2012/02/29

「月に二回だけ」のデート!?

~「7時間」の中身は・・・~
 艶のあるデートではないが貴重なデートを紹介しましょう。
 これは、老夫婦の健気なばかりの(笑)「二人だけ」の時間である。中身は鍼診療のための行程である。2000年9月2日にスタートした時点では神奈川県茅ケ崎市在住であったのでJR相模線一本で診療所へ行くことが出来たし、天候が悪い時は自家用車で行くことも容易な距離にあった。しかし、今となればかなりの遠隔地になってしまった。あの日以来11年間も診療が続いている。晩年の我が「健康人生」を大きく左右する「とき」であることは家人は全員知っている事実である。
 その鍼診療日がデートなのだ。
 掠れてしまうような人生を歩んでいる小生夫婦としては、せめて、潤いのある表現で命名しないと人生そのものが名実ともに萎んでしまうような気がしていたたまれないからでもある。
そこで、老夫妻の鍼診療日を「デート」と命名したのである。どうしても艶っぽくならないのが時間配分である。総時間7時間のこのデートの中身は、片道2時間半(往復5時間)と鍼診療時間が一人1時間(計2時間)である。
 毎回のデート以下の通りで「判を押した」ような時程でもある。
9:52分の常磐線で上野駅に到着するのが10:59。京浜東北線に乗り換えて東神奈川駅で下車(11:35)。そして横浜線に乗り換えて相原駅に到着するのが12:22である。駅から診療所までは徒歩で15分ではあるが全て往路はかなり厳しい上り坂。診療予約時刻は午後1時である。
午後3時に診療を終えて、相原駅発15:25の横浜線で八王子駅へ。中央特快に乗り換えて神田駅まで来て、またまた乗り換えて上野駅に向かうと通常午後5時直前の上野駅到着である。それから常磐線に乗車してから約1時間20分はかかる。
昨日はデートに彩が着いた。
 アメリカに住んでいる従姉に(遅くなってしまったが)、ひな祭りの贈り物を買いたいとの老妻の申し出であった。快諾して中央特快で終点・東京駅まで行った。初めて「えきなか」とやらのショッピングエリアに足を入れて驚いた。「ここは駅構内?」と思わず口に出るほどの豪華なモールである。年金生活になっても女性にはショッピングの時間は娯楽として必要不可欠であると実感した(笑)。
 購入したモノは可愛い「昔風のひな祭り」をデザインした和風品だった。嬉しそうな老妻と一緒に特急「スーパー・フレッシュひたち号」に乗車して土浦まで戻って、最終回の乗り換えを済ませて、総時間の7割が「車中」となるの今回の「老夫婦のデート」も無事完了した。

2012/02/28

今日で2月も終わる??

~モンスター・グランドチルドレンの問いに窮する~
 いいえ、2月は明日まであります。
 「お祖父ちゃん、2月29日に生まれた人はどうなるの?」
 藪から棒の質問を受けて、ハタと考える。そんな生徒がいたような記憶が戻った。誕生日と届出戸籍がズレていても堂々としていた親の時代も同時に浮かんできた。4年に1回しかやって来ないカレンダーの上の「誕生日」だとすると当事者は複雑な心境になるモノだろう。
 孫の自らの応えは面白かった。俺たちが20歳になってもその子は5歳だと言うのである。そして、子どもらしく「誕生日のお祝いを貰えることとケーキを食べる」ことも5回しかないのはかわいそうではないか、と言及した。他愛のない原理である。しかし、現実問題としては戸籍上の誕生日はその前後で登録してあるのだろう。
 小生の時代には、友人の中には「本当の誕生日は〇月□日なんだけど、祖母ちゃんが死んだりしたのでお父さんが役場に行くのを忘れて▽月◇日になったんだって」とあっけらかんと公開していた友人がいたことを思い出した。
 地球は360度の球体。暦は365日。そこに何らかのズレがあるのかな?今の孫の年齢と同じくらいの頃、不思議に思ったことがあったが究明もできず「この歳」になっている。そんな思考回路も今となれば、「そんなことどうでも良いじゃん」と片づけてしまいそうな祖父ちゃんには結構鋭い質問として差し込まれてしまった(笑)。
 正しい解答の出来ない祖父を尻目にしながら孫たちは成長していく。その内に思い出したかのように学習したことを祖父に教えてくれるのだろうか。答えに窮する難題を押し付けてくる人種をクレーマーと言うらしい。孫はクレーマーではない。学校教育界ではモンスターペアレンツと呼ぶようだ。聞くところによると、病院にも市役所にも同種の難癖を付けにやって来る人種も居ると言う。つまり、理不尽な要求を突き付ける人種と言えるのだろうが、なぜ、こういう人種が誕生したのだろうか。
 3月末日を締切にして原稿の執筆依頼が届いている。
 「学校教育」に関するモンスターペアレンツに関する内容である。提供して頂いた資料を原材料にして私見をまとめてみたいと考えている。時期が来ましたら当ブログでもご紹介するつもりである。

2012/02/27

「学び過ぎた」(笑)翌朝の目覚め

~目が覚めたら6時だった~
 老脳に刺激があると睡魔のパワーも倍増するらしい?
 通常の起床時刻から2時間も遅い目覚めだった。既に起床している老妻が枕もとを歩いた足音で目が覚めたようだ。「ごめんなさい」と謝る老妻に時刻を確認して飛び起きた。美酒の影響も多分にあったとは言え、刺激の重量が大きく影響していることは確かである。
 早起き鳥の「遅く起きた朝」の一日の出足は最悪である。
 通常は「自分だけの生業」は全て7時までには終了しているので、(夫婦共通の)公的業務も8時には完了する。8時からは全てフリーなのである。遅く起きた朝は前日の妻や同居人たちからの依頼事項も、このように遅く起きた朝は、ほぼ午前中をその時間に費やす「不始末」となってしまう。
 午後からは、孫たちの「お祖母ちゃんの書道教室」が予定されていたらしい。その前に老妻は済ませておきたいことがあったのだ。遅起きした請負人にはどっと皺寄せが押し寄せてしまう。正に「そんな日」になってしまった。夕食の準備をする時間も無く老妻は小学生2人の孫に書道を伝授していた。ほぼ完成した作品を手にして母屋に戻って行く孫たちを見送りながらお祖父ちゃんの反省は「遅寝遅起き」の罪業に尽きることとなってしまった。老夫妻だけの夕食で談笑しながら妻は言った。慌ただしかった午後の日程消化ぶりに「こんな状態だったですね、私たちの子育ての頃も・・・」と。成長して40歳前後の3人の子ども達の顔を思い出しながら苦笑の味付けで夕食を終えた。

2012/02/26

老化を和らげるには「刺激」に限る?

~フォーラムでの発言に学ぶ~
 学びは、やっぱり刺激によるモノが大きいらしい。
 刺激は老脳にとって最良薬だと確信して帰宅した。至福の時間として受け止めることが出来たことが参加の最大の収穫だった。哀しいかな、同業者の発表には同業者ゆえの性があり、時として嫌味にも聞こえ老脳が拒否反応をしてしまう。なぜ?それは自らの過去に同種の悪足掻きをしていたことの証明なのかもしれない。 「元・校長」と言う過去の遺産で喰っている人種と会うと反吐が出るほど不快な気分になる。このことを昨日のフォーラムの会場で思い知らされた。
常磐線の車中で飛ぶように流れる夜景を見詰めながら自己嫌悪の自らと闘いつつ酔いも覚めての帰路となった。と、ここまで記すと落ち込んでいる小生をご想像なさる読者が多いと思われる。しかし、小生を知る人ぞ知る本性は「一夜明けると只の人」となり、暗い影を引き摺りたくても引き摺れない朝を迎えてしまうのだから始末が悪い老輩である。
 ともあれ、刺激的な学びを得ました。
 この歳になっても学ぶ??そうです、学んだのです。ブログでは表現出来ませんが、どこかの研究会でこの学びを『角田明流』にアレンジしてご披露申し上げましょう。その作業を今日はゆっくり、これから始めることにいたします。夜来の雨も上がりました。一雨ごとに春も近づいているのでしょうか。
 フォーラムの会場でいただいて帰って来た『ミサンガ』(=被災地の皆さんの手作り)に思いを馳せながら、一日も早い震災地の復活を祈る朝です。

2012/02/25

「鬼」も「仏」になりました(笑)

