2012/09/30

早朝歩禅の記(18)

 
歩禅記録 05:05~05:55【6500歩】

~「濃霧の朝」も、乙なモノ~

 玄関先に先に出た妻が「すごい!」と声を発した。

 何が凄いのかと、庭先に立った視野に周囲の家並みが霞みの中にある。街灯がほんのりと見えるだけの視界であった。早朝の5時は、足元もまだ暗い。昨日の朝に比べると今朝は若干温度が下がっているようだった。寒さに敏感な妻は一枚余分に羽織っていた。

 読者の皆さんにご好評(?)の朝日の風景も、今朝はほんのりと空の雲に日の出の近いことを見るだけであった。沼の湖面も霧のために先が全く見えない。こんな自然界の風景も、(たまには)良いモンだ。そんな気分で歩きながら、散歩人と交わす言葉は、「凄い霧ですね」であった。

 立ち止まって話し出した犬連れの老婦人は、昨年の暮れに当地に引っ越して来られたとの自己紹介だった。こちらも昨年の震災直後の引っ越しを伝えると親近感を持たれたらしく話が長引きそうになった。限の良い所で「話の腰を折って」離れた。周回コースなのでまた、会うことを考え苦笑しながら歩き始めた。

 太陽の姿は見えなくても10分も経つと周囲が俄然明るくなる。

 ススキの穂の群生を見つけた。お月見用のススキは昨日、準備したので今朝は写真に収めるだけだった。カメラを向けている夫に、「100円で売っていたわよ」と妻が声を掛けた。農協直売店でのことらしい。こんなに豊富にある当地でも「ススキの穂」が売られていることが何とも奇怪な感じがしてならない。

 約1時間の歩禅で帰宅する直前の田んぼの向こうに太陽が昇って来た。

途端に眠っていた町が目を覚ますような気分になった。帰宅すると母屋のベランダには洗濯物が干してあった。嫁も今日は何か予定でもあるのだろう。

 朝食のテーブルには昨日買い求めた地産のナシがある。食して美味に舌鼓を打つ。台風が近づいているらしい。被害の、より少ないことを祈るばかりだ。

2012/09/29

早朝歩禅の記(17)

 
早朝歩禅記録 05:05~05:55【6600歩】
デジカメではこんなに暗く映りましたが、お気に入りの「筑波山」です。昨夜、満月の先取りをしました。お月見が出来ないことを想定して撮りました

~「彼岸花」がどこにも見当たらない~

 電車の車窓からも、この時期には真っ赤な彼岸花の群生が目に飛び込んで来るものですよね。読者の皆さんの地域では、彼岸花が咲いているでしょうね。小生の歩く範囲では、まだ1本も咲いている姿が見えないんですが!

 時として、秋の「彼岸」に間に合わない年もあったとは記憶しています。昨年の記憶が無いので確かなことはわかりませんが、ひょっとすると当地には彼岸花が咲かない??そんなことは決してありませんよね。

 また、ススキの穂も、ある年には全く遅くて「お月見」に間に合わなかったことも覚えています。今朝の歩禅では、今年は確かにススキの穂は大丈夫でしたよ。

 5時に出て6時に帰る早朝歩禅も、ここ数日間は雨に邪魔されたこともありましたが、何となく夕暮れ歩禅にすり替えようとする邪まな考えが先行してサボってしまいました(省)。

 昨晩、栗畑の向こうにきれいな(小さな)お月様が見えました。

 30日が満月だそうですね。明日は台風の影響で中秋の名月も掻き消されてしまいますよね。昨晩のお月様はきれいでしたよ。その風景を愛でながら「彼岸花」と「ススキの穂」が、老夫婦の話題になったんです。「そう言えば、彼岸花は咲いていないよね」と妻に声を掛けられ、ふと「そうだなぁ~」と応えたのです。

 今朝は寒さを感じなかったので老妻も同行しました。対話の中心に彼岸花が存在したことをここに添えました。彼岸花の情報をお送りください。

 畑にはこんな野菜??(写真・右)が植えてありました。花が咲いている状態でしょうか?お分かりの方は教えてください。

2012/09/28

『栗剥き』奮戦記の巻

 ~「剥き方」の手解きは受けても・・・~

 食べると旨い栗の実も、口に入るまでの料理人の苦労が忍ばれた。

 地元の栗農家から沢山の栗を戴いた老妻は、何種類かの料理を考えたようだ。「贅沢な悩みだ」と口走りながら嬉しそうに手助けを求めてきた。「渋皮煮」とやらに挑戦したいのだそうだ。以前は、栗に関しては「買ってまで料理する」食材では無かったと言う。何せ、見たことも無い量の栗であったことは事実である。

 手助けの一助は「皮むき器」をホームセンターまで買いに行くことであった。以前にも料理に関する器具を買いに行っては帰宅すると「これじゃ無い方が・・・」とのクレームが付くことが記憶に残るくらいにあるので、本人の同乗を促してホームセンターまで行った。

 帰宅して数時間が経った。

 栗剥きは力仕事らしく、音をあげた老妻が二つめのヘルプ・サインを発した。購入したばかりの皮むき器を使って、残っている(9割は残っている)栗の実の鬼皮を剥いて欲しいとのことだった。渋皮は残して外の固い皮だけを落とす作業と理解して本腰を入れて手伝うことにした。

 途中で投げ出す!!

 恥ずべき行為(笑)に移りそうになった。このままの逃避行はみっともない、と己に言い聞かせる。「栗の皮」の成り立ちと繊維の方向性を睨みながら栗自体の構成状況を極めるために、(老妻の指示を守りながら)工夫を重ねた。機器はテコを利用しているので握力を試される。何百回もの「握り」「開く」の連続をしなくて済む方法を編み出した。鬼皮を剥がれやすい方向から「剥ぎ取る」工夫を編み出したので1個の栗の鬼皮は容易に剥がれた。

 老妻曰く「男の人はやっぱり力が強いですね」。夫の工夫を見抜いていないのだからやっぱり能天気だ。似た者夫婦かい??(笑)小生は生来の無精者である。手抜きの天才でもある(笑)。「どうしたら楽に出来るか」「何とかして無駄な時間を省きたい」とばかりに「易きを求める」生き方をして今日まで生きて来た。

パソコンの機能を活かし切れば「楽をして」生きることが出来る!こんな貧相な哲学を抱いて20年前から「利器」として認知したパソコンと向かい合っているのがそれを実証している。しかし、今でも殆ど機能を活かしていないが…(笑)。

 当地に転居したお蔭で「栗剥き器」に出会ったことになる。美味に仕上がった渋皮煮の栗を孫たちが競って食べる。「おばあちゃん、美味しいよ」と言いながら食べる光景を見て、満足な老夫婦である。能天気夫婦の幸せ風景ではないか!!

