセミナーとは趣が違うが、この会場にも毎回真剣な眼差しで溢れる。老脳の刺激には強すぎる気がしないでもないが、敢えて挑みましょう。行って来ます!

2010/06/11

来年度から小学校で「英語の授業」開始




 ~政権が替わって早くも二代目の首相~
 こんな国家ってあるの?テレビを観ていた妻が怪訝な顔をして聞いてきました。さぁ、無いんじゃないの?って応えるしかない夫。いつの間にか、国家の政治を担うトップがあっと言う間に交代するので我が子世代では「記憶に残る総理大臣」は少ないのではないかと心配とは付かない心配をしている老夫婦の今朝の光景です。トップが「心変わり」すれば末端では大きな影響が生じるのです。それに慣れてしまうのも変なモノですね。
 国家100年の計。これは教育の重要性を説いた言葉の一つです。
 数年前に突如として表面化した「教育理念」らしきモノが、そのために特設された審議会で関係者が熱心な意見を交換しながら方向性が答申されます。ところが政権が交替すると再び振り出しに戻ります。二転三転しながら前回答申とは異なった方向で大車輪が回り始めるのです。
 最たるモノが最近では「小学校での英語」教育です。文科省では、「外国語活動」という名称になって学習指導要領に明記されました。つまり、小学校で英語の授業が始まると言うことです。平成23年度から全国の小学校で実施されることになりました。
 偶然?私は中学・高校「英語」の免許状の保有者です。しかも、小学校の校長の経験者でもあります。10年前から勤務校では「英語の授業」を教育課程に入れて実施してきた校長でもあります。昨今の学校訪問要請が「英語の指導」に関する内容が多くなりました。「英語を喋る」ことは一朝一夕に出来ることではありません。しかし、小学校の先生達は教えなければなりません。現場の先生方は大変な苦労です。せめて出来ることは指導者を励ますことです。それは「英語学習の発想」の大々的な転換の必要性を説くことだと考えています。
 今日は、愛知県小牧市に出講します。講義の内容は「小学校英語」です。掲載写真を使ってどんな「英語の授業」が出来るかを聴講する小学校の先生方と一緒に考えながら「発想の転換」の手助けに挑戦します。読者の皆さんも、この写真で「英語の授業」を創造してみてください。

写真提供は、地元にお住まいの小学校の教頭先生です。小生の依頼に応えて昨日撮影していただいたモノです。

2010/06/10

『心ぽかぽか』ニュース(6)

 ~商戦合戦と「○○の日」~
 また、「父の日」とやらが近づいてきた。
 「とても不愉快な日」の一つである。小生の当ブログ(旧:歩禅記)をご愛読いただいている方々には、角田氏独自の「歪んだ哲学」に因るモノだと失笑でお片付けいただく表現である。日本列島が「経済市場」化されて『○○の日』商戦合戦で明け暮れ始めてからどれだけの歳月が流れているのだろうか。チョコレートやカーネーションなどを買って贈るだけでは倫理観や道徳観は育めるものではない。『○○の日』設定の純粋な心が踏みにじられているとしか思えないのである。義理や任務紛いの関係でモノを交換することは致し方ないとも考えているので全否定をしているわけではない。決して誤解の無いようにお願いしたい。
 5月第2日曜日・6月第3日曜日はご存じの「母の日」「父の日」である。
 カレンダーにも明記されている。偏屈になってそれ自体を拒否しているのではない。表面だけの「ありがとう」の押しつけがましい言動が嫌いなのである。本気で、音にはならない「感謝の言葉(=有難う御座います)」を大事にしたいだけの話である。「ありがとう、言いたい時には親は無し」の川柳(?)が何とも温かく感じるのはへそ曲がりの小生だけだろうか。
 昨日の夕刊から「ぽかぽかするニュース」を発見した。嬉しかった。こんな記者も居る。そして、世界にはこんな素敵な若者が居る。大学進学に夢??ホンとかよ!と思わず考えた一人の老日本人は恥ずかしくなった。そして、ガンバレ、と心底からエールを贈りたい。
 「父の日」もこんな感動を「受け止められる日」であって欲しい。やっぱり、この爺はひねくれモンなのでしょうね。許されたし!!

