~罰当たりの言葉でした!~
嫁の実家から今年の初物「栗」をいただいた。
今朝、老妻が「食べますか?」と聞いたので拒否もできずに時間は過ぎた。そして茹で立ての栗が食卓に置かれ試食の案内を受けた。包丁で半分に割ってくれたのでスプーンを持って口にして食感に驚いた爺は、思わず「栗ってこんなに美味しかったかい?」と質問とも呟きとも取れる言葉を発して我に返った。そうだ、これは嫁が昨日、「今年の採れ立てだそうです」と言いながら持って来てくれたことを思い出したのである。聞こえる程の大声ではなかったにせよ、不謹慎極まりない発言であったことを美味に痺れた老脳は深く反省したのである。
栗は、秋の果物の中で決して好物の中に入っていなかったことは事実ではあった。
しかし、今朝の「初物・栗」の味は、本当に美味だった。何と立て続けに3個もご馳走になってしまった。老妻に失言を諌められつつも、贅沢に慣れた舌がその味に酔ってしまったようである。
そこに、母屋の玄関ベルがなったので老妻が玄関に向かった。数分の会話が続いて紙袋を持って離れの台所に帰ってきた。長男孫の友人宅から朝もぎたてのきゅうりが大量に入っている袋を見せられ、数日前の台所の風景を思い出した。いただいたきゅうりを「お祖母ちゃん、洗って!」と言って塩を出してきゅうりをそのままに頬張った孫達の満足げな顔を思い出して苦笑した。そこに、老妻が、「お祖父ちゃんも洗って塩を掛けて食べますか?」と詰め寄るではないか。そうだね、と応えながら今度は、幼いころの田舎の畑の風景を思い出した。お腹が空いて食べるものが無いのできゅうりをかじった光景である。
時代は変わった。
野菜しかない!と嘯いて仕方なく齧った不味かったきゅうりが、今では「新鮮なお野菜」として重宝がられているではないか。しかし、今朝のきゅうりも珍味であった。至福の時間として計上しても罰は当たらないだろうと、神妙な顔つきになったのが失言への罪滅ぼしでもあった。茨城に引っ越してきて連日のように「旬の食材」に巡り合う幸せを満喫している午前のひと時である。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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