 しかし、「おじいちゃん、美味しいよ」とは一言も無かった!! ≪苦笑≫。

2012/09/27

「新聞記事」で考える

 ~事件の捜査(17年間)に『幕』は下りても~

 小生は、このように歳月を数字で表現されると必ずと言って良い程考えることがある。それは、「その時点(事件が起きた)で誕生した子どもが◎歳になっている」という着想である。この事件はそれまでの事件では考えられない展開になって、日本列島に戦慄が走った。『想定外』の事件だった訳である。

若干のニュアンスは違いはあるが、一昨年(もう、そんな時間が流れている)の東日本大震災の「津波の規模」も想定外そのものだったようだ。さらに原発の事故という二重の被災も同様に「想定外」と表現する言葉しか無い未曾有の災害となった。事件や事故が「想定内」で起きれば良いということではないが、これからはこの類の事件がしばしば起きるような気がして怖くなってしまう。

 この新聞記事(写真版)の事件は、筆舌し難い内容であった。

当時に生を受けた赤ん坊が、もう高校生である。高校の授業で教師が話題にしても「歴史上の事件」としてしか考えられない世代である。語りかける教師の「言葉の温度」によって、どうにでも理解されてしまうことになるのだから恐ろしい。

 紙面の都合上、同一新聞記事の他の部分は登載できないが、“父の最期 真実を知りたい(故・仮谷さんの長男)”を読むと言葉に詰まる。「父の受けた苦しみをすべて知ることなしに、心から冥福を祈ることはできない」とのコメントに腹立たしささえ湧き上がる。

この記事には被害者の関係者に関するものはないが、多くの(数の測定不能)被害者の関係者には、憎んでも憎み切れない感情で17年もの月日を過ごされたと考えるが想像を絶する思いである。故・仮谷さんのご長男の言葉を読むまでもなく、この事件の真相の解明が一日も早く法廷でなされることに注目をしたいところである。

今日の歩禅記録 17:10~17:45【4000歩】
5歳の孫を連れて老妻と3人で近くの駅周辺を一周して帰ってきました。駅の歩道橋から見える夕陽に、孫が「空が火事だよ」と大声で叫んだので勤め帰りの女性に「そうだね」と返事をされました。びっくりしたのは孫でした(笑)。

2012/09/26

「電車の旅」で考える

 ~片道2時間半の電車の旅の『疲労度』とは?~

 前日が片道3時間の乗車時間だったので計6時間、そして昨日は片道2時間半の乗車時間で5時間と(計算上では)なり、2日間で11時間も車中の人となった。疲労は単純な時間だけで嵩むものではなさそうである。

 昨日は隔週で通う鍼診療の日であった。乗り換えが3回であることには老体も馴れている。鍼診療もその都度の感度があり診療を終えたから元気ピンピンになる事ばかりではい。薬や注射のように即効性が無い分だけ自己制御が必要となるので帰路が却って厳しくなってしまう時もある。もう12年も通っている診療所なので鍼診療への反応が疲労度に連なることは全くない。疲労感度は、電車内の乗客のマナー等に左右されることに気付いた。

乗車して立っていると、席を譲っていただく「より若い」層の人たちの心遣いに老妻は感謝することが多い。白髪の老妻は「より老けて」見えるのだろうか、と苦笑しつつも、腰痛のために通院している彼女には長時間の立ち姿勢が堪えるのである。遠慮する老妻を促してご厚意を受けるようにさせることもある。座らせていただいた老妻の正面前に立つ小生にまでも、譲り合って座れるようにしていただくことも多くなった。敬老の精神に感謝して辞退せずに恩恵を受けることにしている。そういう気配りを避けるべく、シルバーシートに座席を取るようにしている。

 そのシルバーシートで心が萎えるような事態を、昨日は直視してしまった。

正面のシルバーシートに1人分の席が空いていた。年齢は明らかに20代以下の青年が乗車するなりその席を陣取った。青年の隣の席は老夫人である。次の駅でその老婦人の友人らしき人が乗車され、その老婦人の前に立たれた。青年は目を閉じた。老婦人より高齢者らしい連れの女性と替わって席を譲られた。次の駅で小生夫婦の隣の席が空いた。入れ替わりに杖を突いた老紳士とその奥様らしい老女が乗車された。友人に席を譲って立っている老女が、その光景を見て青年に声を掛けた様子だった。恐らく「席を譲って貰えないか」程度の示唆をされたのではないか。寝たふりで聞こえない状態で立とうとしない。小生が座席を立った。妻を横移動させて高齢者夫婦の座席を確保した。恐縮される奥様の言葉を遮るために同一車両の中央部まで移動した。遠くになっても寝たままの青年の姿は見える。幾つかの駅を過ぎて青年が降りたらしい。友人同士の老婦人の一人が小生を呼びに動いて来られた。青年の席に座った小生に向かって正面の奥様が何度も頭を下げられ、大げさな行為ではなかったかと少々恥ずかしくなった。青年の無神経さに疲労感を覚えた。

小生の疲労感度が極致に達したのは車内放送だった。「ご乗車有難うございました。車内マナーにご協力をいただきまして有難うございました。・・・・」。車掌のナマの声だから余計に腹立たしい。機械音なら良いと言う訳ではないが、社員としての研修の成果が上手な顧客対応に繋がっているというのはお門違いである。一軒の家や1つの会社の教育の問題ではない。ましてや、教育機関のみが背負う課題でもない。

国家百年の計は国民の教育にあり。

自国の国民が誇れる国家を創るためにも、幼児時期から青少年期にかけての「教育の在り方」を真剣に考えないと国家は滅亡するのではないだろうか。これって、やっぱり老婆(爺)心?
 
