2010/06/29

「国民健康保険証」と私

  ~今回の歯科医通院が終了~
 2000年9月1日。間もなく10年になります。この日に、当時服用していた常備薬も含めて医者の処方で飲んでいた降圧剤も「すべて」をドブに捨てました。血圧が高い時期には200を超えていた頃です。主治医は「教え子」でした。
 大英断(笑)だと?英断ではなく単なる「決心」しただけでした。
通院する度に症状に応じて処方される降圧剤と対峙した時点でした。教え子である医師に「先生、この薬は死ぬまで手放ししてはいけませんよ」と忠告を受けた瞬間、強いインパクトは「死ぬまで・・・」の言葉でした。教育指導担当参事という市教委の重要なポストにあった時期です。現職で何かあったら関係者に多大な迷惑が掛かる、との意識だけで良い患者になっていましたが、役職は時間が経てば変わり、いずれは一人の人間としてだけで生きていくのか。薬に頼って長生きするぐらいだったら、薬と縁を断って「生きられるだけ生きる」人生の方がましだ。そんな悶々とした時間を過ごしていたのです。
そんな折り、鍼診療を長男から勧められました。天秤に掛けられた人生は、「薬」から「鍼」へと賭場を変更したのです。正解だったかどうかは今でもわかりません。
 この展開で無縁状態になったのが国民健康保険証でした。しかし、2年前から使用することになりました。それは歯科医への通院のためです。一回の診療費は850~1100円ほどです。キッカケは義父の最期を看取ったことで学んだことを実践するためです。しっかりした歯を持っていたはずの義父も加齢と共に放置したままの状態で虫歯になってしまっていました。辛そうに痛みを堪える義父が、我慢できなくなったのでしょう。初めて「歯医者に行きたい」と訴えたのです。少々の痛みではなかったことが想像できました。小生が連れて行きました。歯科医が「う~ん」と唸り声をあげて、この年齢では処置するのも可哀想だから・・・、と痛まない方法で処理をしていただいたようでした。
 歯痛の経験のない小生には衝撃でした。少々の痛みには平気だった義父の歯痛に歪んだ顔が義理の息子の通院人生観を変えました。義父を見送って妻と二人きりになって直後に「歯医者に行く」と言った夫を見て妻は怪訝な顔をしましたが、直ぐにわかってくれました。歯石を取るための通院が始まったのが2年前なのです。つまり保険証が必要になったというわけです。
 今回は8回通院しました。それが昨日で終了でした。「立派な歯です。歯茎も2年前より肥えてきています。大事にしましょう。」、と歯科医から笑顔の忠告がありました。未だに虫歯のない夫をみると、歯の弱い妻には羨ましい限りでしょう。歯間ブラシとやらを妻から勧められて使用も始めました。こんなに「歯の大事さ」を感じるようになったのも義父のお陰です。あの辛そうで歪んだ顔を思い出すだけでも歯科医への通院は億劫ではなくなりました(笑)。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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