~お祖父ちゃんの「授業参観」~
 前夜は帰りが遅かったので当日の朝、孫から案内を受けた。
 「お祖父ちゃん、今日は居るの?」と切り出した小学4年生の孫。「五時間目は1時45分に始まるけど、僕の発表は2時過ぎだと思う。授業を見に来てください」との招待の弁であった。同居して10か月が経ったが、その間には数回の授業参観や保育参観の機会が得た。当初は何もかもチグハグで同伴者の老妻がどぎまぎしたとの声を耳にしても聴解力も鈍っていたようだった。
 やっと「鬼」から「仏」の眼力に替わった。
 教員稼業一筋の人生では「授業を観る」(=授業を観察する)ことは自らの糧に直結する重要な時間である。批判や疑問や閃きが錯綜する貴重な時間でもあったので「鬼の形相」と言われても仕方が無い程真剣な眼差しで授業者と向かい合ったモノだった。
 晩年は授業を観察して「授業者を指導する」役回りが回って来たので、只ならぬ『鬼の目線』になってしまったようだった(笑)。酷評で何人、いや何十人の教員を奈落の底に突き落としたのだろうか。小生自身は、事実に即して評価して、改善点を追求したばかりだった。「歯に衣を着せぬ」という切り口だとも評価された。決して授業者を扱き下ろして容赦なく叩きのめした等と考えたことも無かった。その辺りのズレが見たことも無い架空の動物(=鬼)が代名詞として使われたらしい。
 「二分の一・成人式」という学級活動が本日の授業参観の内容だった。
 10歳の子ども達が20歳(はたち)になった自分に語りかけるスピーチの発表が授業として保護者に公開されたのである。鬼ではない「お祖父ちゃん」の眼には、孫や良く家に遊びにやって来る数名の子ども達だけがアップされ、決して比較したり評価したりしない耳で気持ち良く最後まで聴くことが出来た。
 そして、転居したばかりの夜、父親とお祖父ちゃんが酌み交わすビールを見詰めながら孫が発した言葉を、また思い出した。「僕が20歳になるまで生きていてね」と言いながら「そうしたら、お祖父ちゃんと一緒にビールが呑めるからね」と言葉を繋いだ。感激したあの夜のシーンを思い出しながら孫のスピーチに耳を傾けるお祖父ちゃんには「仏の目」線であったことは誰も疑うまい。
 「今日は随分落ち着いて参観出来てましたね」。帰り道の妻のこの一言が、鬼から仏への「化身の証し」ではないだろうか。信じていただけますかな?(笑)

2012/02/24

雨も上がった横浜で再会

 ~広島からの先生方を歓迎して~
 今回は、当方の最後の勤務校である茅ヶ崎市立緑が浜小学校への訪問を中継した関係から少々お節介な役回りを負うことになってしまった。更に、この小学校を母体にして分離独立・新設開校した茅ヶ崎市立汐見台小学校も同日に訪問できるようにご厚意をいただいた日程になっているのは先方のご配慮のようである。
 両校とも校長さんたちを良く知っている関係者としては、今回はちょっと勝手も違う。数日前まで悩んだ。新進気鋭の校長先生の熱意と意欲を来客に自然に出せるための配慮のためである。両校長先生とも、10年以上ではあるが当時の(彼らの)上司として仕事に関係をした間柄である。
そんな老輩がしゃしゃり出ると?躊躇は続いたが現実面での展開を考えて解決した。当日の学校訪問は校長さん達に一任することにした。そして、前夜の歓迎の宴(笑)を担当する宴会部長に徹しようと考えた。
 宴会部長なんて「やり慣れていない」業務なので、これまた難儀であった。
 訪問者が宿泊されるホテルの最上階にあるレストランを予約しておいた。落ち着かない宴会部長は15分ばかり前に到着してしまった。落ち着かない!!仕方なく(笑)、生ビールを頼んで独りで呑む。こんな宴会部長っていたのだろうか?自問しながら開き直る。「心から歓迎しているんだから・・・」、と。新幹線で新横浜下車。横浜線で桜木町まで移動されたお客様は定刻に到着。
 コース料理が運ばれるままにひたすら「食べて」時間が流れた。帰路の時刻も気になりだして(=約2時間半の電車)、バタバタと「中締め」の挨拶をして、勝手に宴会武将を無罪放免とした。レストランの職員にお願いして記念撮影(=写真)をして京浜東北線の車中の人となった。
 帰宅して入浴を済ませたら「日付」が替わっていた。
無神経と言うか無頓着と言うのか、「宴会部長」には最も相応しくない人物との歓迎の宴を満足していただいた自信は全くゼロ!今日の学校訪問で充実した研修を行っていただくことを期待して大役から降りた。慣れないことをやると翌朝まで疲れるモノです!!(爆笑)

2012/02/23

「ラジオ体操」の思い出

~あの厳しい指導に感謝?~
 夏休み中の朝6時。
 実家からは数分で行ける分校の運動場。眠気が妨害して遠く感じた少年の日。3年生から本校に通い始めて大運動会(と、呼称されていた)の練習が始まると「定番」はメロディに合わせての(ラジオ)体操の指導に耐える事だった。屈伸や跳躍や回転等々の厳しい練習が「これでもか!」と延々と続いたことが浮かんでくる。
 なぜ、今日のブログの話題が「ラジオ体操」なのか?
 「ラジオ体操」を意識して体操を開始してから10日間が過ぎた。6時半になるとNHKラジオのチューナーを第1から第2に回す。♪♪新しい朝が来た 希望の朝だ・・・♪♪ の昔と同じに溌剌とした歌声が耳に入る。ラ・ジ・オ・た・い・そ・~だ・い・い・ち・・ との掛け声を合図に狭い我が家の「私設・老人ホーム」入居者2名はぶつからないような距離を保って体操を始める。50年以上も前の「動き」が何の抵抗もなく手足に伝わっている。身体が覚えている!不思議だ!!ホントに不思議に思いつつ頑張っている。
 そして、その違いに老体が気づく。そして少々落胆もする。
 哀しくもなるが現実として認めながら体操に挑戦である。妻の膝痛が原因でこのラジオ体操への挑戦となった。歩くことを続けてきた夫婦であるが膝や腰が痛むと歩くどころではないようだ。寒冷地の低温は身体の弱い部分を教えてくれた。膝に痛みを発したようである。しかし、気温が上がると「歩ける」気にもなるらしい。先日の東京・亀戸天神の境内は春陽だったので気持ちよく歩いていた妻の姿も確認できた。もう少しの辛抱である。
 ラジオ体操に取り組みながら、「こんなにまで老化が」と痛感する日々である。現状に無理をせずに「続ける」ことを心に銘じて続けてみよう、と妻を励ましながらも早や10日間が過ぎた。二人の会話は「あの頃の先生の指導は厳しかったね」と盛り上がる。そして「感謝する」気持ちでいつも会話が終わる。先生方の指導に応じようと懸命に足腰を動かして褒められるまで頑張ることが出来た日々はもう戻らないが、その教えを50年経っても全身が覚えている。教育の偉大さを噛み締めながらこれからも無理なく続けてみよう。「鉄は熱いうちに打て」の魂を学校教育でも大事に育てて欲しいモノである。
 温かい春の訪れを待ちながら今朝も「ラジオ体操」に挑戦する。
 全国の校長先生方へ依頼した「調査・考察」が届き始めたので、そろそろ原稿の執筆を始めなくてはならない。確定申告も本気に取り組まなければなるまい。東京で開催されるフォーラムにも出向したい。結構忙しい。ラジオ体操で血液の循環に勢いを付けて今日も頑張ることにしましょうか!!
 読者の皆さんも、いかがですか、ラジオ体操仲間に入りませんか??

2012/02/22

穏やかな春陽の東京

 ~浅草から亀戸まで~
 書道用具専門店の寶研堂まで出向いた。
 豊橋市の小学校訪問(1月27日)の際に「豊橋筆」の制作を直に視察するチャンスに恵まれた。その会社の代表が浅草にあるこの専門店に「筆作り・実演」を兼ねて上京されるとの情報を得ていた。訪問のお礼を申し上げたくてお目にかかるために訪問したのである。予告も無しにお店に入ったにも関わらず直ぐにお分かりいただいて感激した。今日は妻同伴での訪問だった。我が妻は茅ヶ崎の自宅で30年余り「書道教室」を開いていた。「筆作り」にも興味が深く、豊橋市の制作現場から電話を入れた時点でも羨ましいばかりの声で反応した。面会して紹介すると専門的な業界用語での会話が弾み、ひと時を満喫できたようであった。
 お店を出てタクシーで亀戸天神まで移動した。先日TV画面でその境内から見る東京スカイツリーが大変素敵だったとの妻の意見が、今日の現場検証の実現となったのである。たまには妻の要望も「取り入れる」ことも重要であると判断した(笑)。実は、20日が妻の誕生日でもあったからである。この歳(?)にもなると、今更、「おめでとう」の言葉も照れ臭い。
しかし、同居する孫軍団はお祖母ちゃんのお誕生日は願っても無い嬉しい日のようである。それは両親が買って来るバースデーケーキを食する絶好のチャンスだからなのだそうだ(笑)。
 亀戸天神周辺の「うどん屋」さんで、細やかな老夫婦だけの「誕生祝い」と称して昼食を食べて早めに帰る予定で中央総武線で秋葉原駅に向かった。乗り換えて上野駅方面行きの電車に乗った瞬間、妻の携帯に電話が入った。嫁から長男孫が学校から早退したとの一報である。
 連絡を取り合いながら帰宅した。心配した程の高熱は無かったが元気は無かった。祖母に「豆腐・熱さまし」を要求して東部に当てながら気持ちよく眠った。早めに帰宅した母親に連れられて病院へ行った孫も帰宅時点ではかなり元気も回復していた。長男(父親)がお祖母ちゃんへのバースデーケーキを買って帰宅した。一気に盛り上がってバースデーソングも小さな離れの小さな老人ホーム(笑)の中に響き渡り大賑わいとなった。
 一頻りの賑わいが母屋へ戻って行くと老人ホームにはいつもの静けさが戻って来て入浴を済ませて床に就いた。母屋軍団には東京での爺婆だけの細やかな誕生祝の事は内緒である。孫もどうやら眠ったようである。妻も同居して初めての祝宴に満足したことだろう。忙しい一日だったが装着した歩数計は1万歩を超えていた。

