~日野原重明 100歳 いのちのメッセージ~
妻が録画していてくれる番組がある。
多分夫が喜んでくれるだろうとの思い遣りで録画していてくれるのだろうが、時として「好みではない」番組もある。不平など口にしたことは無く「ありがとう」との一言は必ず添えるが、妻には心が読まれているらしい(笑)。妻もそんな夫の態度に対しても苦情を一言にも表出しない。
数日前から「時間があったら・・・」と妻から誘いがかかっていた録画番組をやっと今朝視聴した。
ドキュメンタリー番組なら何でも良い、とも思っていない。時として「やらせ」の影がチラチラする所を考えると「見せたい」意図が邪魔っ気で不快感さえ生じるからである。偉そうにモノ申しているのは、裏方で録画撮りをしてくれている人物に甚だ失礼である。このことも百も承知也。
10月4日100歳の誕生日をお迎えになられた偉人の「生き様」は、ご著書も読んで承知している。しかも、御茶ノ水女子大付属小学校で「いのちの授業」を2回も参観している。氏が発せられる言葉は「生きている証」と「生きている目的」を、小生のだらしない人生にはぐいぐいと押し込んでもらえるような気がして緊張感が先行する。視聴し終えて妻に型通りの謝辞を述べる。今回こそ深意は伝わっていると思うが・・・。
どの患者にも残された(いのちの)時間がある。我に授かった「与えられた命」で恩返しをすることが医師としてのミッションである。何が自分にできるか?出来ることを探し出して患者に恩返しをするのです。それが授かった命だからです。よど号事件で死を覚悟したあの日から助かった命は「授けられた命」に代わったのです。110歳まで生きます。生きて恩返しをします。
氏の発せられた言葉=ミッションへの意識が興奮剤となった朝である。
氏のように100歳まで生きる自信は全くないが、こんな凡庸な人生を生きている人間にも「授けられた命」は在る筈だ。大したことも「恩返し」できないが、せめてこの意識だけは偉人に学び、自己流にして真似をさせていただきたいモノである。恩返しの代わりに「恩送り」に徹したい。
92歳の奥様を愛おしがられる光景が何だか眩しかった。ホンのちょっぴり妻への「感謝の念」を言動に表すべきではないかと自省した早朝のひと時でもあった。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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