2012/02/14

30年前の『記憶』

~そんなにモテたいの?~
 もう45歳になっている。
 そんな計算をしながら「負の再生産」というお気に入りフレーズを思い出してしまった。決して前向きな表現ではないし、閉鎖性が強く沈み込んでしまいそうな日本語なので決して好みではない。しかし、「お気に入り」なのである。その理由は簡単である。最近の「子育て」に関する教育講演会ではもっぱら多用するほど頻度が高いと言うことである。
 「そんなにモテたいの?」と詰め寄ったあの女子中学生も(母親になっていれば)、中学生ぐらいの子どもの親となっている計算が成立する。どんな親になって将来の日本を担うべき若者を育てているのだろうか。この時期(「バレンタインデー」の言葉がテレビコマーシャルに登場する日々)になると当時の女子中学生の言葉を思い出すのである。
 教員としての屈辱感なんていう軽いモンじゃなかった。
 無法地帯のような中学校では、飴の包み紙の散乱やガムの吐き捨てを咎めることも出来ない学校だった。文字通りの生徒指導困難校であった。そこに、ここぞチャンスとばかりに「チョコレートの乱舞」が入り込み、「モテる」と誇示したい男子生徒は授業中でもチョコを口に入れたままだった。注意する教員には「チョコが欲しいんだったら欲しいと素直に言えよ」「チョコも貰えないセンセーだったのか」と、優しい教員には食って掛かる光景は決して珍しいことではなかった。毅然として指導に向かう小生に近寄って来た普通の女子中学生が発した言葉がこれだったのである。この頃から日本語の乱れが顕著になったと考えている。つまり、今の親世代あたりから目上も親も区別を失していたのである。
 人生が黄昏に近づくと、「そんなモン、どうでも良いことジャン」と一笑に付す話題である。女子中学生にとっては「チョコレートを持参する」ことは「校則を破っても」果たしたい必死な行為であったらしい。小生は「きまり」の順守派の旗頭だったので当時の女子中学生からは憎いほどイヤなセンコーだったのかも知れない。
 おかしいと思いませんか?
母親が、「チョコを貰えない息子」のためにチョコを買って来て慰めたという笑い話(当事者にとっては深刻?)を聞いた時点では背筋すら寒くなった。
 2月14日という日だけのことを言うのではない。「●●の日」という特設には特別の意義が付随するはずだ。チョコレートで経済状況を不況から好況にでも換えられるとでも言うのか!コマーシャリズムの「煽動」に乗せられる風潮が多くありませんか?「子どもの言いなりになる」親(教員も)が増加したら誇りある我が国に咲いた「道義心」の花は枯れてしまいませんか?
 たかがチョコ?されどチョコ!
 何事もこの論理で論破され、須らく済し崩しにされることが日常的になってしまう愛すべき日本を憂うばかりである。国民の祝祭日も形骸化される国民意識の体たらくには孫世代への危機感ばかりが募る。
 この憂鬱病は、『成人の日』が近づくと増幅する。小生の人生観は、もはや厭世の様相を呈してしまった。2月14日より(現時点では)3月11日への国民意識を高める努力がオトナ世代には求められていると筆無思うのですが、読者の皆さんのお考えはいかがなモノでしょうか。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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