2013/01/04

思いがけない「年賀状」

 ~ひとりの「歴史」を紐解く~

 たった1枚の葉書の筈が、内面まで波紋が及ぶのが年賀状である。小さな「自分史」を紐解く思いになるのも年賀状である。高齢者になると届いた年賀状には歴史が詰まっているようなモノも少なくない。

 一言コメントを読みながら年賀状の発信人を回想する。小生には36年間の教員生活がある。そこで接した大勢の卒業生からの年賀状は怖い程哀しくて楽しい光景を蘇らせてくれる。卒業生の筆頭は還暦を迎えた年齢である。間もなく40歳になる卒業生がシンガリ。情報満載の年賀状に時間の経つのを忘れる時間となるのはいつしか「恒例」となっている。

 結婚を機に苗字が変わった卒業生(=殆どが女子)を、「名前」だけで判断できることが結構多い。つまり、呼び名や愛称に繋がるので記憶に残っているのかも知れない。また、写真入りで届く年賀状でも、30年も経ていると全く初対面の人物に映るのは性差が無い(笑)。

 しかし、コメントが決め手になることが多い。

 今回の1枚はどうしても「決め手」に事欠いていた。「どこの(学校の)卒業生だろうか?」と勤務校を振り返り見当はついた。しかし、「お祖母ちゃんになった」のコメントを辿りながらも人物の特定まで到達できなかった。礼儀上の返信用年賀状を作成し終えても決着がつかない。タイミングよく電話のベルが鳴った。妻が出たが、受話器は即、小生に回された。電話の向こうでは赤ん坊の泣き声が聞こえる。「もしもし、○○です。」と当時の愛称が飛び出した。「○○ちゃん?あの○○ちゃんなのかい?」と意味不明な対話で静かに進んでいた。確証を得る「思い出事件」が言葉となって飛び出した。歴史の1ページが実に鮮明に開いた。

 もう、お祖母ちゃんになる年齢になっているのか!卒業して42年も経っている。新進気鋭(?)の担任教師だった小生には、この事件は忘れたくても忘れられない。その事件以来、一人の教師と一人の生徒とは人間関係に亀裂を生じ、断絶状態のままで数回の同窓会でも再会することはなかった。

 何かあったのか?住所変更の知らせも出していない転居先に年賀状が届いた。

 電話の向こうには成長した大人の言葉が弾けた。目頭が熱くなった。言葉が途切れがちになりながらも「思い出事件」に触れた。青年教師と高校2年生の女生徒の間には思い込みと言う誤解が大きなバリアになっていたようだった。孫の鳴き声を愛子ながら淡々と思い出を語る声に、「時が人を育てる」と実感した。

 届いた年賀状の中に、当時の○○ちゃんの仲良し友達(二人)からも年賀状が届いていることに気が付いた。電話の声で、中学2年生のままに止まっていた蟠りをきれいに溶かしてくれていた。偉大なるものは「時」なり!!

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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