たった1枚の葉書の筈が、内面まで波紋が及ぶのが年賀状である。小さな「自分史」を紐解く思いになるのも年賀状である。高齢者になると届いた年賀状には歴史が詰まっているようなモノも少なくない。
一言コメントを読みながら年賀状の発信人を回想する。小生には36年間の教員生活がある。そこで接した大勢の卒業生からの年賀状は怖い程哀しくて楽しい光景を蘇らせてくれる。卒業生の筆頭は還暦を迎えた年齢である。間もなく40歳になる卒業生がシンガリ。情報満載の年賀状に時間の経つのを忘れる時間となるのはいつしか「恒例」となっている。
結婚を機に苗字が変わった卒業生(=殆どが女子)を、「名前」だけで判断できることが結構多い。つまり、呼び名や愛称に繋がるので記憶に残っているのかも知れない。また、写真入りで届く年賀状でも、30年も経ていると全く初対面の人物に映るのは性差が無い(笑)。
しかし、コメントが決め手になることが多い。
今回の1枚はどうしても「決め手」に事欠いていた。「どこの(学校の)卒業生だろうか?」と勤務校を振り返り見当はついた。しかし、「お祖母ちゃんになった」のコメントを辿りながらも人物の特定まで到達できなかった。礼儀上の返信用年賀状を作成し終えても決着がつかない。タイミングよく電話のベルが鳴った。妻が出たが、受話器は即、小生に回された。電話の向こうでは赤ん坊の泣き声が聞こえる。「もしもし、○○です。」と当時の愛称が飛び出した。「○○ちゃん?あの○○ちゃんなのかい?」と意味不明な対話で静かに進んでいた。確証を得る「思い出事件」が言葉となって飛び出した。歴史の1ページが実に鮮明に開いた。
もう、お祖母ちゃんになる年齢になっているのか!卒業して42年も経っている。新進気鋭(?)の担任教師だった小生には、この事件は忘れたくても忘れられない。その事件以来、一人の教師と一人の生徒とは人間関係に亀裂を生じ、断絶状態のままで数回の同窓会でも再会することはなかった。
何かあったのか?住所変更の知らせも出していない転居先に年賀状が届いた。
電話の向こうには成長した大人の言葉が弾けた。目頭が熱くなった。言葉が途切れがちになりながらも「思い出事件」に触れた。青年教師と高校2年生の女生徒の間には思い込みと言う誤解が大きなバリアになっていたようだった。孫の鳴き声を愛子ながら淡々と思い出を語る声に、「時が人を育てる」と実感した。
届いた年賀状の中に、当時の○○ちゃんの仲良し友達(二人)からも年賀状が届いていることに気が付いた。電話の声で、中学2年生のままに止まっていた蟠りをきれいに溶かしてくれていた。偉大なるものは「時」なり!!
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