写真は、滅多にカメラを持たない老妻がシャッターを押したものです。少々傾いているのが芸術品だとご理解願います。ここからの東京スカイツリーのアングルもホントに素敵でした。境内の梅はもう少し経つと見ごろになりそうでした。

2012/02/21

歩禅記(55)

 ~『春陽』紛いに誘われて歩く~
 気温の低さと風の冷たさに怖気づいた老体から、「ここんとこ歩いとらんなぁ」と九州弁が飛び出した。歩き出そうと身支度をしながらふと気づくような穏やかな陽射しの昼下がり。ズボンのポケットに歩数計(=通称・万歩計)を入れたまま洗濯してしまったことが浮かんで来て苦笑である。大事な「歩禅の友」を亡くした気分であったことも思い出した。今日の歩禅は先ず「旅の伴」を買い求めることから始めることにした。
 街中にあるドラッグストアまで向かう。自宅から店までは当然ながらアスファルト道路を歩く。歩き出して暫くして、耳慣れない音に気付いた。それは通過する「車」から聞こえる音であった。新しい「旅の伴」を得て意気揚々とお気に入りの田園コースに進路を変更して歩き始めた。行き交う車によって「気になる音」が聞こえたり聞こえなかったりする。
 何の音?何故なんだろう?車の種類やメーカーの違いでもない。サイズでもないが、大きい車ほど「音」が明確に聞こえる。自問自答しながら歩き続けた。
 「車の足音」が違う?
 当地でも1週間前辺りから雪景色が多くなった。今日の温かさが嬉しくなるような気温の低さが続いた。これは転居者の顕著な感想である。寒冷地での冬の装備は愛車のタイヤ交換であることに気付いた。温暖な湘南(=神奈川県茅ケ崎市)では何年に一回の10数センチの降雪でも翌朝の道路は車の放置状態が多かった。それは雪道や凍結道路を走るタイヤの準備が無かったからである。小生にも路面凍結の道路でスリップ事故を起こした苦い経験もある。
 雪も降っていない。路面が凍結もしていない。そんな通常のアスファルト道路をスタッドレスタイヤで走行すると路面とタイヤの面との摩擦は異常な音を発するらしい。気にすれば気になる騒音である。しかし、ご当地では許容範囲であろうか。スタッドレスタイヤを装着した車を運転したことが無い小生にはこの音には愛着が無いのかも知れない。
 そんな音から解放される。田園地帯の農道はやっぱり快適である。地面の弾力性に足も疲れる。しかし、この方が歩きやすい。
 畦道の弾力性を足裏で感じ取る歩禅は全身に柔らかさが伝わってくる。心底から温もってくる快感である。寒さや冷たさに耐えるのも「あと一息」だろうか。そんな思いが足元から伝わってくる快適な歩禅は「新しい歩禅の伴」が6000歩を示してくれた。目標の1万歩には達しなかったが満足の歩禅だった。

2012/02/20

『共育する』意識の深まり

~帰路の車中で「意識の再生」~
 初対面者への講義は疲れる。
 しかし、この歳になっても「初」体験の緊張感が何とも言えない、と感動するわが身が愛おしくもなる(笑)。初めての出会いには「何かと会える」と思うと前夜からの興奮も、まんざら捨てた物でもない。しかも、今回は開講直前に震度4の「振るえ」に襲われたのが確かな前兆であった。小生は自らの講座を待っている時間であり不安と期待が交錯する時間でもあった。
会場である茨城県立青少年会館には他種の「会合」が開かれていたらしく、その関係者が「久しぶりの強震」と口々に言葉を発しながらロビーに集まって来る。外様の小生は騒然とするロビーの光景に馴染んでいく不思議さを覚えながら数分後の開講を待った。
 会場に入ると、20数名の受講生の顔と直面した。
 この緊張感が何とも言えない。初発の「ことば」の重さを痛感する瞬間でもある。いつもの非常識(=他人は評価する)な導入で聴講者と向き合った。初めて会うのに自己紹介もしない。名前も告げずに講義を始める講師は、やっぱ、異常者(?)として映っただろうな。この非常識な言動こそが「教育界」でご法度とされる振る舞いであることは当人が十分承知してのことであるから始末悪い。
 内心の片隅では、「いや、そんなことは無い」と反目もしている。小生が考えるに、ご法度とは他者に「受け入れられない」状態を言うのではないだろうか?そうだとすれば、学校教育における「子どもたち」は、紋切り型の決まり文句は決して期待などしていない、と言う現状を軽視していることにならないだろうか。だからと言って、型破りの独りよがりな言動だけを期待しているのではない。つまり、教育界に従事しようとする人材には、細心且つ最大の心遣いが必要だと言える訳である。
 90分の「持ち時間ぴったり」に講義は終了して帰路に着いた。
 水戸駅までの路線バスに同乗する受講生と隣座して談笑できたのも幸運だった。中学校での臨時勤務者だという自己紹介に耳を傾けながら、ここにも「出会い」があったと嬉しくなった。野球部の顧問として活躍中との内容に「妙縁」を感じながら10数分間だけの水戸駅までお付き合いも初対面者同士の醍醐味だった。
 帰路の常磐線に乗って留守宅にメールを発信した。
 返信の速さに驚いて目に入ったのが下記のメールだった。妻からの返信ではなかった。読みながら、『この歳』になっても嬉しさは変わらないことを感じた。『共生する』というきれいな表現を敬遠する気持ちには変わりはない。そこには、常磐線車中の「思考回路」の師匠が、本日の受講生から届いた「携帯メール」という現代利器の飛び道具になったのであった。
 やる気を抱いたのは送信者だけではない。受信者も元気を貰った。
つまり、『共に生きる』術を貰い合ったという証ではないか。講師の小生は教員を退職して8年間も経た老輩である。受講者はこれから教育界で「働く」次世代の若者である。異世代の人間同士が90分間の共有時間でお互いに触発されたのではないだろうか。と、すれば『共育』そのものではないか。
 常磐線の車窓にきらきら輝く霞ヶ浦の湖面が眩しい。夕日に真っ赤に染まった空の色とのコントラストに酔ったのも、共育する意識を深くすることが出来た「出会い」に遭遇した幸せを感じつつ充実感で車中を過ごして降車駅で電車から離れた。直後、受講生からの二度目のメールが着信した。当ブログ登載の諾否を伺った小生のメールへの返事であった。快諾を得たので以下に登載。
 すっかり暗くなった夜道に冷たい夜風が全身に吹き付けるが寒さも感じないままに無事に帰宅である。

1202191737受信
今回、茨城県の「一般教養講座」でお世話になりました、〇〇〇〇と申します。本日はご指導頂きありがとうございました。早速、池上さんの文章を読ませて頂きました。この文章は教師と生徒の関係も同様だと思いました。生徒が理解できないことを生徒のせいにしてしまうのは簡単です。ただ、教えている自分自身に問題があると思うことで、謙虚な気持ちになり反省点が見つかると思います。私は現在、高校の講師をやらせてもらっていますが、実際の現場でも自分の至らなさや未熟さを実感します。それを自分自身のこととして受け止め、改善していくことが生徒のためになると改めて思いました。
また、角田先生がおっしゃっていた、「生徒のことをしっかり知った上での指導」は教員を目指す私にとって必要なことだと思いました。本日の気付きを明日からの学校現場で実践していきます。今後とも宜しくご指導の程、お願い致します。
注:①池上さんの文章=資料として準備・配布したジャーナリスト・池上彰氏の 「こどもニュース」の衝撃 という談話エッセイである。②受信番号の読み方:2012年02月19日17:37の受信の数字の羅列


