『つのだのみ』(=角田に頼む)なんて日本語は存在しない。
市教委勤務時代に当時の教育長さんによってこの言葉が造語されたらしい。その時点では殆ど意識したこともなかったし、氏の本意も理解する余裕も無かった。その後になって、知れば知る程「烏滸がましい」表現ではないか、と本気で照れくさくなったことだった。
妻の従姉の娘さんからメールが入った。
長男の高校受験が直前に迫ったとのこと。「電話で励まして欲しい」との依頼であった。小生が電話したからと言って受験の効能があるなんて全く考えたことも無い。しかし、「頼む」側からは苦しい時の神頼みの心境に似ているのであろうか(=神様に対して非礼であることは承知している)。
思えば、この受験生が幼児の時代に従姉の家で初対面している。その時、何をして遊んであげたのかは全く記憶していない。しかし、その少年はずっと覚えていたらしい。その後何年も経って湘南(東海道本線)電車でバッタリその母子と会った。こちらは気づかなかったがその少年は気づいて母親に知らせた。同じ駅で降車すると言うので懐かしい思い出話をしながら一緒に改札口を出て別れた。そして、それ以来また会うことは殆ど無かった。再会は少年が5年生になった頃であった。
野球少年に成長した少年との再会には理由があった。小生の教え子がプロ野球選手と言う要因が、より「親近感」となって親しく会話をすることになった。そして、憧れのプロ野球選手との面会を実現させてあげることができた。
その少年が高校受験だそうだ。
従姉もお祖母ちゃんとしての愛情が強く、高校受験への期待と不安が募っているのだろうか。孫の激励手段を娘さんに伝じたようである。プロ野球選手を育てたという小生の実績に憧れを抱いている孫への激励は小生に頼むことがベターとの結論になったのかも知れない。成長した中学生とは僅かな関わりしかないのだが「激励の電話依頼」の頼みが届いたという訳である。少々照れもあるが、「頼まれて」拒むのも大人げない。
そして受験日当日(16日)の朝6時。依頼の激励電話をした。功を奏すれば嬉しいが、小生の電話位での大願成就はあり得ない。受験生当人の日常の努力だけがその結果を産むのである。このことをしっかり理解して、3年後の大学受験に挑んで欲しいモノである。
小生も、この可愛い受験生が合格するように「神頼み」をしたくなった(笑)。
妻の従姉の娘さんからメールが入った。
長男の高校受験が直前に迫ったとのこと。「電話で励まして欲しい」との依頼であった。小生が電話したからと言って受験の効能があるなんて全く考えたことも無い。しかし、「頼む」側からは苦しい時の神頼みの心境に似ているのであろうか(=神様に対して非礼であることは承知している)。
思えば、この受験生が幼児の時代に従姉の家で初対面している。その時、何をして遊んであげたのかは全く記憶していない。しかし、その少年はずっと覚えていたらしい。その後何年も経って湘南(東海道本線)電車でバッタリその母子と会った。こちらは気づかなかったがその少年は気づいて母親に知らせた。同じ駅で降車すると言うので懐かしい思い出話をしながら一緒に改札口を出て別れた。そして、それ以来また会うことは殆ど無かった。再会は少年が5年生になった頃であった。
野球少年に成長した少年との再会には理由があった。小生の教え子がプロ野球選手と言う要因が、より「親近感」となって親しく会話をすることになった。そして、憧れのプロ野球選手との面会を実現させてあげることができた。
その少年が高校受験だそうだ。
従姉もお祖母ちゃんとしての愛情が強く、高校受験への期待と不安が募っているのだろうか。孫の激励手段を娘さんに伝じたようである。プロ野球選手を育てたという小生の実績に憧れを抱いている孫への激励は小生に頼むことがベターとの結論になったのかも知れない。成長した中学生とは僅かな関わりしかないのだが「激励の電話依頼」の頼みが届いたという訳である。少々照れもあるが、「頼まれて」拒むのも大人げない。
そして受験日当日(16日)の朝6時。依頼の激励電話をした。功を奏すれば嬉しいが、小生の電話位での大願成就はあり得ない。受験生当人の日常の努力だけがその結果を産むのである。このことをしっかり理解して、3年後の大学受験に挑んで欲しいモノである。
小生も、この可愛い受験生が合格するように「神頼み」をしたくなった(笑)。
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