~電車の中で考えたこと・・・~
研究会の指導に出向いた小学校からの帰路の電車でこんな英語が浮かんできた。
これは高校時代に憧れの英語教師から教わった言葉である。これは退職される前の、いわゆる「最後の授業」の時間に板書された英語であった。何故か、脳裏から消えることなく残っている。
師は日本語訳をされなかった。この言葉の意味と示唆する内容全てを英語で話されたのである。未熟な高校3年生の小生には正確な深意はわからなかったが朧気に、師が伝えようとされた意味は理解できたと今でも思っている。
昨日の電車の中でこの言葉が何故か、浮かんできた。
そして老脳という一部分枯れている脳味噌にも。師のお教えが充血しながら広がっていくエネルギーのようなモノを感じ取った。それは、この小学校に通い始めて2年間の歳月の重さとも重なったのである。この小学校では今月の30日が研究発表の本番である。残り数日間しか与えられない剣が峰に差し掛かってしまっている。誰にも言えない『土壇場』の喘ぎは当事者しかわからない苦しさであろう。そんな重い雰囲気を察して、指導者としての助言は、また難しい。しかし、土壇場の喘ぎを共有する視点でアドバイスれば受け入れることは容易であると考えている。何もしていないような素振りの中にも当事者の一人一人としては土壇場感に追い込まれているはずである。
本番を想定して指導助言をした。
大した内容ではないが、彼らは真剣なまなざしで受け止めていた。後が無い「土俵際」まで追い詰められた時点で力を発揮するのは、「無駄な努力」しかない。無駄な努力をしていなければ火事場の馬鹿力など発揮できない。教育は「無駄な努力」の積み重ねにしか建立できない。即効性を要求する指導には大きな欠陥があるかもしれない。遅行性で十分である。遅行性には無駄な努力が似合う。
今朝、先方の校長先生から興奮の電話を頂戴した。
指導者(小生)の帰校後の、指導を受けた集団の豹変ぶりの報告であった。校長先生も感激されたようである。「やればできるじゃん」とは仰らなかったが、本番直前になって目が吊り上がるほどに真剣な眼差しで準備に取り掛かった姿を想像しながら、偶然にも昨日の車中で手帳にメモした内容との合致に苦笑してしまった。彼らの無駄な努力は存在していた、とほくそ笑んでしまった。
小生の人生には「取り越し苦労」という文字はない。
彼らの真剣な行為が、本番で実らなくても良い。まだまだ続く教員稼業のどこかで「花が咲き実がなる」時がやってくると確信している。その時点での見極めは困難であるが、それはそれで良い!!
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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