 発信者の文中に表記されている「池上さんの文章」(当方が作成したオリジナル資料です)をご希望の方はメールでお申し付けください。添付ファイルにて送信します。

2012/02/19

一本の電話

~おじちゃん、元気ですか?~
 登録していない電話がかかる。「誰だろうか?」と若干の躊躇。
 凄い時代に生きているモノだ。電話のベルが鳴ると飛びついた時代が遠い昔に感じる。手持ちの携帯電話も自宅の電話も関係者の電話番号を登録しておくと呼び出しと同時に画面にその名前が表出するので相手がわかって対応できることになる。数字だけの表出には少々臆病になることもある。
 夕暮れ時。
 「はい、もしもし・・・」と電話に出ると、若い男性の声らしい元気なトーンが耳に飛び込んできた。「おじちゃん、元気ですか?」との第一声。直ぐに発信者の顔も名前も判明した。「お~っ!!」と歓声のような声を出したのでキッチンの妻にも聞こえたようだった。「どうした?」と問いかけようとしたら先方から言葉の猛ラッシュ。「結婚式が決まったんで・・」と続いた。
 昨夏の記憶が戻った。この電話の主は直系の親族ではない。その嫁になる女性が妻の遠縁に当たる。妻は一人娘で育ったので本家のきょうだい(兄弟・姉妹)がそのもののお付き合いをして貰っている。その本家のご長男(82歳)の孫娘が電話の主のお嫁さんになるわけである。従兄の孫であるから妻から見れば何親等に当たるのかな?従兄の二男(神奈川県厚木市在住)がこの「花嫁さん」の父親である。
 茅ヶ崎市の自宅を処分して転居する予定の拙宅に二人で遊びに来てくれたのが初対面であった。新居探しをしているという二人が拙宅にやって来たのも妙縁である。茅ヶ崎に住みたいという阪出身の花婿さん。新婚さんの住まいにするにはお門違いだろうが遠縁の関係もあり、「家が空くので住んでも良いぞ」、との小生の声掛かりで親近感が増幅したようだった。
 会社との折り合いで、結局、通勤距離の近い場所で新居を選択することになったようだ。その後の接触は無かった。転居と言う新しいリズムにバタバタする老夫婦の生活は他人のこと等すっかり忘れての生活が続いていた。
 「おじちゃん、結婚式の日取りが決まって・・・・」と、式に出席して欲しいとの電話であった。日程は既に従兄の二男(花嫁の父)から一報が届いていたので知っていた。80歳を過ぎた花嫁の祖父(妻の従兄)も上京してくるという情報も届いて、妻も再会を楽しみにしていた。「おい、俺達まで結婚式に出るのかい??」という小生の声に怯むことも無く「出てくれますよね」と、まるで甥っ子のように強請り声であった。
「わかった!日程を入れておくよ」で電話は切れた。
 爽やかな心情が狭い「離れ」の私製・老人ホーム(笑)の部屋に棚引いた。5月GWの連休明けには日程は何も入っていない。従兄夫妻は孫の結婚式(東京)に参列して、その足で土浦に眠る妻の両親の墓参も計画しているらしい。従兄の叔父に当たるのが妻の父親である。
 叔父の墓参まで連なる「お祝いの宴」に上京する従兄との血縁の濃さと、それを大事にする一族の温もりを感じた「一本の電話」であった。

2012/02/18

『現場感覚』のズレは致命傷

~後輩校長諸兄にデータ提供の依頼~
 突然に執筆依頼の書簡が届く。業界の常識なのだろうか。打診が無いのは信頼されているからなのだろう。自己暗示で内容を理解した。返信用葉書の欄には「諾」に丸印で囲んで投函したのが数日前だった。
 早速、編集担当者よりメッセージが届いた。「ご快諾戴いて有難うございました。」と型通りの文章を読み取りながら、またまた気楽に請け負ってしまったと我が性格に苦笑した。しかし、先方からは「先生のお原稿を楽しみに待っています」との、型通りの締めの表現が添えられているのを読み切ると肩の荷が重くなった。同時に少々気も重くなったのが毎度のことながらの「現状」である。
 そこで現場の実態を知るべく、親交のある全国の校長先生方にメールにて執筆内容に即したデータの提供をお願いした。流石に早い返信者があり、現状の生々しいご苦労をまとめた資料が届いた。読みながら隔世の感を抱いてしまった。
 恐らく、これから届くデータも大同小異だろう。小生が訪問する学校では、その多くが「授業研究」だけの目的なので今回の主題とはかなりのズレがあり、校長室での話題にはあまり挙がったことはない。
 しかし、学校全体に活気が無い研究会に出講したりすると、授業研究以前の問題が山積しているのではないか、とご苦労を思い遣ることもあった。雑務に追われたり、生徒指導に疲れたりしている様子を目の当たりに見るだけでも学校教育界の前途多難を感じてしまうのは、経験者だけが抱く『老婆心』なのだろうか。
 経験者の目線から、後輩校長諸兄にエールが届くような原稿を書き上げなければなるまい。そんな深い愛情が募っているわが身に苦笑する。
 外は、また銀世界の土浦の朝のようだ。
 長男が出張で水戸市まで車で出かけるらしい。路面凍結を心配している老妻が早朝からうろうろしている。これも愚息を愛する母心なのか?いや、正真正銘の『老婆心』ではないか、と考える爺であるがいかがであろうか(笑)。

2012/02/17

窓を開けたら『銀世界』

 ~ここは雪は積もらないよ~
 そんな話を聞いていましたが、今冬はやはりいつもの冬とは違って寒いのだそうです。
 雨戸を開けてびっくり。土浦に転居して積雪はあったようです。「ようだ」と言うのには理由があります。その日は決まって県外に出講していたのです。旅先のホテルから電話すると「凄い雪だけど、そっちは大丈夫?」と老妻に聞き直された会話を思い出しています。
 茅ヶ崎も豊橋も、そして広島も確かに寒かったことは事実でした。時折小雪が舞った時間もありましたがこんなに積もることはなかったのです。しかし、数日間の滞在後に帰宅すると全く積雪の跡も残っていませんでした。
 南国育ちは雪に弱い?
 ラジオでは水戸市の雪がもっと凄いとの情報です。明後日は水戸市に出講なんですよ。当然ながら常磐線を利用しますが、雪の中の行程は苦手です(笑)から、もう心配しています。豪雪地帯で生きている人たちがこのブログを読まれたら、馬鹿馬鹿しくて仰天されることでしょうね。
 雪景色に感動してしまった今朝のブログ第2弾でした。

苦しい時の『つの』頼み??

~面白い語呂合わせを回想して~
 『つのだのみ』(=角田に頼む)なんて日本語は存在しない。

 市教委勤務時代に当時の教育長さんによってこの言葉が造語されたらしい。その時点では殆ど意識したこともなかったし、氏の本意も理解する余裕も無かった。その後になって、知れば知る程「烏滸がましい」表現ではないか、と本気で照れくさくなったことだった。
 妻の従姉の娘さんからメールが入った。
 長男の高校受験が直前に迫ったとのこと。「電話で励まして欲しい」との依頼であった。小生が電話したからと言って受験の効能があるなんて全く考えたことも無い。しかし、「頼む」側からは苦しい時の神頼みの心境に似ているのであろうか(=神様に対して非礼であることは承知している)。
思えば、この受験生が幼児の時代に従姉の家で初対面している。その時、何をして遊んであげたのかは全く記憶していない。しかし、その少年はずっと覚えていたらしい。その後何年も経って湘南(東海道本線)電車でバッタリその母子と会った。こちらは気づかなかったがその少年は気づいて母親に知らせた。同じ駅で降車すると言うので懐かしい思い出話をしながら一緒に改札口を出て別れた。そして、それ以来また会うことは殆ど無かった。再会は少年が5年生になった頃であった。
 野球少年に成長した少年との再会には理由があった。小生の教え子がプロ野球選手と言う要因が、より「親近感」となって親しく会話をすることになった。そして、憧れのプロ野球選手との面会を実現させてあげることができた。
 その少年が高校受験だそうだ。
 従姉もお祖母ちゃんとしての愛情が強く、高校受験への期待と不安が募っているのだろうか。孫の激励手段を娘さんに伝じたようである。プロ野球選手を育てたという小生の実績に憧れを抱いている孫への激励は小生に頼むことがベターとの結論になったのかも知れない。成長した中学生とは僅かな関わりしかないのだが「激励の電話依頼」の頼みが届いたという訳である。少々照れもあるが、「頼まれて」拒むのも大人げない。
 そして受験日当日(16日)の朝6時。依頼の激励電話をした。功を奏すれば嬉しいが、小生の電話位での大願成就はあり得ない。受験生当人の日常の努力だけがその結果を産むのである。このことをしっかり理解して、3年後の大学受験に挑んで欲しいモノである。
 小生も、この可愛い受験生が合格するように「神頼み」をしたくなった(笑)。

2012/02/16

ついに今年もやって来た!

