~全国の小学校で「英語の授業」をする~
それは全てが先方からの依頼である。「昔取った杵柄」とは言え、対象が小学生となり、「教育の目的」に大差があることを認識すると請け負うには「ちっぽけな元・プロ」としての間違ったプライドまでがバリアとなってしまう。しかし、小学校では「藁にも縋る」思いでの依頼であるのがわかるので渋々、しかも勿体ぶって言い訳までが先行するほどの酷い状態で請けるのである。そんな老体に拍車をかけたのが愛知県教委の事業への参画招請であった。久しぶりの「教材研究」へ拍車がかかり、依頼された「地元」を活かすべく資料を探索し、教材化しながら『小学生が学びたくなる』英語の授業を探究した。30回ばかりの連続授業で度胸までつけていただいた。この経験値は表現できないほどの容量となった。関係者に感謝である。
振り返れば現職の小学校長として自校の6年生には10単位の授業をするのが恒例となっていた。このことが土壌にはなっていたことは否定できない。しかし、自校と他校とでは授業前の「関係の確立」の背景が大きく違うではないか。授業の最大の条件は「学習者を理解している」ことであるのは持論でもある。と、すれば見ず知らずの「子どもたち」を相手に外国語の授業をするというのは無謀に近い。その授業を受けたばかりに「二度と学びたくない」とでもなったら責任の取りようがないではないか。しかも、教壇から遠ざかる時間は確実に増えている。授業のフィーリングが鈍くなっている。そんな臆病風邪はまさに向かい風になってしまう。
そんな雑条件下でも授業をせざるを得ない。
葉書の送り主は高知市の小学校の5年生の学級担任である。高知市内の他の小学校で授業をしているとの情報を得て直談判にて授業を依頼されたのだ。その心意気とそれを支える学校長の愛情に絆された小生は、高知弁の勧誘に載せられて美酒に酔って引き受けるという性癖(笑)が「安請け合い」をしてしまったのである。学級担任から、運動会で演じた組体操での合言葉が『だいじょうぶ だいじょうぶ』との情報を得た。その場の「だいじょうぶ だいじょうぶ」を英語では何と言えば良いのか、を突破口にして授業を構成して準備をして臨んだ。
授業は失敗ばかり。
この小学校でも例外ではなかった。しかし、外部の教育力を活かす学級経営力が功を奏して立派な感想文が届いた。その後の交信をしながら「授業づくりは学校づくり」という小生の経営理念の実践が行われている現状が垣間見えた。校長さんの「哲学を実践化する学校現場」として映って来た。たかがワンショットの英語の授業であっても活かし方では、学校も学級も、そして教員も大きく変容するのかもしれない。授業者冥利という嬉しさが激しい脈拍に乗って全身を温かく駆け巡った。最終章の交信がこの葉書の最後の小さな(追伸の)1行である。
それは全てが先方からの依頼である。「昔取った杵柄」とは言え、対象が小学生となり、「教育の目的」に大差があることを認識すると請け負うには「ちっぽけな元・プロ」としての間違ったプライドまでがバリアとなってしまう。しかし、小学校では「藁にも縋る」思いでの依頼であるのがわかるので渋々、しかも勿体ぶって言い訳までが先行するほどの酷い状態で請けるのである。そんな老体に拍車をかけたのが愛知県教委の事業への参画招請であった。久しぶりの「教材研究」へ拍車がかかり、依頼された「地元」を活かすべく資料を探索し、教材化しながら『小学生が学びたくなる』英語の授業を探究した。30回ばかりの連続授業で度胸までつけていただいた。この経験値は表現できないほどの容量となった。関係者に感謝である。
振り返れば現職の小学校長として自校の6年生には10単位の授業をするのが恒例となっていた。このことが土壌にはなっていたことは否定できない。しかし、自校と他校とでは授業前の「関係の確立」の背景が大きく違うではないか。授業の最大の条件は「学習者を理解している」ことであるのは持論でもある。と、すれば見ず知らずの「子どもたち」を相手に外国語の授業をするというのは無謀に近い。その授業を受けたばかりに「二度と学びたくない」とでもなったら責任の取りようがないではないか。しかも、教壇から遠ざかる時間は確実に増えている。授業のフィーリングが鈍くなっている。そんな臆病風邪はまさに向かい風になってしまう。
そんな雑条件下でも授業をせざるを得ない。
葉書の送り主は高知市の小学校の5年生の学級担任である。高知市内の他の小学校で授業をしているとの情報を得て直談判にて授業を依頼されたのだ。その心意気とそれを支える学校長の愛情に絆された小生は、高知弁の勧誘に載せられて美酒に酔って引き受けるという性癖(笑)が「安請け合い」をしてしまったのである。学級担任から、運動会で演じた組体操での合言葉が『だいじょうぶ だいじょうぶ』との情報を得た。その場の「だいじょうぶ だいじょうぶ」を英語では何と言えば良いのか、を突破口にして授業を構成して準備をして臨んだ。
授業は失敗ばかり。
この小学校でも例外ではなかった。しかし、外部の教育力を活かす学級経営力が功を奏して立派な感想文が届いた。その後の交信をしながら「授業づくりは学校づくり」という小生の経営理念の実践が行われている現状が垣間見えた。校長さんの「哲学を実践化する学校現場」として映って来た。たかがワンショットの英語の授業であっても活かし方では、学校も学級も、そして教員も大きく変容するのかもしれない。授業者冥利という嬉しさが激しい脈拍に乗って全身を温かく駆け巡った。最終章の交信がこの葉書の最後の小さな(追伸の)1行である。
参考までに、小生から返信した葉書もご参照いただきたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