~68歳になります~
『遺児』という言葉にも違和感はありませんでした。
小学校6年生の時、九州から「靖国神社参拝遺児団」として東京まで来ました。何の意味も解らないままに「自らの人生」の歴史の1ページに刻まれています。戦死した父の思い出等はありません。しかし、「東京まで行ける」という機会は、友人の羨望の矛先にありました(笑)。
昭和19年(1944)生まれの「母子家庭」育ちの男児には、進学にも就職にも大きなバリアーがあったことは事実です。
8月15日。この日を意識し始めたのは高校生だったでしょうか?我武者羅に各種のバリアーを強引に超えて次兄の住む神奈川県に飛び込んだのが高校卒業の18歳の春でした。大学生活を終えて教員になって、初めて帰省しました。独身の息子のお盆の帰省のお土産は親孝行の真似事でした。母親を泣かせてみたかったのです。持参したのは初めて戴いた「賞与(=ボーナス)」の袋でした。当時は袋に現金が入っていました。苦労した母への「恩返しの真似事」として、封を切らずに持って帰ったのです。喜ぶ母の顔を見たい、只一心でした。23歳の夏の出来事でした。以降の展開は既にご存知の方も多いのでここでは省略しましょう。
終戦直前に誕生した「赤ん坊」も68歳になります。武道館の全国戦没者慰霊祭をテレビで観る度に「記憶のない」思い出を弄ることの辛さを感じるのです。終戦記念日に向かって、韓国や中国の動きも真意がわからない世代です。積み残し問題として次世代に慰留されたのだろうか。
「お祖父ちゃん」と呼ばれる身になって、歴史の「ホンモノ」を知らずに生きて来た日本人としてとても心細いと感じるばかりです。江戸時代までの歴史に関しての学習から「日本史」「世界史」と深まるべき歴史学習が、『戦争』という事件の障害物で授業も殆ど記憶に残らないつまらない授業になったことを記憶しているだけなのです。教科書論争を期待しているのではありません。ホンモノの歴史的事実を後世には伝える義務感が欲しいモノです。個の「語り部」で戦争を語ることで済むモノでもないでしょう。
同輩諸兄の感想をお伺いしたい終戦記念日の翌日の早朝です。
早朝歩禅記 04:30~05:20【5900歩】
湖面を飛び交う鴨の姿が見えますか?クリックされると大きく見えます。夜明けの時刻が随分遅くなっています。家を出るときはまだ真っ暗でした。秋の虫の鳴き声が・・・・いつの間にか!
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