~今年は挑戦しようかな!?~
 そんな思考を巡らせながら時は今年も追っかけて来てくれた。
 それは確定申告開始の日(2月15日)である。実は、昨年までは茅ヶ崎市に住んでいて市役所勤務の税務処理セミプロの援助で資料だけを箱に詰めて持ち込んでは殆どの行程を処理してもらっていたのである。つまり、自力での確定申告は行っていなかったのである。何事も「やってくれる」人がいるとお願いして人生を過ごしてきた怠け者も、ここに来て自力で事務処理をせざるを得なくなったのである。
 そして、その解禁日である。
 住まいも変わったことだし、そろそろE-taxとやらに挑戦してみようと気持ちだけは先行しているのは事実である。だが、まだ全く行動は伴っていない。大した分量ではないだろうから「何とかなるさ」の能天気者は悠然としている。いや、開き直っている、と言う表現が適当か。
 仕事の先取り??
 得意芸の一つであるはずだが、この類の「事務処理・経理処理」はどうも気乗りがしないままにこの歳まで来てしまった(笑)。つべこべ言っている場合でもなさそうだ。その内に「完了」そして「提出」の報告が出来ることを期待していただきたい。
 そんな日に、大手の出版社から原稿執筆依頼が飛び込んできた。渡りに船?いつの間にか確定申告書作成業務より原稿執筆に心は傾いてしまったようだ。我ながら苦笑である。そんな日を過ごしながら一歩も外出しないままに一日が暮れた。
 体調の悪い末孫が保育園を休んだ。そうなると祖父ちゃんも仕事も増える。孫が気遣って確定申告の事を忘れさせてくれたのであります(笑)。

2012/02/15

「オトナ」のための英語教材づくり

 ~結構、難しいモノです~
 10年前ぐらいから「小学生のための」英語教材を発掘して工夫して教材化してみることに取り組んできた。結構楽しいモノだった。しかし、業者からの依頼で、今度は「大人」のための英語講座を請け負うことになった。性分から依頼を断ることはしないのが我が人生である。しかし、確固たる信念があってお請けしたわけでもない無責任さも、また性分なのだろうか(笑)。
 しかも、「一般教養」としての括りの中で講座は開かれる。そして、それは「ある関門」を突破するための試金石になる一次試験を受験するオトナのための講座である。主催者の説明によれば、大学卒業資格はあるが英語を『苦手とする』集団を対象にするぐらいの準備でお願いしたいとのことである。諺や故事、および基本的な英会話のパターンでの講義をして欲しいとの意向も伝わって来た。
 いや~、難しいモノです。
 苦手な意識が固定しているともなると横文字を見ただけで・・・、いや見るのもイヤだという受講生も多いのではないか。考えれば考えるほど思考回路の中が混沌として先が見えてこなかった。日曜日(19日)開講も迫ってきている。
 ヒントがあった。それは中央線や山手線の電車の中にあった。それを基礎材料として今朝は何よりも作ってみたくなった。そして、出来上がったA4版の『名刺代わりに・・』の作品をここに搭載します。読者の皆さんも挑んで欲しい。そして、様々な着眼点を指摘して欲しいのである。ご協力を期待したい。

2012/02/14

30年前の『記憶』

~そんなにモテたいの?~
 もう45歳になっている。
 そんな計算をしながら「負の再生産」というお気に入りフレーズを思い出してしまった。決して前向きな表現ではないし、閉鎖性が強く沈み込んでしまいそうな日本語なので決して好みではない。しかし、「お気に入り」なのである。その理由は簡単である。最近の「子育て」に関する教育講演会ではもっぱら多用するほど頻度が高いと言うことである。
 「そんなにモテたいの?」と詰め寄ったあの女子中学生も(母親になっていれば)、中学生ぐらいの子どもの親となっている計算が成立する。どんな親になって将来の日本を担うべき若者を育てているのだろうか。この時期(「バレンタインデー」の言葉がテレビコマーシャルに登場する日々)になると当時の女子中学生の言葉を思い出すのである。
 教員としての屈辱感なんていう軽いモンじゃなかった。
 無法地帯のような中学校では、飴の包み紙の散乱やガムの吐き捨てを咎めることも出来ない学校だった。文字通りの生徒指導困難校であった。そこに、ここぞチャンスとばかりに「チョコレートの乱舞」が入り込み、「モテる」と誇示したい男子生徒は授業中でもチョコを口に入れたままだった。注意する教員には「チョコが欲しいんだったら欲しいと素直に言えよ」「チョコも貰えないセンセーだったのか」と、優しい教員には食って掛かる光景は決して珍しいことではなかった。毅然として指導に向かう小生に近寄って来た普通の女子中学生が発した言葉がこれだったのである。この頃から日本語の乱れが顕著になったと考えている。つまり、今の親世代あたりから目上も親も区別を失していたのである。
 人生が黄昏に近づくと、「そんなモン、どうでも良いことジャン」と一笑に付す話題である。女子中学生にとっては「チョコレートを持参する」ことは「校則を破っても」果たしたい必死な行為であったらしい。小生は「きまり」の順守派の旗頭だったので当時の女子中学生からは憎いほどイヤなセンコーだったのかも知れない。
 おかしいと思いませんか?
母親が、「チョコを貰えない息子」のためにチョコを買って来て慰めたという笑い話(当事者にとっては深刻?)を聞いた時点では背筋すら寒くなった。
 2月14日という日だけのことを言うのではない。「●●の日」という特設には特別の意義が付随するはずだ。チョコレートで経済状況を不況から好況にでも換えられるとでも言うのか!コマーシャリズムの「煽動」に乗せられる風潮が多くありませんか?「子どもの言いなりになる」親(教員も)が増加したら誇りある我が国に咲いた「道義心」の花は枯れてしまいませんか?
 たかがチョコ?されどチョコ!
 何事もこの論理で論破され、須らく済し崩しにされることが日常的になってしまう愛すべき日本を憂うばかりである。国民の祝祭日も形骸化される国民意識の体たらくには孫世代への危機感ばかりが募る。
 この憂鬱病は、『成人の日』が近づくと増幅する。小生の人生観は、もはや厭世の様相を呈してしまった。2月14日より(現時点では)3月11日への国民意識を高める努力がオトナ世代には求められていると筆無思うのですが、読者の皆さんのお考えはいかがなモノでしょうか。

2012/02/13

「遅まきながら」と非礼をわびる非礼状


 ~気抜けした「お礼状」は無意味!~
 小生にも小さな人生哲学がいくつか存在する。
 そんな中に「お礼」への哲学がある。真心を込めて謝意を表すること。小さな親切にも大きな声で誠意を示すべきだと学んだ。分かりきっていても時として蔑ろにしてしまう。人格形成上でも許しがたいことである。その落とし穴は「後で・・」であることぐらいはこの年齢にもなると百も承知である。
 やっちまった!!
 言い訳の上乗せでは更に失礼となるので止める。自らを責めながら「遅まきながら」の意を込めた締めの表現を借りて完成させた。それは、去る1月21日に実施した第10回新春教育講演会にご参加いただいた皆さんへの「お礼状」の葉書の投函である。現役時代には部下(同僚)には、かなり厳しく「お礼」の姿勢を説いたわが身が恥ずかしい。極端な例を挙げる。「礼状は事の前に作っておけ」と豪語した。研究会のお礼状は案内状とセットで作っておいて、研究会を終えて帰宅する時点でポストに投函するぐらいの用意周到な事務処理を強制したものだった。
 お礼状がとどけられる関係者として考え出した哲学である。気の抜けた礼状は意味が無い。賢者の部下(後輩)からは反発もあった。翌日や翌々日に届いた礼状には形式だけしか伝わらず真意や誠意は伝わらないのではないか、と。しかし、哲学には動揺はなかった。本当の謝意はその後の「交信する」姿勢で十分に染み込んでいくので、「取り敢えず」礼儀としての態度だけは確立すべきだと考えたのである。
 遅まきながら投函できるように完成した葉書(裏面=写真)の内容を確認を済ませて表書きを確認しながら背中から冷や汗が流れた。会場受付での住所・氏名の記入が不履行であったことだ。全体記念写真を眺めつつゾッとしてしまった。何らかの形でお届けしようとわが心を諌めながら、「遅まきながら」の言葉に屋上屋を重ねるわが身のいい加減さに堪らなくなっている朝である。
 せめて事務局から届いた、「次回の情報」だけでも載せてお詫びの「こころ」を伝えて心からお詫びしたいのである。

2012/02/12

昔人の知恵に脱帽(2)

