~「清掃センタ」ーに辿り着くまでの苦悩~
引っ越し荷物が8か月経っても片付かない。
妻の愚痴の音量もどんどん高まる一方である。それは、実家となったこの離れが、嫁いだ娘たちのお正月の帰省先になることが絡んでいるようだ。つまり、孫連れの宿泊客があれば、唯でも狭い離れの老人宅は片づけをしないと寝る場所の確保が難しいからであろう。事情は重々承知しつつも放置してきたツケが回ってきた。早朝から片づけたゴミ(笑)を、地域のごみ収集場所に置くには多すぎるらしく市の清掃センターに「持ち込み」処理で始末したいとの要望である。市役所の開業時刻を待って電話をして相談しつつセンターの所在地を確認した。
お得意(?)の地図帳を片手に聞き込んだ目印と所在地のメモと照合し、ネットの地図も参考にしながら自信満々に、捨てるべきお宝物を軽自動車に積み込んで出発した。
地図通りに運転した(笑)。
しかし、全く見当違いの場所らしい風景に迷い込んでしまった。やっぱり、方向音痴は健在だった。同乗した妻は呆れ返って言葉が無いようだった。それは先週の土曜日の千葉県佐倉市からの帰路、長女が教えてくれた通りに運転したつもりが全く反対の方向に進んでいた時点の苦悩が脳裏から離れていないことの証でもあった。
途中のコンビニで説明を受け、何とか目的地に到着できた。
余裕で昼食時間には帰宅するつもりが大幅にずれてしまった、呆れている妻の苦情はもう無い。それでも自己嫌悪に陥らないところが性分なのだろうか。車社会を代表するような当地である。何とか、すんなり目的地に到達できるようなセンス(笑)を獲得せねばなるまい。時間のロスを最も嫌う人生を歩いて来たと自負する男が、このザマではどうしようもない。
師走のつくば市は未だ道路が混んでなかったのが不幸中の幸いであった。
自他ともに認める「方向音痴」第一人者である。帰宅して母親から報告を受けた長男がボソッと、「ナビを付けてやろうかな」と嫁に囁いたのが聞こえた。どうやら老人特性の「地獄耳」だけは健全なようである(笑)。読者のみなさん、同情は不要です。エールだけを待っていますよ!
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
0 件のコメント:
コメントを投稿