2010/06/09

「今日って、どんな日?」

 ~風化してしまう哀しい出来事の記憶~
 ラジオ番組で「今日は何の日」という1分間ぐらいのアナウンスメッセージ形式のモノがあります。昨日のことです。6月8日は何の日?歴史上にどんな出来事が起きたのか。『腰湯』を堪能しながら耳はラジオの声に集中していました。
 大阪教育大学附属池田小学校事件と秋葉原無差別殺傷事件。
 同一の日に「歴史上に残る悲惨な事件」が起きていたのです。双方とも強烈なインパクトがありました。4月に開校したばかりの茅ヶ崎市立緑が浜小学校の校長室で、テレビの中継画面に集中した時間を思い出していました。最後に勤務した小学校でした。その後、国や県、市から矢継ぎ早に「緊急通達」文書が届いたのです。児童生徒を護るべく行政の指導も例のない厳しいモノでした。
 老脳の中で走馬燈はが回り続けました。
 秋葉原の惨い事件。前日に小生はその事件現場には行っていました。歩行者天国ではなかったのですが、パソコン周辺器を購入のために行ったばかりの景色がTV画面に映ると背筋が寒くなってしまいました。罪を犯した青年の生い立ちを後で知りました。心痛の極みでした。
 犠牲者のご家族や関係者の皆さんには、決して忘れることのできない日々なのです。しかし、「そんな惨い日」が、時の流れと共に、人々の記憶から薄くなり、消え去ってしまうと思うと本当に哀しくなります。風化してしまうほど辛いことはありません。
 昨日という日(6月8日)は、そんな日だったのです。

2010/06/07

ラジオの出演者とリスナー


  ~キッカケはラブコール~
 埼玉県三郷市にも知人がいます。
 と表現すると、全国各地に「知人・友人」が居るという展開に繋がります。既に、このブログでも新聞掲載記事を紹介していますのでご記憶にあるとは思いますが、知人関係になった経緯を今日は簡単にご紹介しておきましょう。
 『キッカケ』は小生からのラブコールです。
 小生の日課の始まりは枕元に常備しているラジオを聴くことです。ラジオ深夜便という番組を聞き始めて20年は経っていると思われます。その番組の中に早朝(4時)放送の「明日への言葉」(当時は「こころの時代」という番組名称)があります。ほぼ毎回拝聴しながら、日本全国にはこんなにも多くの立派な生き方をしている人たちがいらっしゃるんだ、と感じる番組です。
 その番組にこの知人が出演されたのです。その時点で「知人への誘い」を感受したのです。聞き終わって涙を拭いて、放送の中で紹介された自叙伝のご著書を直ぐにインターネットで購入しました。届いて一気に読み切りました。そして、HPのイチオシBOOKSというコーナーで、読者の皆さんにご紹介しました。それでは物足りず、主宰する教育実践・ちがさき『響の会』の秋季特別講演会にと登壇願うべく依頼のキッカケを創りました。気持ちよくお請けいただいて念願の「ナマのお話し」(自叙伝・講演)が実現しました。
 秋田から上京されてからの奮闘は、三郷市に立派な工務店を経営されるほどの成果となっています。ご自身の生い立ちの不遇にも負けず、世間を恨むこともなく懸命に生き抜いてこられた氏の「生き様」には、いつも大きなメッセージをいただきます。ご著書も多く、最近ではご自身の生き様を絵本にして出版されました。送呈いただいて直ぐに読みました。感動です。
 小生は大学卒業という「学歴」があります。氏には「大工さん」という確固たる人生を証明する「肩書き」があります。学歴に圧迫されることなく自らの人生に誇りを持って生きておられる姿には、その言動に「不動」観を感じ取れます。小生の「尊敬する」人物の一人です。
 茨城県笠間市に別荘がありまして、妻と一緒に一昨年は訪問させていただきました。また、趣味で描かれた「絵画」も頂戴しています。夕陽が大好きだと描かれた力作です。飾るのが勿体なくてまだ大事に仕舞い込んでいる貧乏性の小生とはスケールが違います。
 ラジオ出演者とリスナー。その関係が「知人」関係設立の始発点です。「良き友」を得たと言えば氏に失礼ではありますが、そんな関係が、あの日以来ずっと今も続いています。先日、新聞記事のコピーをいただきました。図々しくホンモノを送って貰えるようにお願いしてこの写真版資料が実現しました。クリックして拡大しながらお目通し願います。