歩禅記録 16:10~16:50【4300歩】
早朝歩禅のタイミングが狂いました。それは急な冷え込みと気象状況の不安定さからです。今日は、幾つかの用務を済ませるために、久しぶりに夕暮れの街中を歩いて来ました。自宅の裏には陸稲がすっかり実って「首を垂れる」状況になっていました。水稲ではなく陸稲を見ることが出来るのも嬉しいモノです。

2012/09/25

凝り固まった先入観

 ~こんなに素直な高校生が、まだ、いたのか?~

 昨日は、11月に出講予定の「(神奈川県)横須賀市高等学校教育課程研究会」の事前打ち合わせのために、会場校の下見を兼ねて終日の出向となった。訪問先は横須賀市立横須賀総合高等学校(写真)である。

新幹線を利用しない「旅」の時間は想像を絶する()。8時半前に電車に乗っても、目的地到着まで3時間を要する。時として事故等で遅延に遭遇することもあり、講演旅行も体力勝負となってしまう。しかし、未だ「止めようか」との意思が先行しないので、体力勝負も一種の筋トレとして考えようかとも考えている。

 読者諸兄は小生が、元教師であることはご存知であろう。その職業観から覗いても、「今の高校生は・・・」のボヤキは、ため息交じりで絶望的な声となってしまう。この悲観的なボヤキが見事に打ちのめされたことを以下に述べよう。

 担当指導主事の出迎えを受け、訪問校まで車で動いた。往路も復路も気遣いの解説付きのミニ観光タクシー(写真)として勿体ない気持であった。更に勿体ないと思ってしまったのは、高校生の素顔での応対であった。

 学校長との挨拶を終えて、早速事前打ち合わせを兼ねて、校内の案内を受けた。飛び込んだ教室は「介護実習」であった。笑顔で実習している女子高生(たまたま選択している受講生が女生徒とばかりとの説明)の態度である。「異物を飲み込まんばかりの拒否反応がある」、との先入観はものの見事に打ち砕かれた。一人二人の態度ではないのが奇異にも感じたが、闖入者の立場を忘れて高校生に声を掛けてしまった()。その対応には「現代・高校生気質」の欠片も見えず、拍子抜けしてしまった。実習教室全体に漂う「この空気」は、凝り固まった先入観を払拭するには余りあるモノがあった。

 驚くのはこれだけでない。

 参観した全学級の高校生に同様の空気が流れていたのだから、老脳を刺激してしまった。更に言及すれば、他の高校よりかなり早い時間から始まる「定時制課程」の授業に臨む高校生の授業風景である。ここにも同様な空気が流れていた。

 なぜ?どうしてなんだろう?

 自問するが正解など出せる訳がない。多くの授業を参観しながら、ふと「高校生はこの授業で満足しているのだろうか」との、持病がでてしまった()。今回の訪問はあくまでも「授業・参観」であったが、持病の症状からは「授業観察」の視線が授業を誘導する教師陣に向かってしまった。

 こんなに素直な(高校生らしくない)、自然体での受講者である高校生に、もっと高いレベルの授業を供給できないものだろうか。そんな思いが胸一杯になったところで本日の業務を終えた。

 少し早目に放校して、京浜急行「横須賀中央駅」までお送りいただいて帰路に着いた。上野駅発の特急電車に飛び乗ったら駅構内に人が侵入したらしく30分以上遅延した。高校生諸君の笑顔と授業風景が脳裏を占領していたので、こんな場合の「イライラかりかり」病も緩和され、爽やかな疲労感で1時間遅れの帰宅にも堪えられたようだ。

 今朝のニュースで京浜急行電車の脱線事故を知って背筋が寒くなっています。事故の回復と事故に遭われた方々の一刻も早いご快復を祈るばかりです。

2012/09/24

縁者との繋がり

 ~義母の義妹が墓参に~

 妻の母親は、小生にとっては義母である。

 その義母の実弟の嫁は、義母からみれば義妹になる。『義理』という日本語には妙に深刻感がある。小生の妻を円の中心点に置くと、母親の弟は叔父であり、その奥さんは義理の叔母になる。表現すると堅苦しくなるが、直接の人間関係は実に素晴しいモノがある。妻にとっては尊敬する「(義)叔母様」の一人の様である。

 25年前に、その叔父一家が茨城県取手市の分譲マンションに移り住んでいる。その前に住んでいた福島県勿来市には元気だった生前の母親を案内して訪問したこともある。義母も複雑な家庭で育ったとのことで、母の実弟は異母弟だと言う。実母の死去後の後妻から誕生した4人の子どもの一人だそうだ。歳の離れた(腹違いの)弟と妹の面倒は「母親代わり」に義母が務めたことは、(取手市に住む)叔父は感謝の気持ちで話をしてもらったこともある。

 書き言葉で表現すると複雑であるが、現実の人間関係はスッキリしている。

 昨日は午後2時ごろに来訪の義理の叔母を駅頭で迎え、車で墓地まで行った。同行した末孫が車内の華となって歓迎してくれた。雨も強くなったので急いで帰宅した。

 妻の叔父は昨年の10月14日に他界している。仏式では一周忌であるが、叔父一家はクリスチャンであるので方式が異なる。宗教の違いも「家庭生活文化」に大きな影響があるのだろうが、人間関係の確立があれば何ら支障は無いようだ。

 25年前に茨城県民(取手市)となった叔父一家の後を追うように、姪(=小生の妻)一家が隣接市(土浦市)に転居して来たのも、どこかで何かの「ご縁=仏教用語」があったのだろうと思わざるを得ない。

 叔父の高校生時代は殆ど妻の実家で過ごしていたそうだ。妻は小学校入学前だったらしく確かな記憶は残ってないと言う。叔父の結婚生活は、大阪~石巻~気仙沼~勿来~東京と転勤生活のため、妻も殆ど会っていないらしいが、義理の叔母は律儀に秋の彼岸の墓参に来ていただいたのだ。