~湯たんぽは使っていませんが・・~
 『貼るカイロ』をご存知でしょうか?
 寒い場所に長時間滞在する場合に活用する「カイロ」の恩恵を受けたことの無い人は少ないでしょうね。(学校の)卒業式の会場は通常、体育館です。3月と言えども未だ足元が凍りつくような冷え込みに耐えなければなりません。晩年(笑)は花粉症とやらの同乗もあり足腰の冷えと鼻づまりとくしゃみを堪えるのは尋常では無かったですね。そんな折、同僚からそっと手渡され掌に掴んでいるだけで全身に温もりが走った記憶が鮮明に残っています。その当時は「振るカイロ」だったんですよ。カシャカシャと数回振っただけで高い熱を発する文明の利器でありました。
 その後、賢い人間様は更に工夫が進んでポケットに仕舞う型ではなく、移動しても落ちない衣類の上に貼って部署を温める利器も発明(?)されました。その恩恵にも与り、頗る重宝しているのが老体の身でございます。決してお笑い無きようお願いしたい。それはその恩恵の延長線上にある「特殊な活用法」を知れば笑えなくなるからでございます。
 老妻がある晩、布団に潜り込んだ老夫に向かって訊きました。「足元が温かくなっていますか?」と。老夫の身長に合わせて貼るポイントを押え、その目測地点に『貼るカイロ』をシーツの上に貼ったようなのです。老夫は応えました。「おっ、何だこりゃ~。熱~い!」と。火傷でもするかのような温度が足先に感じたからです。その内に、老夫は「気持ちいい~」を連発するとあっという間に寝息を立てていたそうな。
 老夫妻の布団には、昔人が考案した「湯たんぽ」もありません。いや、必要は無いと突っぱねていたのでありましょうか。いや、単に面倒なこともあったと言えるでしょう。ところがこの『貼るカイロ』の温熱効果に一度肖った老夫の惚れ込みようは、老妻の想定外であったようでございます。
 足元が冷えて眠れない。祖母や母の口からイヤと言うほど聞いていた台詞を思い出します。わが身の加齢を実感する「御年齢」の域に達したという事でありましょうか。この利器は胃袋の位置に貼ると全身が温まります。この時期の体育館での講演(60~90分)は老講師にとっては堪えます。しかし、ホテルを出る前に胃袋と腰の位置にそれぞれ『貼るカイロ』を張り付けて移動すると会場に着くころからは全身が火照る程の効能があるのです。
 相変わらず元気ですね!風邪も引かないんですか?!驚嘆にも匹敵するこの声掛けには少々鼻が高くなったような快感に浸ることができます。
 肉体に宿る病原菌は熱に弱いそうですよ。つまり「冷え」には俄然繁殖能力が強力になるそうです。だから温熱効果のある療法が風邪対策の前線として考えるべきだそうです。化学薬品を体内に注入しても即効の分だけ持続性が無いそうですから、昔人の知恵に準じて基本的には全身を温める「動き」が何よりだと気づかされたのが有難いことです。その「気づき」以降(11年間)、風邪薬に該当する化学薬品だけでなく、他種の『お薬』の部類も一切、この老体内には入っていません。
 「うがいと手洗い」は欠かしたことはありません(夏でも)。
この基本を軽視すると危険です。当方が創り出している「黒酢+生姜」のうがい液は、これまた昔人の特製品らしいのです。その恩恵をいただいて今日も元気な朝を迎えています。老婆心張りの今朝のブログのご一読に感謝申し上げます。
 どちらさまも「昔人の知恵」には、十分にお耳をお傾けがよろしいようで・・・・。

2012/02/11

歩禅記(54)

~田圃の畦道には新芽が・・~
 午後3時から『独り歩禅』を楽しんだ。
 妻が膝の痛み(軽い)が取れないので30分以上の歩行には自信が無いと言う。無理させて歩いて途中で歩けなくなるのはもっと辛いだろうから一人で歩くことにした。行程は「お気に入り」のコースである。先日、久しぶりの挑戦が孫の買い物依頼によって潰されたコースである。陽射しが強く風も弱く、畦道を歩いていても吹きさらしの冬景色の体はなかった。そこには西に筑波山を望む見渡す限りの「田んぼ」の農道が縦横無尽に作られていて少年時代を彷彿とさせる気分爽快な場所である。転居して数日後にはこの地点での「歩禅」に嵌ってしまった程である。
 農協直売店への買い物を頼まれるコースでもある。今日も例外ではなかった。じゃがいもと里芋をリュックに詰め込んでの帰路だったので、背中には久しぶりの汗をかいてしまうほどの陽気だった。
 アスファルト道路と違うのは足裏に弾力があるような感覚で歩ける事か。膝を痛めている妻には逆に歩きづらい道路であることを実感しながら歩いた。ぽくぽくと地面が柔らかくなっている所の陽だまりには、黄緑色の雑草の新芽が春が近いことを伝えてくれた。まだ田んぼには農家の人たちの姿は見えないが、栗林の中からはチェーンソーの金属音が響いてきた。剪定でもされているのだろうか。ひょっとしたら春の準備に取り掛かっておられるのか?こんな素人判断も楽しい。そこには正解が無いからである。藤原和博氏の新聞記事(下記・転載)を思い出しながら足も弾んだ。7000歩の歩数で今日の歩禅は終了した。春も、確かに、息吹を感じさせている田んぼであった。

僕は「正解主義」と闘う! 藤原 和博
 オヤジの背中では教えられないこと
 これからは、もう成長社会は終わったことを心していかなければならない。とくに20代、30代の人たちに意識して欲しいのは、教えられてきた成功例が機能しないということ。自分の父や母、あるいは先生が事あるごとに言い続ける「言われた通り努力すれば、人生は安定する」という考え方では、求めているような成功ができない時代になっているのです。まずその呪縛から、自分自身を解き放っていかなくてはならないですね。
 かつての成長社会の特徴は、必ず一つの正解があると信じられることでした。そういう教育を小中高、大学受験とたたき込まれてきたのですが、例えば4択問題。「走れメロス」を読まされて、帰り道のメロスの気持ちに一番近いものを次の四つから選びなさいと設問がある。つまり一つの正解がこの中に必ずあると断定されているのですが、本来、正解なんてあるわけがないのです。みんなにとって正しいことが一つあると同じ方向に努力できた時代には、疑いも持たず、自動的に素直な吸収力を発揮すれば成功のルートに乗れた。記憶力が良くて、頭の回転が速い人を優秀なやつだと言っていましたよね。受験や就職で勝ち抜いてこられたのは、この能力でした。
 
僕が今、変えたいと思って闘っているのはこの「正解主義」、それから「前例主義」「事なかれ主義」の三点セットです。これが教育界に蔓延しているので何とか崩したいのですが、そこに共通しているのは、自分の頭と心で考えないこと、ではないでしょうか。(以下・略 1月8日朝日新聞)

2012/02/10

中途半端な『歩禅』

 ~たかが「縄跳びの縄」、されど・・~
 仕事が続くとゆっくり歩禅を満喫できない。これは当然の事であり、逆に別の幸せな時間を満喫しているとも言えない訳でもない。しかし、この寒風に向かうのは危険でもあり家人からも注意される状況にあるので歩禅からも遠ざかってしまう。しかし、無性に歩きたくなる時があるのは健康体の証しだろうか。
 広島の校長先生にお約束の資料を郵送する準備が出来たので歩いて行くことにした。郵便局を往復すると約2000歩である。そこから遠回りコースで帰ると5000歩にはなるので歩数計を意識して帰路のコースを考えながら郵便局に向かった。「歩きたい」心境になったからである。「田園コース」を頭に描いて帰路に着いて、ふと、老妻のいつもの苦言を思い出す。郵便局の単なる往復であればもう帰宅している時間である。心配するので遠回りして帰る旨を一報するために携帯電話を取り上げた瞬間のコール。びっくりしながら出てみると孫の声であった。
 学校で使っていた縄跳びが切れたので買って来て欲しい、との依頼である。急遽帰宅して目的のスーパーまで、今度は自転車で走った。結局、歩禅は不完全燃焼で総歩数は5000歩を僅かに超えただけであったが、自転車のペダルを踏む力も軽視できない。楽しくペダルを踏みながら用を足して帰宅した。
 翌朝のこと。

 新品の縄跳びを振り回しながら「行ってきま~す」と元気な声で登校して行った孫が帰宅するなり、おやつもそこそこに庭に出て縄跳び練習を始めるではないか。離れの部屋の障子を開けて見ていると興奮状態で喋り始めた。二重跳びは今まで1~2回しか跳べなかったそうだ。それが、「お祖父ちゃんに買って貰った縄跳びで跳んだら10回も跳べてしまった」、と嬉しい驚きの報告内容だった。更に回数を超えたいらしく懸命に跳び始めた。寒くなったので障子を閉めたが、雨戸の向こうでびゅんびゅんと回す縄跳びの音が暫くは続いていた。
 この現象は、たまたま、いや「丁度の成長時点」で跳べたのであって、縄が新品に変わったこととの『偶然の二重奏』だったのである。運動指導の経験者にとってはそんな選手の瞬間を多く見ている。しかし、孫にとっては「お祖父ちゃんが買ってくれた縄跳び」と言う枕詞が付随してしまったのであろう。
少年サッカーも同級生に誘われての遅い入部だったらしい孫は、ずっとベンチウォーマーだったらしい。しかし、昨年末頃から急に選手としてピッチに立たせてもらっていると親たちからは聞いていた。写真を見せて貰うだけでも「様になっている」動きに成長を感じ取ってはいたのである。「楽しく動け!」と声なき声でエールを送り続けていた大昔の指導者としては運動選手の自然体の成長過程でしかなかった。
 「縄跳び」の急速な進歩。一夜で、しかも縄が新品に変わっただけで成せる結果ではない。たかが1本の縄跳びの縄、されどやっぱり1本の縄である。つまり、その縄は単なる『きっかけ』なのだ。そんな小さな『きっかけ』を活かし続けることが進歩に繋がると確信している。やっぱり地道な普段の努力しか進歩への近道は無い。直接、孫に語ることは親に任せよう。祖父の任務としては、今までどおりに「声なき声」で応援し続けることにしよう。

