2010/06/22

『修理・修繕』も死語に?

  ~古い扇風機の処分~
 陽ざしは無いのに蒸し暑い。この時期の特徴とは言え不快感は拭えない。一時期「不快指数」なる言語が流行ったことがあった。流行は廃れる。これもやむを得ない。我が家では来客が無い限りエアコンを使用することはない。義父の介護をしている時期は、冬季の暖房には使用していたが、夏期の冷房には使用しなかった。除湿という機能で賄った。
 幼い頃、農家作りの建物だった実家に長兄が「扇風機」を買ってきたことを思い出した。団扇の風が涼味を運んで来ていた時代だった。スイッチ一つで強力な風が吹いてくる文明の利器には驚きと感動があった。今朝、妻が「製造年月日を確認してください」と言いながらどこかに仕舞い込んでいた扇風機を持ち出してきた。2個ある古い扇風機も結構重宝していた。ある年代以前の製造年月日の製品は使用を控えなければいけないと言うではないか。1つは製造年月日すら明記されていない。もう一つは12年前の製品であることが判明した。妻は、「危険だ」とのメッセージをどこからか入手したようだ。そう言えば、昨年の夏、里帰りした娘に注意されたことを思い出した。火が出たりショートしたり危険なので使っては駄目だと言ってくれていた。しかし、その後も老夫婦は、何ごともなかったかのように(娘の忠告を無視したわけではないが)古い扇風機の御利益をいただいて昨夏は過ごしてしまったのだ。
 真剣な眼差しの妻の申し出に夫も渋々納得せざるを得ない状況下になった。
 「修理して再利用する」消費文化が日本からすっかり消滅している。メーカーでは、単一部品の製造をしていないと言うではないか。街角にあった「電気屋さん」の姿も消えた。明かりを点けて虫眼鏡のような厚い眼鏡を目にはめて「修理をしてくれた電気屋さん」の存在が、生活共同体の人間関係も円滑にしてくれていた。大型電気量販店が拙宅の至近距離にもある。しかも安い。「新製品を他社より安く売る」競争に徹している。保証書はあって無いようなものだ。修理している姿も全く見えない。だから「有難うございました」「いいえ」の会話も存在しない。
 経済原理が「利益の追求」に突っ走り、いつの間にか利便性だけを提供される時代に慣れてしまったようだ。新・扇風機を購入することに「夫婦閣議の決定(笑)」となった。また、我が家から「ゴミ」が増えた。ゴミの処分はどこでどうなっているのだろうか。
 話題は飛ぶが、ゴミとして(?)処分され山林に埋められた宮崎の牛や豚の死骸処理が妙に気になる朝である。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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