 農家直営店から買い込んだ新鮮な野菜をまとめて「お礼」として準備している妻の後ろ姿を見ながら、人間関係の成立は「感謝の思いと誠意」だと実感した。妻の両親も天国できっと喜んでいるだろうと思うだけで心がほのぼのとする。

早朝歩禅記録 
神奈川県横須賀市への出講で時間的余裕が無いために中止

2012/09/23

新聞記事で考える

 

~言葉の変化は生活文化の変容~

 若い頃、「何だ、その言葉使いは!?」と怒鳴られて納得がいかなかったことがあった。強い反発すら感じたが、同時に落ち込んだことも思い出す。今流の言葉で表現すると「チョー・ムカつく」となるのだろうか()

 文化庁国語世論調査(ネット情報で資料は容易に得ることが出来る)の結果を分析するほどの力量もないが使用表現言語の変遷経緯には興味がある。

 情報交換手段の変動は、そこで機能すべき言葉に変化を来たすことは当然である。小生(古稀に近い)ですらも生活必需品として意識するほどまでに「携帯電話」は定着している。生活文化の変化に無意識の反応を呈している証である。その携帯電話の機能には「絵文字」という新しい文化の誘惑がある。照れ臭さと細やかな抵抗があり使いこなすこと等出来ないが、携帯電話世代の人種には堪らない魅力が備わっている事だろう。文字文化で伝える以上の何かを訴える言語の代役となっているのだろう。

相手の表情を伺いながら「対話する」気苦労を避けることができるので「話せば済むこともメールで」という中見出しの文字に納得できる。更に機器の進展は日進月歩どころではない速度と言うではないか。現在保有している携帯電話ですら、その機能の「僅か」な部分で翻弄されているのだから将来の「言葉」使用への影響力など計り知れない。

 新聞記事(写真版)で、今回、特に目を引いたのは『気配り表現』の変容であった。13年前の調査との差異が、「生活文化」と「言葉」の切っても切れない実情を証明していることである。

 暫くの間、小生には理解が出来なかったが、分かってからも使用したくない現代用語の代表表現が「ため口」であった。戦後の教育で安価廉売された「平等」意識が浸透したことの証しかも知れない。江戸時代のように身分によって何もかもが差別されることには、小生も合点がいかない。しかし、親子関係に端を発する年代差には、その関係の正常な維持発展のためにも、「使用言語」には不易の摂理があって欲しいのである。TV画面で若作りのママと娘さんのペアルック等で「ママとお友達」感覚の会話を耳にすると、小生は愕然としてしたのがもう20年も前の事か!あの頃の画面に映った娘さんが母親になっていることを考えると「生活文化」と言葉の関連性は、「超・密」である。

 また、師弟関係での言葉遣いにこそ『気配り表現』は存続させるべきだと考えている。もう「時代遅れ」というレッテルを貼られてしまった()が、友達感覚の言葉遣いを否定するモノではないし、若者言葉を蔑視している訳でもない。

 相撲(国技と言われるスポーツ)ファンとしての気質も変化している。

 外国人力士に国技が乗っ取られる!とばかりに、相撲ファンが急減したそうだ。小生はインタビューに応える外国人力士の「日本語」に、廃れ行く日本語へのノスタルジーさえ感じながらファンとして応援し続けている。日本人以上に日本語を駆使する力士の発生源は、相撲道という日本文化にあると考える。立派な相撲人として精進する外国人力士には、「ため口」と「気配り表現」が確実に区別されていることだろう。今夏、渡米した老妻と長女が、英語しか話せない「日系二世の日本人」の皆さんの方が、より日本人らしかったと話したことが印象的だった。
 
早朝歩禅は雨天のため実践できず!

2012/09/22

二度目の「秋の彼岸」

 ~やっぱり朝夕に秋の気配~

 それにしても「蚊の軍団」に大歓迎されたのにはマイッタ!()

 19日が「彼岸の入り」とは承知していたが、孫の怪我騒ぎや急な来客で墓掃除が出来なかった。やっと、時間も取れて老妻と一緒に義父母の眠る墓地へと向かったのは昨日の事。昼食前に済ませようと二人で取り組んだが、「蚊が多いねぇ」と言葉を何回も交わすうちに、余りの攻勢に負けるようにして花を供えて帰って来た。少々手抜きしてしまったが、小生の性格を承知の義父母は苦笑しながら墓石の下で許しているだろう(=ここが能天気な所以)。

 太陽が真東から上がって、真西に沈み昼と夜の長さが同じになる春分の日と秋分の日を挟んだ前後3日の計7日間を「彼岸」と呼び、この期間に仏様の供養をする事で極楽浄土へ行くことが出来ると考えられていたのです。(ネット情報)

今日は長女一家が墓参りに来るとの情報が届いている。
嫁がせた娘の「盆と正月」の里帰りも楽しみであるが、近距離になったこととお墓を転居先のこの地に作ったので春と秋の「お彼岸」の墓参りも来るようになった。孫たちとの再会機会も増えて祖父母の立場からは、掛け替えのない楽しみとなっていることは事実である。 

早朝歩禅の記録 05:05~05:55【6400歩】
昨日はサボりました()。今朝も雨を心配して出発を躊躇しましたが、やっぱりこんなに暗い朝でした。お気に入りの「筑波山」も肉眼にははっきり見えていましたがレンズを通したら不鮮明なのでご披露いたしません。千葉からやってくる長女一家の移動の天気が心配になりました。

2012/09/21

転居先への来訪者

 ~「人生の転換期」を考えた~

 学校という業界に勤務すると、「出版社」という教育産業界との接触や付き合いが多くなる。人と人との付き合いは「異種業界」であろうが、惹かれあって個人的な付き合いになることも多い。

 神奈川県の教員として採用された小生は、茅ヶ崎市に住居を設け(小田原市~藤沢市と転勤しつつも)長い期間を茅ヶ崎市の小中学校での教員生活を続けた。自宅の玄関先で多くの出版社の営業マンの訪問に対応した。地区担当者としての「挨拶廻り」がほとんどであるが、その中の幾人かと親しく会話が出来る関係にもなった。

 その内の一人から訪問の前夜に電話を受けた。

 名乗った出版会社名と同時に営業担当者の氏名は浮かんできた。当然ながら顔も浮かんできた。ここは、茨城県であって神奈川県ではない。しかも、もう現役を退いて9年も経っていて直接の関係を有していない。翌日の午後日程での訪問の許可申請であった。懐かしさで「歓迎の意」を伝えて電話を切った。

