2012/09/23

新聞記事で考える

 

~言葉の変化は生活文化の変容~

 若い頃、「何だ、その言葉使いは!?」と怒鳴られて納得がいかなかったことがあった。強い反発すら感じたが、同時に落ち込んだことも思い出す。今流の言葉で表現すると「チョー・ムカつく」となるのだろうか()

 文化庁国語世論調査(ネット情報で資料は容易に得ることが出来る)の結果を分析するほどの力量もないが使用表現言語の変遷経緯には興味がある。

 情報交換手段の変動は、そこで機能すべき言葉に変化を来たすことは当然である。小生(古稀に近い)ですらも生活必需品として意識するほどまでに「携帯電話」は定着している。生活文化の変化に無意識の反応を呈している証である。その携帯電話の機能には「絵文字」という新しい文化の誘惑がある。照れ臭さと細やかな抵抗があり使いこなすこと等出来ないが、携帯電話世代の人種には堪らない魅力が備わっている事だろう。文字文化で伝える以上の何かを訴える言語の代役となっているのだろう。

相手の表情を伺いながら「対話する」気苦労を避けることができるので「話せば済むこともメールで」という中見出しの文字に納得できる。更に機器の進展は日進月歩どころではない速度と言うではないか。現在保有している携帯電話ですら、その機能の「僅か」な部分で翻弄されているのだから将来の「言葉」使用への影響力など計り知れない。

 新聞記事(写真版)で、今回、特に目を引いたのは『気配り表現』の変容であった。13年前の調査との差異が、「生活文化」と「言葉」の切っても切れない実情を証明していることである。

 暫くの間、小生には理解が出来なかったが、分かってからも使用したくない現代用語の代表表現が「ため口」であった。戦後の教育で安価廉売された「平等」意識が浸透したことの証しかも知れない。江戸時代のように身分によって何もかもが差別されることには、小生も合点がいかない。しかし、親子関係に端を発する年代差には、その関係の正常な維持発展のためにも、「使用言語」には不易の摂理があって欲しいのである。TV画面で若作りのママと娘さんのペアルック等で「ママとお友達」感覚の会話を耳にすると、小生は愕然としてしたのがもう20年も前の事か!あの頃の画面に映った娘さんが母親になっていることを考えると「生活文化」と言葉の関連性は、「超・密」である。

 また、師弟関係での言葉遣いにこそ『気配り表現』は存続させるべきだと考えている。もう「時代遅れ」というレッテルを貼られてしまった()が、友達感覚の言葉遣いを否定するモノではないし、若者言葉を蔑視している訳でもない。

 相撲(国技と言われるスポーツ)ファンとしての気質も変化している。

 外国人力士に国技が乗っ取られる!とばかりに、相撲ファンが急減したそうだ。小生はインタビューに応える外国人力士の「日本語」に、廃れ行く日本語へのノスタルジーさえ感じながらファンとして応援し続けている。日本人以上に日本語を駆使する力士の発生源は、相撲道という日本文化にあると考える。立派な相撲人として精進する外国人力士には、「ため口」と「気配り表現」が確実に区別されていることだろう。今夏、渡米した老妻と長女が、英語しか話せない「日系二世の日本人」の皆さんの方が、より日本人らしかったと話したことが印象的だった。
 
早朝歩禅は雨天のため実践できず!

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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