2011/09/08

先輩との電話から

 ~「死に支度」を始めたのよ・・~
 電話の向こうの先輩の声は元気だった。
 電話の要件はこちらからお送りした『湘南の葡萄』のお礼であった。届いたであろう日付からは少なくとも1週間近くが過ぎてしまっていたので内心では、「何事も無ければ良いが・・」と案じていたのである。この先輩は、教員時代に僅か2年間の学校現場での仕事仲間なのだ。このページでは思い出や苦労話に触れる余裕が無いので省略することにしよう。彼女とは退職後のお付き合いが長い。茅ヶ崎から故郷の仙台に戻られ新居を構え、かなりの高齢で再婚されたがご主人はその後他界され温泉付きの立派な御家に一人住まいをしておられる。偶然にも愚息が大学生活を4年間、彼女の住む仙台市で過ごしていた関係から我々夫婦もご自宅を訪問して一泊させていただいた経緯もある。ご主人のことも明確に記憶している。
 読者の皆さんも信じられないだろうが、茅ヶ崎市に住む知人夫婦が栽培する「湘南のぶどう」は信じられないほどの珍味なのである。先輩も教員生活は全て茅ヶ崎市の中学校なので思い出の地である茅ヶ崎特産品を選んで「謝意」を添えて毎年お送りしている。彼女も心待ちにしているほどの逸品である。今回の電話もそのお礼の内容に終始していた。しかし・・・。
 「角田先生、来年も送ってくれるよね。とても嬉しいけど、一つお願いがあるの」と、しんみりとした口調で始まったので異常性を感じつつも耳を傾けた。「私ね、独り住まいでしょ?先生が送っていただいても受け取れない状況に至った場合は申し訳ないので・・・・。これから送るけど良いかな?」との一言を一報してほしいとの要求であった。
 「良いですよ。了解しました。」と言うと、もう、『死に支度』を始めたのだと解説が続いた。言葉が尋常ではないので「冗談は止めてくださいよ」と返すと、80歳になるという独人人生には「自らができることはできる時にやっておかないと周囲に迷惑がかかるから」と言及され、遺言書も完成して、お弔いをお願いするお寺さんにも既に費用を収めているとの話が展開され、啞然とするやら納得するやらの複雑な心情で電話は終わった。
 電話を切って妻に内容を伝えた。神妙な表情で聞き取る妻にも老域がわが身にも降りかかる年齢になっていることを実感したようである。先輩にはお子さんがいない。言葉の端端に「私は独り者だから」が何回となく繰り返されたことが、我々夫婦間のその後の対話の根っこになってしまった。
 子供がいれば、子供に全ての負担がかかるのが当然と思っている親がいるとすれば、請け負う子供のサイドでも大変なことだろうな。4年前に妻の両親を看取って臨終から葬儀等々の対応をしたのは「子どもの立場」からでしかなかったし、子供としての当然の要務だと信じて疑うことも無かったが、先輩の「身の処置法」が、子供を抜きにして考えておられる姿勢に心が動揺してしまった。
 老後の面倒を看てもらうために、ここに引っ越してきた訳ではない。そんな自負も先輩から見ると「子どもに厄介になる」幸せ(?)を当然のように思い込んでいる後輩夫婦として映っていたんではないかと考えてしまった。しかし、『死に支度』は、できるだけ自力でしておくべきだと、素直な気持ちで受け止めることが出来たのは、やはり敬愛する先輩であるからだろう。
 しかし、相変わらずの元気なお声には、支度が終わってもなかなかその準備が成就しないのではないかと失笑した昨日の夕暮れの電話であった。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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