2012/02/09

心の中に仕舞い込んでいた『感謝状』

~「生きる灯」に点火して頂いた恩人~
 2月7日にそれを渡すべき日がついにやって来た。
 このご夫妻と出会ったのが1963年5月。大学生として住みついた神奈川県高座郡寒川町で、酪農経営一家との出会いから親交は始まる。ご一家の中学1年生の長男が通う私塾での出会いに端を発した。小生の大学生アルバイト先での出会いである。以来、「この日」まで50年間弱の長期にわたって深い親交を戴いた。「この日」で終わった訳ではないが、心情的には「終止符を打たれた」のと同様になる。
 ご主人は1994年に既に他界されている。その奥様が去る2月1日に逝去なさった。訃報を受け取った瞬間、翌日(2月2日)から県外に出講する予定であったので葬送の儀式に対応できないとの不安が過った。次の瞬間、通夜と告別式の日程を知らされて不思議な心境になった。メモ書きを見詰める妻が、「嘘みたいですね」と呟いた。書き止めながらわが耳を疑った。小生が広島市に出講している間、遺体はご自宅に戻ってご親族とのお別れを惜しみながら待機する行程になっていたのである。斎場等の関係からであろうが、「天国でご主人が操作でもなさっている」かのような日程としての告知であった。妻の呟きは待機日程が、小生が広島から帰着するのを待っていただいているような状況下になっていることを驚いたからである。
 ご一家との50年間の思い出は語りつくせない。3人のお子さんに加えて「長男が出来た!」と歓迎されて以来、「妹と弟二人」の兄としてこの一家で「家族同様」の待遇を受けて大学生活を過ごすことが出来た。近所の方々には「家族以上だよ」と言われるほどに可愛がっていただいた。「お父さん・お母さん」との呼名も染み付いてしまうほどの至福の時間を過ごすことが出来た。
 九州での小生の結婚式にもご出席いただいた。小生夫婦に子どもが出来ると「お祖父ちゃん・お祖母ちゃん」と呼名も変化した。3人の我が子達を「本当の孫」と同様に可愛がっていただいた。我が子たちは成長して事情がわかるまでは「ホンモノの祖父母」と思い込んでいたほどであった。笑顔で語れる経緯がその事実を物語る。長女の結婚式には奥様がまだお元気だったのでご列席いただいた。
 そして、ついに「この日」がやって来た。
妻と二人で冬の豪雨の中を茅ヶ崎に里帰りである。冷たい雨中でも、告別式に参列できる満足感で心はポカポカであった。式場の遺影に向かうと恥ずかしながら自然に涙が頬を伝ってしまった。妻に差し出されたハンカチで涙を拭きながら、心の中に温存していた「感謝状」を開いた。
「お母さん、本当にありがとう。お母さん夫婦にお会いできた私は幸せ者でした。先に逝かれたお父さんと再会されたらこの感謝状を渡してください」と告げた。妻も泣いていた。自らの初めてのお産の立ち合いをしていただいた感謝の気持ちを遺影に向かって述べていたのだろう。お産の手伝いに上京する予定の九州の実母が到着するのが間に合わなかった。ご主人が産気づいた妻を産院に運んでいただいた。そして奥様はそのまま早朝から産院に詰めていただいたのである。当日は、小生は新採用教員としての辞令交付式であったために休暇は取れなかったのだ。走馬灯にはその他にも「感謝すべき実例」には枚挙にいとまがない程沢山のシーンが巡っている。感謝状は束にして書いても用紙が足りない。
 葬送の全ての日程を終えて湘南電車に飛び乗った瞬間からまた二人の涙が止まらない。会話も途切れがちであったが、「この日」に立ち会えた満足感が小生夫婦の涙を乾かしてくれた。
 19歳の小生に、「生きる力」の灯を点火して頂いたご夫妻が天国に召され終えた「この日」のことを肝に銘じた。この日のことは生涯忘れることはあるまい。そして、教わった「恩返しは不要。恩送りに精を出しなさい」の言葉を改めて思い出している新しい朝である。

2012/02/08

広島も寒かった!(3)

 ~教員研修に不可欠なモノは?~
 2月4日 教育実践・広島『響の会』立春セミナー
 広島『響の会』では、数年前から「教員(元・教員)以外の講師」を招請してその経営実践を提供してもらっている。大変興味のある人材が登壇され、教育界ではついぞ耳にしなかったような言語が使用され脳天を割られる様な発想に胸をときめかせる時間となっています。主宰者としても訪広が楽しみで仕方が無い。事務局から届いた情報によると以下のような実践です。(講師は敬称略)
 ① 平成21年2月7日 広島掃除に学ぶ会・顧問 岸本栄光(元・広島県警勤務)
 ② 平成21年6月13日 おたふくソースKK 社長 佐々木茂喜
 ③ 平成23年12月3日 板野紙工KK 社長 板野 護
 ④ 平成24年2月4日 株式会社カンサイ 社長 川本 司
 詳しくは事務局代表(広島市立庚午小学校長・山﨑幸徳)にお問い合わせください。
 『響の会』は、小生の呼びかけで「教員自主研究会」として神奈川県茅ケ崎市で創設し17年目を迎えています。広島市の他に静岡県浜松市や東京都立川市でも実践が続いています。中心的な活動は(創設市)神奈川県茅ケ崎市で展開していますがそれぞれの都市で、それぞれの思い入れで代表(まとめ役)を中心に独自の計画で実践されていて特徴がユニークなところが主宰者としても楽しみとなっています。いつでも、どこでも(教員であれば)開設できる気楽な研究会です。茅ヶ崎市では一般の参会者も年々増えているようで、すそ野の広がりを実感しています。
 今回の講話も「経営実践」の醍醐味に触れることが出来ました。教育公務員とは視点や観点が違うことは百も承知ですが、底流に息衝く「夢とロマン」には相違は無いと、今回も確認できました。
 目先の小利に翻弄されるようでは「人材育成」は出来ない。人材が育たない限り、企業も会社も学校も大きな成長は期待できないと川本氏の「海外での活躍」へのロマン講話から伝わるモノがありました。どん底状態の日本の中でも、遠い将来に夢を託して今日も真剣に社員と苦労に挑んでおられる氏の経営姿勢には多くの学びの収穫があったと確信しています。広島事務局のお骨折りに感謝します。
 教員の実践発表は新進気鋭の「2年目教員」の苦しい体験を本音で聴くことが出来ました。校長・教頭・主幹教諭・生徒指導主事等々の経験者の総力を借りて学級崩壊を免れることが出来た体験談には目頭が熱くなってしまいました。独りの教員の苦労を支えようと、語りかけられる教頭の一言には胸が詰まる思いとなりました。全校体制での取り組みが、更に大きな渦になって今後の学校経営に迫力が付くことと確信しつつ、大いに期待して助言をしておきました。
 若い世代への伝承は、どの業界でも貴重な使命です。新人教員の前向きな姿勢を支えることが「伝承する」作業の基礎基本です。発表者も、こんな小さな研究会での発表ではあったでしょうが、「自らの振り返り」としてのチャンスを校長から貰えたことを幸運と意識して、新年度も若さと情熱で子どもたちや保護者と向かい合ってくれることを、遠く茨城県からも祈っていたい心境です。
 今年も素晴らしい『立春セミナー』が広島市でも実践できました。関係者各位の努力と、身銭を切ってご参加いただいた教員各氏に心から敬意を表し感謝の意を添えさせていただきます。

2012/02/07

広島も寒かった!(2)


 ~授業の命は「子どもたちの視線と姿勢」~
 2月3日 広島市立庚午小学校・5年生英語授業(午前)~(午後)広島市立石内小学校公開研究会 
 子どもたちの視線は、「やっぱり良い!」。真剣な眼差しで向かい合う5年生の姿勢は「昔・せんせい」だったと言う持病が蘇ってくる(笑)。小学校での「英語学習」が本年度から本格実施されている。この学級でも担任の先生が苦労しているのだろう、と良く考えることがある。専門家としては同情こそすれ、批判や非難など全くない。教員稼業の宿命とは言え、拷問に等しい教育課程の新設ではないだろうか。
 「シャーペンて、英語では何と言うの?」を発端に、ホッチキスは?セロテープは?と矢継ぎ早に授業を流すのであるが、全く抵抗なく授業にのめり込んでくる姿勢には無者振いさえ覚える。学級経営がうまく出来ている証拠である。以前、授業観察した学級とは思えないほどの成長ぶりに担任教師のご苦労が偲ばれるほどだった。
 給食を戴いて校長先生に午後の会場校までお送りいただいた。
 新藤兼人氏(映画監督)の母校である。特設された部屋には母校への訪問の折りに書かれた色紙もある。大ファンだった小生には思いがけない天の恵みとも言える訪問校である。この小学校に指導訪問を開始してもう7年になるようだ。公開研究会への出講も6回だと紹介があった。と言うことは6年生が1年生の時点からの訪問である。全部の授業を巡視しながらも、6年生の授業・『言語・数理運用科』(=広島市独自版:教育課程)には見入ってしまった。そこには確かに「故郷・いしうち」を意識させる話題が真剣に交わされていた。子どもたちの学習姿勢は授業の命だ!
 広島市教委が発案した『言語・数理運用科』という学習領域には、昨年度のこの石内小学校の公開研究会でも「足が止まって」しまったことを思い出した。それにしても6年前の幼児に近かった児童が、地域の皆さんに見守られながら「話し合い」に興じる地点まで成長したことは感動でしか語れない。先生たち努力と地域の協力体制の素晴らしを実感した。偉大な映画監督が「自らの故郷」を舞台にして映画を製作された「望郷の念」が脈々と息衝いていることを現代の子どもたちが実証してくれている。この単元づくりに、もうひと肌脱いで全校体制で取り組んでもらえたら、「来年も行きたくなる」のだろうとほくそ笑んでしまった。【つづく】