 翌日は上司と一緒の来訪である。

 「この度、会社を辞めることにしました。何年来と夢を育んだ企業を友人と起ち上げる事に意を決しました」との口上に度肝を抜かれて戸惑った。彼の新採用時代からの付き合いである。当方が主宰する教育実践『響の会』のセミナーにも数多く(有料・自費にて)参加をして、懇親会では会員教員と膝を突き合わせて教育談義を深めていた同士でもある。

 15年間勤務した業界を離れて異業種への転換を計る。

 臆病者の、世間知らずの小生は「学校教育」の業界しか知らずにこの歳まで生きて来た。40歳を前にして「新しい企業」に挑戦しようとする意気込みには敬意を表するばかりである。

 偉そうなことは言えないが、「健康でなければ志を成し遂げることは出来ない」とだけは伝えた。今更、後戻りは出来まい。しかし、意を決した上で弱音も禁物である。家族ぐるみのお付き合いで奥様ともお子さんとも親しい間柄なので、「家族のためにも頑張るんだよ」と言い渡して玄関で見送った。

 当方の、唯一の拙著『あせらない あわてない 諦めない』(=教育出版社)【写真右】の発刊には一方ならぬ尽力を惜しまなかった彼である。感謝するのは当方の方である。上司までご同行いただいて「退社のご挨拶」とは畏れ多く感じてしまった。

 元気で活躍されんことを、祈るばかりである。

2012/09/20

加齢症候群の症状表出?

 ~届いたメールが昨日で良かった!~

 昨夕のメールチェックの時間に「目がテン」になった。9月24日の出講依頼書が添付されているメールであった。11月ではなかったのか!?

 予定を書き込んでいるシステム手帳をめくる。9月の予定は、確かな筈()のわが記憶では、次回の出講は10月12日(金)となっている。手帳にも部屋のカレンダーにも記入はない。11月の日程には記入が済んでいる。

 じっくり考えてみると、窓口担当者が「事前に本番の打ち合わせをしたい」との申し出を電話でしてきたのを思い出した。改めて手帳を覗き返すと9月24日の前後には私的な予定が入っているのに、そこだけには何も予定らしいモノが入っていない。空白のままになっているではないか。

 「良かった!何も予定が入っていなくて・・・」と胸を撫で下ろす。こんな能天気な爺でも、やっぱり焦るのである()。他のスケジュールとダブルブッキングになっていなかっただけでホッとしたからである。

 落ち着くと、不思議な程に記憶も蘇ってくるのである。

 電話を切る前に担当者に、「近くになったら(電話ではなく)メールで確認事項を送ってください」とお願いしたことまで思い出した。送信者のメールの文頭に「連絡が大変遅くなってしまいまして誠に申し訳ございません」との文字を発見した。週末の最終便メールでなかったことだけでも感謝しなければならない。11月に開催される研究大会の事前打ち合わせ会が月曜日(24日)であると確認した。

 う~ん!チョット待てよ!!

 このメールが届かないままに24日を迎えてしまったら?これって、やっぱり加齢症候群(小生の勝手なネーミング)の症状、つまり「健忘症」の酷い兆候なのではないか?やっぱり、もう始まっている!?

 いつまでも「呆けない」と思っているのは己だけ。これを読んでおられる読者諸兄も苦笑いしながらも「自分はまだまだ・・・」とお思いでしょうね。直ぐにやって来ますよ、この兆候が!()

 いくら能天気者の小生でも少々メランコリックな朝である。
 

早朝歩禅記録 05:05~05:55【6400歩】
全くの曇天。朝日の兆候も無し。天気予報では昼間は真夏日とのこと。少し朝夕はヒンヤリするような風が吹き始めていますが、今朝は蒸し暑い。今夏大活躍してくれた我がお手植えの「あさがお」達の写真をご披露しましょう。紫色は琉球朝顔(南ベランダ)、赤紫色はスカーレットオハラ(東側窓)という品種だそうです。暑いからまだ咲いてくれているのでしょうか?

2012/09/19

早朝歩禅の記(16)

 
05:00~05:50【5900歩】 
 
~途中でUターンは2度目~

 妻を同伴しての早朝歩禅は復活して3日目。

 4時に起床して庭に出た。降雨を心配したからである。独り歩禅なら、小走りや雨宿りも気にならないが、妻同伴であれば容易な変更が難しい。と言うより決断を遅くする要因が生じるからである。妻が、特に拒否したり変更を嫌がったりする訳ではないが独りでの行動とはかなりの温度差になるから判断が鈍るのである。

 夜が明ける時間の空も、晴天と曇天では明らかに違う。

定刻の5時に「傘を持った」妻も同行する早朝歩禅の出発である。目的地の「鶴沼の周回コース」を歩き始めた頃までは東の空には明るさがあった。しかし、不安定な気象状況下では空模様の急変は常識である。パラパラと小さな雨粒が帽子を撃ち始めた。目の前に休憩できる東屋があったので雨宿りには早いが歩くのを止めて様子を見ることにした。

 止んだようなので歩き出した途端、今度は以前より大粒の雨になり東の空も明るさが消えた。引き返すことを決断した。傘をさした妻と「こんな日もあるさ!」と対話をしながら家路に就いた。今回は2度目のUターンであるが、皮肉にも()帰宅するまでは一粒の雨も降らなかった。自宅周辺は通り雨のコースではなかったようだ。すれ違う散歩人との挨拶に「沼の周辺は雨が降っていましたよ」と付け加えると怪訝な顔をされてしまうほどであった。近距離でもこんなに気象状況は違うのだから怖いものである。

 違ったコースでは秋の花が咲き始めていた。稲刈りが済んだ稲束の乾燥も田園風景に似合うようになっていた。雨宿りをしたり、コースを変更したが所要時間と歩数にはさほどの差はなかったようだ。

