冬至のゆず湯。
効能などの詳細には興味関心は薄いが、この歳になると「日本文化を伝承する」と言う観点からか、若干の意識が高まっていることは確かである。日本古来のゆかりの文かは沢山あるのだろうが、殆ど無視と軽視でこの歳まで来てしまった(笑)。
冬至と言えば、祖母の口調が浮かんで来た。
「明日から、日暮れが遅うなるバイ(=遅くなるよ・故郷の方言)」と。少年時代に聞いた話では、日没の時間の区切りが着く日であるという事だった。秋の日の釣る瓶落としもそれと一緒に聞いたのかも知れない。日本文化が生んだ日本語の「おくゆかしさ」に感傷する日々である。
防災無線から5時のミュージックサイレンが鳴った。
何を勘違いしての思い込みが先行したのか!?他人事表現になってしまうが思わず、この老体に付いている口が発したのが次の言葉だった。
「随分、日没が遅くなったね~」と。幸か不幸か周囲にこの言葉を聴き取った人はいなかったので反応は返って来ていない。ふと、我に返った老体は、人に聞かれていないことに苦笑いをしながら、このセリフが賀詞を交換する時期に、祖母がご近所の方々と交わした言葉であることに気付いたのである。
冬至が過ぎると日中の時間が延びる。
自慢ではないが、理科系の発想や着想は皆無に等しい小生には自然科学分野からの「冬至」の理解は進んでいない。しかし、少年の日の思い出は祖母の「ことば」に寄与することが多い。それが、大きな人生哲学も養成してくれている。
「思い込みの先行思考」が顕在する限り、苦笑と失笑が共存しているような日々が、これからも続くことだろう。妙に納得した夕暮れだった。
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