2010/06/26

「感謝」は再縁への祈り

  ~「お礼状」って?~
 手元に届いた『私信』(写真版に合成)に目を通しました。
 ずっと以前の話です。古い「歩禅記」時代の話題を思い出しました。まだ、ホームページを起ち上げていただいたばかりの頃です。管理人さんから「エッセイ」風なモノで週刊に掲載したいとの意向が届きました。定年退職という人生の転機の時期でした。時々、「過去を振り返る」ような年齢にも達していたのでしょうか。
 腹が立ったこと?として自問自答しました。
「頼むだけ頼んでお礼の一言もない」人種に腹が立ったことが多かったのでしょうね。力んで書いたことをここで再現したくなりました。礼儀は「形」で始まって「形」で終わる。これが礼儀の基本形式ではあるが、形式から内容に入るべきだと考えるのが「人間としての常識」と記述したのです。お礼状は「ありがとうございました」の言葉の形式的文章表示でしょう。頼むときはどんなにしても頼んでおきながら「事が済んで」一段落すると、「ありがとう」の意識がどこかへ消えてしまうのでしょうかね。「依頼状」と「お礼状」は一組です。「情」には温度差もあります。「伝」にも誠意が無い場合もあるでしょう。しかし、「お礼状」は、例え、形式的で「情」も「伝」も上手く表現できなくても準備万端にしておくべきでしょう。
 市教委の課長時代に指導主事諸兄にこんな暴言を吐きました。「講師への礼状は、出講の前に書いておけ」と。ご丁寧に駅頭までお見送りしたらその帰りには駅前の郵便ポストに礼状を投函しなさい、との極言でした。「そんな形ばかりじゃ・・」との反発もあったでしょう。しかし、「後で礼状を書いて・・」と思っていると、次から次へと仕事は追いかけてくるのです。一つの業務は「段取りから締めくくり」がワンセット。つまり、お礼状が届かなければ業務の完了はないのです。
 しかしながら、日本人ならばもっと大事なことが出来なければなりません。
それは、「見えない第二弾のお礼状」の発信です。それが「真心のこもった私信」なのです。写真版で掲載した「私信・礼状」をご一読下さい。紙面の関係で全文はお読みいただけませんが「心からのお礼=私信」が伝わってくるでしょう。すでに、正式な「お礼状」は出講した当日の夜にはメールで着信していました。
 「感謝する」ことの奥義。それは次のご縁を途絶えさせないための「自戒」手段のことなのです。小生の自戒の念として改めて自覚した証としてご理解願います。心のこもったお手紙有難うございました。また、ご縁がありましたら一緒にお仕事をしましょう。楽しみにしています。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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