2012/09/18

細やかな『宴』

 ~「敬老の日」だったね!~

 昨夕のこと。

間もなく5歳になる孫が、「お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも今夜はご飯を一緒に食べるからね」と案内にやって来た。「はぁ~い!」と大声で返事をしている夫を妻は冷ややかに認めながら「わかっているんでしょ?」と目配せをした。能天気な夫は、「知らん」と嘯いた。

 別に険悪な風景を再描写しているのではない。長閑で平和な家庭の風景であることは説明の余地が無い。週末(15日)の仕事終了の帰路、JR上野駅の混雑を目の当たりに見て思わず、「今日は何かあるの?」と自問した。世の中は3連休の初日だった()。遠い昔の記憶として「連休法案」が国会を通過したことを思い出した。

 9月15日が「敬老の日」だったのはいつまで?今日が「敬老の日」らしい。我が孫たちが少年時代だった頃を思い出した。同居していない九州に住む祖父母に電話をしていた光景である。その子供たちが親になって「敬老の日」を迎えている。

 手作りのケーキと、どっかで購入して来たらしいお菓子が我々夫婦が座る席に置いてあった。長男とビールで乾杯して夕食をいただいた。食べ終わると孫たちは、ケーキを切って貰って美味しそうに食べた。記憶に残っている「敬老の日」のエピソードを長男が息子たちに話し始めると笑いながら聞いていた。

 ご馳走様!マイ・茶碗やお椀、コップ、お箸を持参して離れに戻る(と言うほどの豪邸ではないが)。幼い子供の成長には目を見張る。著しい程の成長に驚嘆する。そんな内容を老妻に語りかけると、「その分だけ歳とっている訳よね!?私たちは。」と答えたので思わず大声で笑ってしまった。世代交代を実感する「敬老の日」の夜だった。
 

早朝歩禅記録 05:00~05:50【6500歩】
うっかりしました。デジカメを忘れました。こんな時に限って印象的な『自然界』に気づくモノですね。そろそろ彼岸花の時期でしょうかね。

2012/09/17

退職人生最高の『金メダル』第2号

 ~「12年前の出会い」に端を発して~

 旅の疲れが吹っ飛んだ(笑)。

 長いお付き合いの退職校長から新刊書(写真)が送られてきた。推薦図書でも?と中身を開けて表紙の文字にビックリした。著者の名前が送り主である。同封されている書簡(下記参照)を読み終えた瞬間、全身の力がす~っと抜けていくような感じだった。次の瞬間、言うに言えぬ「感激」で胸が苦しくなった。そして、老体の「こころ」が躍動するばかりの「感動」で全身に活力らしい熱さを感じた。
 

拝啓
 ご無沙汰しております。先生には、お忙しくご活躍のこととお慶び申し上げます。先生のご活躍は、それだけ学校が救われていくのですから、何よりうれしい限りです。また、2月には、東京都東大和市立第十小学校の研究会においでいただけるとのこと、職員や市内の先生にとっては、最高の学びの機会です。彼女の学校の課題は、まさしく『授業づくりは学校づくり』です。今、私も国語指導に入っていますが、やっと少しずつ成果が見え始めています。2月、先生が来られるのを楽しみにしております。
 さて、私も立川市の若手教員の育成に関わってきましたが、この仕事も今年度で終わります。そこで、若手教員育成に役立つことができればと思い、授業づくりのノウハウを本にまとめました。
 サブタイトルを見て、おやっと思われたと思います。角田先生からご指導いただいた『授業づくりは学校づくり』が『学級づくり』になっているからです。本書5ページにも書きましたが、これは角田先生からの教えを学級経営にあてはめたものです。角田先生の言葉を勝手に引用、活用して申し訳ありません。門弟が師匠の教えを広めているものと考え、ご容赦ください。おかげで、私の知人・友人などからは、「まさしくその通り。校長にとっては学校づくりだが、教員にとっては学級づくりだな。」と感想をいただいております。 そのような訳で、ご報告までに本をお送りさせてもらいました。どうか、ご覧ください。
 9月半ばとはいえ、残暑は濃厚です。お体、ご留意ください。 

 書簡を読み終えて、贈呈された著書に目を投じた。

 氏も退職して何年になるのだろうか。校長職を延長する東京都教委の政策で2年間は現職を継続した兵である。その後は市教委の嘱託も請けて活躍した実践家でもある。小生の意思を大切にして、立川『響の会』の代表も務めて後進の指導に心血を注いだ人材である。著書の随所に、氏らしく「厳しさに裏打ちされた優しさ」で表現されているのがわかる。

 『恩師』と表現されるのは面映ゆい思いである、

しかし、実直な氏の性格を考えれば喜んで受けるしかないだろうと押し切られそうである。『師』と仰がれることは人生最大の金メダルを掛けて貰ったような気分でもあるが、掛けてもらった金メダルは重過ぎる。

 後輩諸兄の「がんばり」には、もう負けてしまってはいるが(笑)、その闘志を支えてあげられる情熱だけは失せないようにしなければなるまい。9月1日号の当ブログでは3年前の愛知県教委との協働の事後報告を受けて金メダルを掛けられた気分になった。「蒔いた種が芽を出しました」との報告を受けたことがその証である。今後の自らの動きで支援体制を明確にしたいと意欲満々の老輩である。

 自然界の「収穫の秋」に準じて、実りの重さを感じる朝である。
 
早朝歩禅記録 【05:10~06:00 6400歩】


老妻同伴の久しぶりの早朝歩禅は、時間が遅い出発なので散歩人が多かった。今日は3連休の最終日である。そして、今日は「敬老の日」・・・・・。後期高齢者(75歳)まで、あと何年?そんな会話が切実になったような実感が湧いてきています(笑)。

2012/09/16

講演『旅』日記

★同一校2日間の連続訪問 

≪初日≫

訪問先小学校の教頭さんの車で正門をくぐった。

 視野に飛び込んできたのは、未だ咲いている向日葵と大きく伸びた向日葵の群生(種をとるため?)だった。開始時刻の急かされるようにして業務が開始され、正面玄関で見た向日葵も忘れてしまった。60分間の責任時間を果たして、予定されていた「夜の部」(笑)へ移動して第一日目の半日のお勤めは終了した。

