
思えば遠くへ来たもんだ、という歌があったような気がする。
秋の夕暮れはヒンヤリとした空気に忍び寄る季節の移ろいを感じる時期になったようだ。特に、以前住んでいた地とは気温の差が肌で感じるようになっている。終日を孫たちのリズムに独占され、一つの季節「夏」を過ごした。祖父ちゃんとしての初体験であった。当然ながら老妻も同じであるが、性差を痛感するほどに老妻の猛烈な働きぶりには目がテンになることが多かった。献身的な母性の復活であったのが、とても気になった。こんなにまで懸命に対応したら「夏の疲れ」が涼しい風が吹き始める初秋になると表出してくるのではないか、と思いながら時折セーブしたこともあった。
一昨日と昨日は息子夫婦が休業日である。孫たちもお休みである。夏休みのリズムとは少々違い勝手も狂った。
遊びに来ているお友達が帰って行く時間になる。夏場は5時半ごろだった。同じように母屋の賑わいも静まる。しかし、夏の日の空気と何かが違う。それは、単なる「時間」の感覚がずれていることだけである。つまり、5時半の「夕暮れ」の色合いが濃くなっていることである。お迎えに来られたらしい方との会話が漏れ聞こえる。日没時刻が急に早くなる時期であることを実感し合う言葉も聞こえてきた。
季節の移ろいは日没から感じ取ることができる。
孫たちが両親との生活をエンジョイしている休日は、祖父ちゃん・祖母ちゃんは、有難い静養日(笑)である。夏休み明けの「嬉しい静養日」では、届いたばかりの単行本に没頭して2冊を読破した。その中の一つをその見開きのページで紹介したい。梅原猛・瀬戸内寂聴氏の『大媼・大翁』対談が最新刊として『生ききる』と題して発行された。話題は東日本大震災を基点とした「哲学論争」であった。見開いたページから感じることが多く、立ち止まり読みになってしまったので読者諸兄にもご紹介したくなった。対談が実現する前に絶不調であったらしい寂聴媼の現状を活字で知りながら「この世の話」ではないのでは?と現実離れした世界を覗いてしまった。読書前の感動として感情の先走りをさせながら読み込んだ。初秋の「夕暮れ」が近づいたのを気づかないままに没頭してしまった。こんな光景は今始まったことではない。長年に渡って家人に多くの顰蹙をかった光景でもある。
楽しく遊んだ孫たちが帰って行くお友達と別れを惜しんでいる頃、我に返って秋の夕暮れを満喫した(?)昨日の夕刻でありました。
奈良県や和歌山県を中心に死者や行方不明者の多いことをニュースで知る。安否を覗いつつ、ご冥福を祈りながら被災を受けられた方々にお見舞いを申し上げるばかりです。
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