2012/02/06

広島も寒かった!(1)

~外気は真冬、会場は真夏~
 2月2日 広島市立彩が丘小学校公開研究会
 大役は果たせたのだろうか?
 反省は〇〇でもできる??小生はホンモノの申年生まれ。だから「反省だけ」は上手である。以下の旅日記をご一読願います。
 何十回となく、この新幹線の旅人は通過したが「吹雪状態」の中を車窓の積雪を観察できるほどの徐行速度で運行する「のぞみ号」に乗車したことはなかった。岐阜羽島駅構内は横殴りに吹き付ける雪の中をホームの雪かきをする駅員さんの姿も直視できる速さであった。ほぼ1時間の余裕を含んで新幹線を選んでいたのが幸いだった。車内アナウンス通りに50分間遅れの広島駅到着。宿泊ホテルに送ってある荷物から講演資料を取って移動する予定が不可能になるハプニングである。まさに想定外であったが持参しているキャリーバッグ持って3分間で乗り換えることも老体には厳しい現実であった。お迎えの車が待つJR五日市駅にはお約束の時間到着であっても中身は空っぽ(講演の資料は不備)の状態となってしまった。
 学校に到着した時点から横殴り状況で雪の降り方が酷くなった。講演が終わった会場の外は銀世界である。会場校はかなりの坂道を登った位置にあるようだ。参会者の帰路を心配するほどの降雪になった。外気は真冬で会場は真夏。それはマラウィ共和国(アフリカ)からの教育視察団の参加もあり「真夏」のような熱気であった。久しぶりの英語によるスピーチも依頼されていたが単なる英語雑談となってしまったのも彼らの信愛の情を受け止めることが出来たからかも知れない。
読書指導と図書館学習。少年時代から「図書館大好き」人間だった小生には古の興奮を彷彿とさせられる演題でもあった。その分だけ興奮度も高くなったのか、今回も単なる独演会になってしまった。大いに「反省する」講演であった。
 早朝6時に家を出て、大役が全て終了してホテル到着が午後9時半を過ぎていた。かなり過酷な時程であったことは事実である。何せ、今回の旅程は始まったばかりである。後2日間の大役も待っている。浴槽にお湯を入れ終わると直ぐに飛び込んで全身を温める。そして、翌日の午前中にお請けしている「5年生対象の英語の授業」のデザインが頭の中を駆け巡る。体調不良では笑顔の授業も出来ない。
 浴室で歯磨きまで済ませてベッドに横になった。直ぐに眠ったようだった。目が覚めたのは通常より若干遅い5時前であった。いつものように全身運動をしてみると老体は無事だった。活動できるという確信が出来てホッとする。(つづく

2012/02/02

小気味よい新年の『滑り出し』(4)

~私の旅には素敵な『出会い』しかない~
 3年前の出会いを思い出す。校長先生に促され同行した一人の教員。鳥取県の小さな町立公民館での出会いである。町教委主催の「庭教育講演会」はその前年にも招請されこの先生と出会ったのは二回目の会場であった。開始前の時間(控室)に校内研究会への要請が目的で訪問されたのが最初であった。簡単な打ち合わせで訪問要請を受けて、その後は2年間を通して数回の学校訪問指導に当たった。
 トップリーダーの情熱が若き教師との出会いを演出されたように展開した。そしてメールにあるような「お誘い」をして、茅ヶ崎市にも数回足を運んでくれた経緯となった。出会いの歴史が今年までも続いている。
 その後、市教委の指導主事を拝命した氏に、小生からは何度となく激励の言葉を掛けたり、情報を提供したりすることで出会いの延長線はまだ延びていることになっている。今年は新年から再会出来た。直に会うことは殆ど無いが、こうして機会が再会を構成してくれる。成長する後輩にエールを送りながら檄を飛ばすのも老輩の役目であると意識を強くしたメールをここに紹介しよう。

1201241710便
角田 明先生
 あの日の東京での貴重な空間に自分が居合わせられたことを、本当に“縁”だと実感しました。3年前、研究主任新米の自分に温かく「茅ケ崎に勉強しにおいで」と声をかけてくださったことが、“角田教”入信を決定づけました。先生の「求めて学ぶことをしないと責任は果たせないよ。」というメッセージが、茅ケ崎へ向かう私の背中を押してくれたのです。『響の会』夏季セミナーの翌日、□□先生(当時の指導主事)に直接ご指導を仰ぐ時間までつくってくださいました。こうして先生のご配意の下で個人的なご指導を受けながら、そこには「人間は意識があれば変われる、自分もきっと変われる」と自分に言い聞かせる私がいました。
 あれから再び『響の会』に参加し、先生の大きさを肌で感じることができました。「笑って平気で人を切る、人切りの角田」とまで言われた先生が、どうしてこのように人の心に魅力的に映るのか。二次会の席での皆さんのお話を聞きながら、厳しさの裏に広がる富士の裾野(今は筑波山かもしれませんが・・・)のような優しさを感じました。
 指導主事2年目が終わろうとしています。私自身常に自分に言い聞かせていることがあります。それは、「常に初心」。それは、他者を指導することの責任の重さから、自分自身が未熟であることを常に問い続けたいという思いです。先生は、「偉くなってやりたいことがある」「偉くならないとやれないことがある」とおっしゃいました。自分にとって今やりたいとことは何だろう。ここがまだ見えていない自分が居ます。
「子どもを変えようとする前に自分が変われ」「与えた教育は取り戻せない。教育に責任を持て。」等、先生からいただいた刺激的なメッセージ。実は当たり前に教師が持たなければならない感性だと思います。私は本市の子どもたちのために、このメッセージを本市の先生方に今一度意識してもらうことを今の自分の責任として受け止め、新しい年を歩んでいきたいと思います。「今という瞬間に全力を尽くすこと」を継続する。次回先生にご指導いただく時には、1月21日の過去の自分から、一回り成長した自分でお目にかかりたいと思います。今後とも、ご指導よろしくお願いいたします。 ▼▼市教委 ◇◇◇◇
                        
 今日から5日まで広島市に出講である。6時15分の特急電車で上野駅、そして東京駅から新幹線を乗り継ぐと、途中の関ヶ原(米原駅周辺)付近の積雪が少々心配ではあるが、正午直前に広島駅に到着する予定である。既に送り届けてある荷物から講演材料を取り出して山陽本線で五日市駅まで移動することにしている。
 本年度最後で、最大の業務である。どんな「出会い」が待っているのか。加齢の勢いを収束させるような出会いに期待しながら(笑)出かけることにしましょう。従って、暫くの間当ブログは休刊です。どちらさまも風邪など引かれずにお元気でお過ごしください。

2012/02/01

久しぶりに使う「脳の一部」に異変(笑)

~忘れ行くモノは一つだけではない!?~
 こんな筈じゃない。
 最先端のパソコンソフトは言い難い程に素晴らしい。英文タイプを駆使した大学生時代を彷彿とさせるべく英字モードで(久しぶりの)英語の論文作成に取り掛かってみた。思考回路は順調(?)なのでその流れに乗せて英字を打つ(予定)ことにした。
 この作業は、『我が泥縄人生』の悪あがきである。2日に講演する小学校では「英語で」講演することになった。行きがかり上持ち時間80分間の前段の15分間を「英語での講演」となったのである。そのこと自体には何の問題も無い。自らも錆びつき始めている「話す英語」が気になり始めていたから意欲的にお請けしたのである。読書指導に関わるエッセイでも書いておけば、当日の資料として活用できるだろうとの「軽いノリ」でパソコンに向かって愕然とした。スペルチェック等の機能がやたらに活躍してくれるではないか。つまり、英単語も(?)忘れ去る言語の枠組みにどっぷりと嵌っていたことを機器が無言で教えてくれるのである。このソフトは文章表現の違和感も感じ取るらしい。アンダーラインがやけに多くなる。ソフト自身が驚いているような気がして、ブラインドタッチも小休止に至ってしまった(笑)。
 錆び行く老脳への刺激。
 必要性を十分に理解している老脳の保有者である。従って、今回の行為は言わずもがなの無謀な挑戦である。しかし、目標の達成は厳しい。英単語は非日常的使用言語であるので当然とは言え、反対に日進月歩するソフト開発(スペルチェック機能等)の目覚ましい進歩には「驚嘆」の一語である。老脳から正しいスペルの英単語が消滅するのと反比例に、恐るべき機器ソフトの発展とは皮肉ではないかい?いや、「我が時代」の終末症状を実感している、とでも締めくくった方が良さそうである。しかし、その恩恵を受けたい老脳が懸命に取り組んだことだけは読者諸兄にご理解いただきたい。いかがなものでしょうか?
 パソコンソフトの支援で出来上がった資料を使っての講演については、後日、謹んで(笑)、当ブログにてご報告することをお約束します!!

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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