
青春時代の儚くも空しい恋心(笑)を、年に2回ほど思い出す。それは熱心に古典(=国語乙)の授業に傾聴した証である。お断りしておくが、小生のことではない。当時の級友から好きな女生徒への恋心を本心として打ち明けられ、経験の浅い小生は回答手段を考えるだけでも疲れてしまった。ところが、その日の午後1限目(第5校時)に古文の授業があったのだ。受験校であっても古文の授業は多くが「心ここに非ず」境地での受講が常識であった。先生の口から「十六夜の月の出」の時刻の話が飛び出した。何気なく耳を傾けていると昼休みに打ち明けられた友人の悩みの心情をまるで先生はご存じではなかったかと思うほどのタイミングであったので驚いた。級友が相手の女生徒の反応が遅すぎて半ば諦めなければならないと自分に言い聞かせていたのだある。すっかり聞き入った小生に、授業を終えた先生が、「どうかしたのか?恋でもしているのかい?」と大声だ質問され、応え方が「十六夜の月の出」のタイミングになって躊躇したがために当分の間はお門違いの誤解で級友からからかわれしまった。淡い思い出ではないか!今となればもう大昔のお話となってしまった。
つまり、満月の月の出の時刻より遅く東の空に上がってくる月の出にイライラして待って、満を持するかのようにして逢瀬に出かけることもあった、という雑談もされたことを今でも覚えている。文学的には、前夜より遅く昇ってくる月が、まるで躊躇しているかのように時間が遅れてしまったように思われることらしい。恋でもすると、自分の思いとは裏腹な相手の出方や表現に「イライラしてしまう」ほどに時差の大きさに戸惑ってしまうことらしい、と学んだ小生は級友に「あせるなよ」と忠告したような記憶が残っているが定かではない。
満月を眺めて過ごした12日の夜。
13日は豊橋の夜だった。訪問した小学校の先生方との懇親会で気分も高揚して電車で豊橋から浜松まで移動することにした。浜名湖周辺を移動しながら車窓から見えた「十六夜の月」の高さは真上ではなかった。やっぱり前夜とは出遅れた月の出であったようだ。ほろ酔い気分の大脳に、高校時代の友人と絡んだ国語の授業が浮かんできた。
小学校の「素晴らしい授業」で緩んだ琴線が、十六夜の月の光に透かされて遠い昔の高校時代を思い出すことに大きな一助になった。意義ある一日であったことに感謝した。
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