 夜の部の面々は、広島市小学校教頭会研修会事務局スタッフであった。講演依頼を請けていながら当日の広島地方の気象状況の関係から講演が2月に延期されたのである。校外行事から戻ったばかりの教頭さんや学校の戸締りをして最後に学校を出なければならない教頭さんならではの現状から全員が集合するには他の懇親会のように定刻開始時刻は無理である。経験者として十分に理解している。教頭職の激務を懐かしく思い出しながら、懇親に未練を持ちつつも満喫してホテルに送って貰った。通常のリズムとは大きく違って、遅い時間の就寝となった。

≪2日目≫

 山陽本線・広島駅8時20分発の電車に乗って行くと、下車駅の五日市駅前には教頭さんの車が待機している。学校の要請は第2校時から第5校時までの「授業観察と個人指導」である。終日をこの形式で要請される学校は珍しい。何年ぶりでの用務であるのかも忘れてしまっていた。性分から「手抜きの出来ない」小生はじっくりと観察をした。観察終了後の第6校時を個人指導に宛てて計画されていたが時間不足であったと反省した。立ったままの状態で授業を黒板の方から観察する。このポーズは「観察稼業」(笑)を引き受けてから崩していない。4つの授業を連続して立ったままの姿勢で観察するのは確かに激務である。

 激務に耐えるからこそ心底から忠告も苦言も淀みなく出せる。これは、相手の立場を理解しているとも言える。つまり、授業者も激務であることを理解しているということである。しかし、授業者の授業者なりの苦労と努力で展開される授業を評価するのは、よほどしっかりした観察力が無ければ収穫は無い。通り一遍の感想や歯の浮くような褒め言葉では「人は変わらない」のである。苦言を呈されても苦言を呈するサイドがそれだけの激務を意識して発すると、人の心に温かい何かが受け止められるモノだと確信している。つまり、苦言を呈する小生がそんな感動の場面を実体験しているのである。

 個々の批評はこの欄では述べないが、4名の「代表選手」は共通の「伸びる土壌」に恵まれていることである。この土壌づくりが学校づくりなのである。小生は専門誌の依頼原稿にも講演の演題にも幾度となく使用した表現がある。

 授業づくりは学校づくり。学校づくりを勘違いしている校長さんに出会うとこの言葉を発したモノだった。朝から夕暮れまで「学校で営まれる」生業は授業しかない。授業を通して児童生徒の満足感を充足させれば、大上段から振りかぶって「学校経営論」を叫ぶ必要などない。授業を通して指導するのが「生徒指導の基本姿勢」なのである。勤務時間を超えて生徒指導会議をしているようでは教師の伸びる土壌など出来る訳がない。

 授業観察後、本校にはその土壌が作れそうな気がした。研究大会等の学校負担は大きい。教員の多くが避けたがる。生徒指導上での苦労の多い学校では「研究どころではない」という大義名分の意見に押し潰されてしまって折角のチャンスを逸してしまう。そういう学校には「教員が伸びる土壌」は作れない。学校づくりは校長が頑張るモノではない。教頭以下(教員ばかりではない)の全職員の息の合った作業が創り出す産物が『がっこう』なのである。

 11月には県レベルでの研究大会・発表にこの学校は挑むようである。受(請)けて得するのは教師である。得した教師が懸命に授業づくりに取り組めが自ずと学校(子ども達)は立派に成長する。授業の出来不出来等問題ではない。ましてや「授業の失敗」は次のステージへの大きな栄養剤である。若い教師集団が伸びる土壌は、「失敗がわかる」機会づくりしかない。指導されたノウハウでの授業には失敗をみせないテクニックもある。失敗を恐れるような教員は、自らの『教員としての旬』すら気づかないまま徒に加齢していくだけである。失敗に気づく授業づくりに挑んで欲しい。
 

 訪問校の玄関先に咲いていた向日葵には植え付けられている理由があった。驚いた。2005年11月22日に広島市で外国籍の男性に殺害された小学1年生の「魂の炎」が消えないように市内の学校で植えてあるとの事だった。枯れかけた向日葵を大事にしてあったのは「種の採取」のためだと知った。この被害者(女児)の保護者は小生と同郷なのである。葬儀会場も実家の直ぐ近くである。他人事と思えず強く印象に残っていた事件なので、向日葵を見詰め直してしまった。

≪3日目≫

 公務は終わったが、準公務(笑)が飛び込んだ。広島には親しい友人??が多くなった。ご夫婦で面会したいとの申し出が前夜にあり、面会時間を設けた。新幹線の時刻を変更して帰路に着いた。広島遠征(笑)を始めてもう12年が流れ、親しくなった校長さん達も退職され始めている。こうして、情報を得て「会いに来て下さる」人もある程に広島通いも定着したようである。至福の3日間に感謝である。

2012/09/12

愛読する月刊誌(3)

 ~この月刊誌も知らない人が多い~

 『致知(=ちち)』との出会いは、思いがけない雑誌記者の取材申し込み。

 教員職も最終ラウンド(=退職までの残任期間から判断して)に入った新設開校の小学校の校長室での取材訪問だった。予約した雑誌記者(女性)が入室して名刺交換をした。雑誌社の名前がわからなかった。何と読むのですか、とも聞けずに取材らしい会話が続いた。記憶を弄っても取材のキッカケは出てこない。

 生い立ちから教員の道への経緯を細かく聞かれたことは記憶している。その後、半分は義理で(笑)購読していたが、途中から(時期は不明)登場人物とその内容に惹かれてのめり込んでしまったという訳である。今では、郵便ポストに配達された雑誌は袋を破りながら離れの部屋まで戻ってくるという状態である。

 知性と教養の無さを指摘される。

 この雑誌は「初発の読書は寝転んで」めくり読みである。毎号のことながら「未知の日本語」と「原義を知らない日本語」との遭遇である。起き上がって座り読みに変わる。真剣に読み込むと、今度は電子辞書を机の脇に置いて調べ読みとなり、終局はパソコンに取り込んだり、メモ書きとしてノートに転写する作業へと進展(?)していく。極論になるが、今では『致知』という月刊誌は「わが人生の師」的役目を果たしていることになっている。

