2012/09/03

早朝歩禅の記(13)


独り歩禅記録 05:00~05:45【5800歩】
 
 
~『旬』を考えながらの「独り歩き」~

 妻の体調が悪く、今朝は「独り歩禅」となった。

 9月になったので出発時刻を30分遅らせることにした。5時ちょうどに玄関を開けると、もう世間は明るかった(笑)。夜明けの時間が遅くなるのを感じていたので宇宙界に合わせたつもりだったが、微妙な調整は上手くいく訳がない。明るくなり始める頃の(夏季の)帰宅時刻が逆転したのと、『独り』での出足がそんな感情を生んだのかも知れない。

 いつもより散歩人が多い。

 常連の散歩人とは2人に会っただけである。「奥さんは、どうしましたか?」と心配してもらって恐縮しつつお礼の挨拶を交わして歩いた。話し相手のいない独り歩禅は寂しいと言えば寂しいが、気儘と言えば気儘である。進路変更も出来て実に気楽なモノでもある。

 明るくなっている東の空を認知しながら「秋の空」になっているのかを考えた。「天高く」「馬肥ゆる」と詠われる秋の空を空想した。秋を表現する『季語』に思いを巡らせながら路傍の草花にも思いを寄せると「コスモスの花」が目に入った。しかし、これは猛暑日でも咲いていたなぁ~、と季節感が失せてしまった。しかし、「コスモス(=秋櫻)」は、秋の季語に確かに存在している。秋の季語は、立秋(8月初旬)から立冬(11月初旬)までと規定しているようである。旧暦との関係もあったような「浅い学び」が記憶している(笑)。

 並行して老脳を掠めたのが「旬」という言葉だった。

 自宅に隣接する栗林では、まだ緑色の毬に包った栗の実がどんどん大きくなってきた。秋の「旬」として重宝される果物であることは間違いない。銀杏の樹にも緑色の実が沢山ついていた。「旬」とは最盛期を意味する言葉だそうだ。旬と季語。季節を表現するとは言え、微妙な違いがあるようだ。

 独り歩きの老脳は、気儘に余計なことを自問自答して独りで苦笑する。これは『独り歩禅』の醍醐味でもある。

 ところで、読者諸兄は、次の問いにどのように応えられるのだろうか?

 Q: あなたは自身の「旬」はいつ頃だ(だった)と考えていますか?

 これは、オリンピック競技を観戦しながら自問自答したことである。大試合に出場した「旬の過ぎた選手」と、「旬にはまだ早い選手」では金メダルは獲れない。あの頂点に立った選手は、「その時」と自らの「旬」が合致したからではないだろうか。そんな考えに思い巡らしながら余計なことも考えるのが老脳である。この「旬には早すぎた選手」でも、4年後まで「旬を延長する事」は至難の業である。

オリンピックや世界大会に何連覇もした選手の努力には頭が上がらない! 

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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