2010/06/06

新・旅日記(6月2日~5日)


芒種  【芒(のぎ=イネ科の植物の花の外廓)のある穀物を播く時期。二十四節気の一つ。太陽暦の6月5日頃】
 
  ~あれ?疲れていない!~
 精神的疲労は身体的疲労を自然淘汰する?そんな大袈裟なことではないだろうが、ふとこんな哲学的表現が浮かんできてしまう朝である。4日間の広島滞在の講演旅行であった。講演活動(と周囲は表現する)とやらを始めた頃は、5泊6日と言う日程もあった。重ねる内に体調に異変が生じた。腕が動かなくなったり微熱が続いたりして「元気印」が売りの小生には耐えられないほどの苦痛(心痛)を味わう羽目にもなった。我が儘を言わせていただいて「最高でも3泊4日」の行程で依頼を請けることにした。久し振りの、その最長の旅となった。
 実は内心では心配もしていた。しかし、最終日の朝焼けの景色(写真版参照)を18階のホテルの窓から拝んだ瞬間、「疲れは残っていない」と心が軽くなった。最終日も何とか務まりそうだと嬉しくなった。
 無事(かどうか)に、要請業務を全て終えて「広島駅始発」ののぞみ号に乗車した。関係者に携帯メールを送信する予定だった。ところが疲れていないはずの老体も、目が醒めたら姫路駅だった。途中の岡山駅停車に気づいていなかったことに気づいて苦笑した。「なぁ~んだ、やっぱり疲れてんジャン!」と自問すると「当然ジャン!」応えが戻ってきて苦笑の二重奏(笑)。
 3日 広島国際会議場 広島県公立小中学校教頭研修大会・基調講演(90分)
 4日 広島市立亀山小学校・授業研究協議会 指導助言者 (終日:公開授業教室および協議会特
    設会場)
 5日 広島市立亀山小学校・第6回「子育て応援談」(談は間違いではありません)対象:保護者(10:
    30~11:30:体育館)
 広島国際会議場はTV画面では何回が観たことはあったが、現場のステージに立ったのは初めてである。広島全県から出席されている「教頭先生方」の数に圧倒されそうな会場であった。不思議な感じがしたのは、一人二人ではない数の教頭先生達を知っていることだった。多くの学校訪問をして授業研究を共にした先生達が「教頭先生」になっていることである。驚きながら広島への訪問が、そろそろ10年近くなることをしみじみと感じた時間だった。会場に集う聴講者の真剣な眼差しは、この講師には異常なほどの力みを与えるから厄介だ。今回も例外ではなかった。後輩の教頭先生達にエールを送る全身が炎に燃え尽きた90分間だった。ご多分に漏れず「感想は聞きたくない」心境で会場を出た。
 亀山小学校とは4年目のお付き合い。学校からの要請は学校長のイニシアティブに因ることが大きい。本校も例外ではない。隅本校長先生の熱意に絆され、初めての訪問から、回数を重ねて何度目なんだろう。広島駅から可部線に乗って45分。眩しいほどの新緑に歓迎されながら2日間の「通勤」であった。
 授業研究は教師稼業では切り離すことは出来ない。しかし、全国の全ての学校で何十年も続いているこの「授業研究会」(校内研究会とも言う)も特色らしいモノは余り見かけない。小生は最後の勤務校では「授業研究協議会を公開しよう」を合い言葉に学校経営をしてみた。つまり、授業を研究し合っている現場の教師の熱意を公開することが必要であるという理念を現実化したかったからである。この挑戦にはかなりの手応えを感じていた。その熱さを広島市の小学校のいくつかで実践指導を試みてきた。この亀山小学校の現状と遭遇した今回、大きすぎるほどの手応えを感じた。これも「疲れを吹き飛ばす」要因であると感じている。教師集団の成長に目を見張った。授業を自主公開した教師の力量が飛躍的な前進を醸し出していた。公開授業の担当教員の意気込みも感じ取れた。大きな期待をしたくなってしまった。今度はいつ呼んでもらえるのだろうか。
 保護者対象の講演会。最近、頓に多くなっている。想定外の出席数に先ず驚いた。もっと驚いたのは能天気爺さんを証明した手作りの欠陥資料(会場に配布)であった。60分を何とか話しきってしまったのはやっぱり能天気な性格の為せる業(笑)。12月にはこの失態のリベンジをする機会を校長先生はお作りになっているではないか。心して次回は準備をして伺います(誓)!

