去る18日は市内の小学校での「子育て講座」に出講しました。
校長室で帰り支度をしていたところに保護者が入ってきました。保護者とは言え小生の教え子の一人です。申し訳なさそうに「もし、良かったら奥様と一緒に・・」と差し出してくれたのが2枚の招待チケットでした。当然ながら本も数冊読んでいましたので講師がどんな人物であるかは直ぐにわかりました。帰宅して妻を誘いました。珍しく快諾(笑)したので拍子抜けしました。そして、昨夕の1時間半の「知的刺激」を受けることが出来たのです。
最後に勤務した学校は新設開校の小学校でした。
初代校長の最初の大きな仕事は「学校教育目標」を創出することでした。保護者や地域にも呼びかけてアンケートも採りました、のんびりしている作業では意味がありません。しかし、どうでも良い作業で安易に、しかもどこの学校にも掲げられているような表現は避けたいとも考え、「理想とする子ども像」としてまとめました。
「よく遊び じっくり学び 正しく選ぶ」ことのできる子ども を理想とする子ども像として打ち出したのです。教室には校長としての直筆で「遊・学・選」と書いて額に入れて掲示しました。学校教育目標が「ゆう・がく・せん」と直ぐに口をついて出るようにしたかったからです。
重松清氏の講演内容にこの教育目標が現れたので背筋がシャンとしてしまいました。人生の中で「選択する」ことの難しさと、価値評価基準の変異が時代と共に大きく生じてくる話題に迫ったからです。当時の校長として、いやお祖父ちゃんとしての教育目標発想の原点がそこにあったからなのです。紙面の都合で内容の詳細は記せませんが、思考回路に「深み」を頂きました。
選択肢は多いほど良い。選択は自らの価値判断で決するのがベストである。しかし、親を含む大人たちは「急いて選ばせようとする」行為が先行しているのではないか。「早く!急いで!グズグズしないで!」とせき立てて追い込むので「どれでもいい・何でも良い」から、究極は「選んでよ~」と選択を委ねる子どもにしてしまう。自己による選択には時間もかかると同時に、悩み・苦しみが伴うものであり責任が最後に付いてくる。30年前の価値判断が30年後の今、どんな付加価値がついているのかは誰にも予想が付かない。だから、自己責任に委ねるべきではないだろうか。「お母さんが選んでくれた」「先生が勧めてくれた」のでは、自責にならず他責になってしまう。
深く深く頷きながら聴き入ってしまいました。
正しく選ぶことのできる子ども。「正しく」とは、その選択時の自らの「判断基準に沿って」という意味である。小学生の内から、「選ぶ」ことの辛さや苦しさと直面しながら「悩み・苦しむ」時間を育んで欲しい。これが(お祖父ちゃん)校長先生の、可愛い子供(孫)達への愛のメッセージだったのである。重松清氏の講演を聴きながら、浅くなりつつある老脳の「深部」に冷たい空気が入り込んで濛々たる呆けを取り去ってくれたような気持ちになりました。老爺にも、まだ、こんな「快感」を喜ぶことがあるのか、と嬉しくなってしまいました。
申し訳なさそうに差し出した「(30年前の)教え子」から貰った1枚のチケットは、30年後の「老師」に膨大な量の「脳の栄養素」となってくれました。感謝の気持ちで胸が熱くなりました。ありがとう。
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