 若い女性記者の、「座右銘をお聞かせいただきたい」との要望に応えたらインタビューは終わった。そんな機会も無く改めて『座右の銘』として何かを挙げることになって若干窮したが、『人は人に因りてのみ人になる』という文言が浮かんできた。今でもその通りだと信じている。座右銘の変動は無いということだ。

 写真版で見開きの本文を登載したので読み取ることは出来ないのが恐縮である。ワード版で文書になっているのがあるので詳細をお読みになりたい読者諸兄がありましたら、お手数ではありますがメールにてご請求いただきたい。

 今朝は雨。早朝歩禅は久しぶりの「降雨のために中止」となりました。明日から「広島遠征」(=広島市の学校へ連続出講)で留守をしますので、当ブログは土曜日まで休刊します。

2012/09/11

確かな『秋』の訪れ

 ~栗の実が「落ちる」~

 老妻が撮ることを要求した。

 彼女の仕事場である炊事場の窓の向こうに見える景色をデジカメに収めて欲しいとの要望であった。「炎天下の草刈り」(=当ブログ9月7日版)の前日の事である。西日に照らされて「パックリと開いた」毬の中から、数個の栗の実が炊事場から見え始めたようだ。老妻は茶褐色に光る栗の実が「落ちる」前に撮って欲しかったようだ。

 老妻は九州山地の麓で生まれているので「栗の実」との馴染はある。当方は有明海に面する浜辺で生まれているので高校卒業するまで「栗拾い」という語義も知らずに育っている。その両者が栗林と言う自然界と隣り合わせの生活を始めてもう1年半近くになる。栗の実の収穫(=秋)時期も二度目を迎える。

 きれいに刈り取られた広い栗林を農家の方が歩き回っておられる。その姿が、今年はどんな状況下にあるかがわかる。収穫が始まったのである。つまり「栗拾い」作業が開始されたのだ。

 早朝歩禅の散歩人との会話は、「今日も暑くなりそうですね」であることは変わっていない。夏の朝の会話と交わす言葉に変化はないが、農業を営む人たちの行為には、確かな『秋』がやって来たようだ。

 大好物の栗が収穫される隣接地である。直営売店にも近々に「新・栗」が売り出されることだろう。もう、あれから1年が過ぎたのか!そんな思いで写真を眺めている朝である。
 
早朝歩禅記録 05:00~05:50【6200歩】
太陽が昇る前の朝空は幻想的です。嬉しい予感ばかりではありませんが、期待感に膨れる思いで「おはようございます」と声を掛けながら歩きます。太陽の光線(直線)が何とも言えない希望を運んでくれます。帰路でこんな花を見かけました。毎度のことながら花の名前は存じ上げません(笑)。

2012/09/10

「番狂わせ」は何故起きる?

早朝歩禅記録 05:00~05:50【6300歩】
夜明けが少しずつ遅くなったようですが、太陽が昇ってくるとあっという間に明るくなり、体感温度までが急上昇してくるような足取りで帰ってきました。
 
 ~起こるべくして起こる~

 スポーツ好きでもルールもわからなければ観戦しても楽しく等ない。

 サッカーというスポーツはルールの詳細はわからないが、ゴールポストにボールが入れば「得点1」ということぐらいはわかるので、観戦には耐えられる。今、流行の『なでしこ』ジャパンもこのスポーツである。活躍ぶりが顕著で日本列島のサッカーファンが増殖している要因もこのチームの活躍に起因している。「なでしこジャパン」と「ヤングなでしこ」(と表現するのか?)の区別もわかるようになった(笑)。ヤングが銅メダルを獲得したこともわかっている。

 しかし、今日のTV観戦(サッカー)は、勝ったチーム名は聞いたこともない。

Jリーグという名称は承知していたので、その組織がJ1とかJ2とで成り立っているぐらいの知識はある。その間で「入れ替え戦」があることも知っていた。ところが、今日の『感動』シーンを見せて貰ったチームに関しては全く無知であった。

 勝者はJFLに所属するチームらしい。敗者はJリーグに所属していて昨年度のこの大会のチャンピオンだということも放送に関わるスタッフの言葉で知った。Jリーグとの関係も不明のこのチームはプロ集団ではないようだ。アマチュアのチームがプロのチームに勝利をすれば『番狂わせ』として報道されるのは当然である。敗戦が決まって呆然と立ち尽くす敗者チームのベンチにいる選手や関係者のアップ画面が番狂わせを実証していたのかも知れない。

 高校生や大学生のチームも、その組織代表として出場している大会ともなれば、プロ集団との技術的レベルから考えたら比較にならないチーム力の差があるゲーム展開が予測できる。個々の選手の技術力ではこのゲームも話題にもならないモノだったようだ。

 負ける訳がない。そんな「心の隙間」では、想定外の攻撃に襲われると人は狼狽する。そうなると『力み』という無駄なエネルギーと無謀なエネルギーの合力が大きな波を創ってしまい先も見えなくなってしまう。我が人生にはこんなことはザラにある。「こんな筈はない」の傲慢さが焦りとなるともう本当の力は発揮できない。

 素人の観戦者が、「どっちがプロ?どっちが昨年度のチャンピオン?」と呟くほどに両チームの『力み』の差があったことがわかるくらいに大差があった。素人だからそんな風に見えたのだとしたら素人判断も侮れない。つまり、業界以外の常識や見識も十分に摂りいれていないと体質改善も出来ないのではないだろうか。そんな考えを巡らせながら勝者のチームの紹介に耳を傾けた。昼間の会社勤務を終えて午後7時から2時間ばかりの練習はストレス解消も求めて、「人生を謳歌している」選手集団であると聞き取った。このチームが次の戦いから信じられない程強くなるとは信じがたい。勝負の世界にどんでん返しは付き物である。弱い者が強い者の「ちっちゃな油断(=隙間)」に食い込んで勝ってしまうからスポーツは面白い。

 ただ、素人でも言えることがある。

番狂わせは起こるべくして起こるということである。そして、それは弛まぬ基礎練習と無欲な戦い方を教え込まれていないチームや選手には「どんでん返し」を喰らう主人公になってしまうということである。

一夜明けた今、勝者と敗者の「思い」にどれほどの差が生まれているのだろうか、と案じている小生は、やっぱり「お節介」な性分なんですね(笑)。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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