2013/01/02

年頭の挨拶いろいろ

 ~電話の声で判断できず~

 「もしもし、●●です」と、聴き慣れない声にお名前が聞き取れずに聞き返す小生に、「先生ですか?」と畳み掛けられて、再び「えっ?そうですが・・」と返すと、電話の向こうでも「●●です」と繰り替えされた。

 声の主はその後判明したが、その変貌ぶりに愕然とした。老妻が茅ヶ崎市の自宅で20年ばかり書道教室を開業していた頃のお弟子さんである。お弟子さんとは言え、年齢的には老妻より5歳ぐらい若い女性である。ご夫婦の問題やお子さんの結婚問題に振り回される度に、書道のお稽古より「愚痴」話を聴いてあげる時間で過ぎてしまった、と老妻の「愚痴」を聞いたことがあった。

 ご主人は旨い寿司を握る職人さんで職場の同僚と何度も食べに行った仲である。カウンターの向こうで夫が寿司を握り、接客は妻がてきぱきとこなす店内は時として同行者が同席できない程に繁盛していた。能天気な小生には「理想的な夫婦」としてしか映っていなかった。

 どうして?解せない展開は「坂を転げ落ちる」速度になり、離婚と家族離散まで到達してしまったようだ。「お習字を習って店内の寿司メニューを手書きする」との熱い意志で老妻の書道教室の門を潜られたのがきっかけだった。

 電話の内容は、老妻が投函した年賀状のお礼と年始の挨拶だったそうだ。

 寿司店の廃業から苦難の人生となった彼女の運命は、老妻にとっても例のない非業になった。不幸にも癌が発見され入院された。夫も子ども達も面会にも来てもらえない状況に老妻も心痛していた。お付き合いが今でも続いていたことを再認識した。

 幸いにも「病魔からも遠ざかった」との情報だったらしい。商売繁盛で華やかだった頃の、美貌と元気ぶりの彼女しか記憶にない小生には同一人物として電話の対応が出来なかった。電話が終わっても老妻との話題は彼女のことだった。語り続けながら「人一人の運命」なるものを感じ入ってしまった。快復の暁には、当地・土浦まで訪問するとの約束が出来たようだ。その日の実現を小生も待ってあげたい心境になった。

0 件のコメント:

コメントを投稿

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

フォロワー