こんな4日間の旅も終わりました。
週末は愛知県小牧市です。今回とは色合いが全く違う講座に出向です。違った興奮と興味でこの老脳にももう充血が始まっています。 

2010/06/02

今年も、過密スケジュールに挑戦

 ~旅程の変更は慣れたモノ~
 今日からハードスケジュールの始動。
 最初の出向先は広島市。通常通りに目を覚まして日課をこなす。旅の身支度は既に完了している。昨夜、土浦市に住む長男(嫁)から電話が入った。要求された書類を送っておいたら違うとのこと。取り直しの依頼である。役所は8時半に開業。出立予定時刻から考えても再要求の書類を受け取れそうにない。そこで、出発時刻を遅らせることにした。書類を受け取って郵送を済ませてからの移動に変更。指定券を購入していなかったのが救い。
 人生ってこんなモン。
 つまり、何かで立て込んでいるときに限って、また別の用件が飛び込んでくる。どうしよう!!困った!そんな心情をパニック症候群と言うらしい。小生にはあまり縁がない。と言うより、「生き死に」に関係がなければそう慌てることではない、と脳が勝手に制御してくれる性分だからである。
 「こんな状態で良く平気でいられるね」とは耳にタコができるほど聞いている。少年時代の臆病と泣き虫・弱虫の日々に味わった辛さや哀しさが免疫になったのか?と自らに問いかけては苦笑いをしてしまう。こんな心境も、他人からすると異常な性格の持ち主と判断されるようだ。異常と正常の区別は難しい(笑)
 ともあれ、依頼された用務を済ませてから仕事先に向かいましょう。今日は前泊のみ。明日の本番(講演)までには随分時間があるんだから・・・・。能天気な爺さんは健在なり。

昨日のブログを投稿した時点ではこの展開は「わが人生」にはありませんでした。従って今朝は特別寄稿というブログです。悪しからず・・・。今夕には出向地に着きます。

2010/06/01

6月は「衣替え」なのに!

 ~今朝は6月の史上最低気温~
 早朝歩禅の前に『腰湯』をするのが日課の始まり。
 午前4時に起床すると先ず、『腰湯』のための追い焚きのスイッチを入れること。そして二階の書斎に向かい、パソコンの起ち上がるのを待ちながら隣室の和室の雨戸を開ける。周囲の家はどこも起きていない(笑)。亡き義父が実家で見せた姿が今の小生に映っている。口癖が「電気は点けるな」であった。お天道様が出てくれば雨戸を開ければ電気は要らない。昔流の生き方に決して抵抗がなかったわけではない。しかし、こうして早朝の明るい光を得る瞬間の至福の時間を満喫している内にいつの間にか、電気を点ける前に外の明るい光を入れる行動自体が心地よい。
 40代の現職教員時代の代名詞は「ミスター・腰痛」だった。ネーミングは当時の生徒である。笑ってなんかおれないほどの激痛との勝負だった。痛み止めの注射と薬、そして牽引。整形外科医には半年に1回は通院したモノだった。その後の経緯で鍼診療を知った。そして「注射と薬」と縁を切った。診療士の勧めは「『腰湯』(「半身浴」が通称)の継続である。鍼診療経歴10年であるからその半分は自宅での『腰湯』を続けていることになるだろう。激痛ともおさらばが出来たので歩禅が続けられるようになったのではないか。
 6時に今朝も早朝歩禅に出掛けた。
 『腰湯』の時間に聴くラジオで「6月で史上最低の気温」と今朝の天気予報だった。実際に朝の風が実に冷たかった。しかしながら、僅か5000歩の歩禅であっても、帰宅するとTシャツは交換するほどに汗ばんでいた。快調な一日のスタートなり。
 明日から恒例の「魔の6月」と言えるハードスケジュールが始まる。6月を乗り切ると後半はグッと楽になる!!健康状態も良好であることに感謝しながら、こんな老体を待っていただいている学校や団体の元へ「元気印」をお届けにまいりましょう。

※旅先にはパソコンは持参しますが、歩禅記投稿は期待しないでくださいね。頑張ってはみますが出来ない場合は、6月6日に一括して「講演・旅日記」(以前のホームページにも掲載した)として投稿しますのでお許し願います。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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