2012/08/17

責任感と義務感の協奏


~丸投げの『宿題』に思う~

 「お祖父ちゃん、自由研究の事で聞きたいんだけど・・・・」と、5年生の孫が電話口で話し始めた。一通り聞いてしまった後で、応えた。

 教員時代でも考えていた。「自由に」「研究する」ことが、生徒にとってどれほどの難題であるかを課している教員サイドには理解できているのだろうか、と。「何でも良いから」との励ましの言葉が頭脳を混乱に陥れるのだと感じていた。社会科や理科を担当する教員集団も提出された研究品を評価するのも違った難題では無かっただろうか、とも。

 孫の小学校では、「自由研究」の他に選択領域があるようなので、追加説明を要求した。「自由作文(=学校からの指定テーマが3本ある)」と「読書感想文(=課題図書以外でも読んだ本なら何でも良い)」があるとのことが判明して、祖父ちゃんとしてもホッとした。

 作文の3つのテーマは、秋のコンクールに連動しているようだったので、孫にはこの領域が相応しいと判断して、アドバイスをすることが出来た。電話の向こうでは「自由研究」に拘りがあったようだった。パソコンで調べてプリントアウトすることが研究だと思い込んでしまうほど家庭にもパソコンが普及しているのだとしみじみ「時代遅れ」を感じてしまった。

 学校教育の傲慢さは、時代が変わっても変わっていない。宿題の意味と意義が追究されていない教員は、「何でもいいからやって来い」流儀で夏季休業中の「課題を」押し付ける。保護者まで振り回されるような課題では本来の「宿題(=学習者のための課題)」の意義がどこかへ行ってしまう。

 孫の通っている小学校には、課題に対する説明の「教師の義務感」を受け止めることが出来て安堵した。つまり、選択できる余地を説明する義務感が顕在していた。学習者も選択した課題を果たそうとする責任感が湧いてくるであろう、と確信できたのである。

 研究する醍醐味を理解させるための指導は難しい。だから研究者が育っていない。研究する行為が「変人扱い」される文化は、幼い日々の「学び方を学ぶ」体制作りが成熟していないからである。自由研究と言う課題を与えただけでは研究することへの嫌悪感は育つだろうが、旺盛な研究心は育たないということではないだろうか。元教員の自省の弁であるとご理解いただきたい。

早朝歩禅 04::30~05:20【6000歩】
お盆も明けて散歩人の復活。
すれ違いざまの会話は「今日も暑くなりそうですね」であった。
帰路に上がってきた「お天道様」の写真です。
ホントに今日も暑くなりそうです(笑)。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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