小生は教員時代の全ての学校で運動部の指導者であった。最近の世論が妙に重く迫ってくる。世論を騒がせている「部活動」は、その殆どが運動部に関わっているとなると、我がちっぽけな教員生活の史上にも思い当たることが多い。
最後に指導した生徒とつい先日、会って話をした。
新春教育講演会終了後の懇親会の席上である。彼は39歳である。25年前の部活動での思い出を語り始めた。参会者の数名が車座の形になってビールを注ぎながら話が進んだ。「角田先生はどんな先生だったか?」のお決まりの質問が飛んだ。「高齢者の小生」しか知らない参会者にとっては「現職時代の映像」を再現してもらうためには格好の相手である。
彼が中学2年生までの指導者であり、3年生になった4月には人事異動で指導から離れてしまった。その事態での「指導への思い」を彼は多く語っていたようだ。教員は定期異動がある。どんな条件付きであろうが「異動」ではどうにもならない。その悲哀を彼が語っても、それは人情論しかならないが妙に納得顔で車座は盛り上がってしまった。
教育の世界でも「指導者が交替する」ことは避けられない。それはお互いの試練でもある。意に添う指導者ばかりではない。意のままに動かせる生徒ばかりでもあるまい。エゴイスティックな思惑だけで自我を通すことは危険だからである。
この部員が在籍した中学校に小生は11年間も勤務した。学校長に転勤の希望を差し止められた経緯もある。11年間も同一職場に居ると、良くも悪くも勝手気ままな言動が増える。自意識が無いところが怖い。そこには正当では無い筈の正当論が成立して、他者からの正当な意見が通じなくなってしまう。教育の中で最も戒められなければならない「利己的言動」が罷り通ってしまうようになる。人事異動はそこに風穴を開けて風通しを良くする行為なのである。そこを捻じ曲げるような学校運営体制にこそ「指導のメス」は必要だと回顧している。
体罰も体罰にならない私見が通ってしまい、矯正能力を有しない教育者集団が育って外部からの視線までも塞いでしまうようになる。指導を受けている生徒や保護者が泣き寝入りの状態に追い込まれる。閉塞状態が「自ら命を絶つ」事態になるまで続いていたことは、関係者は真剣に考えねばなるまい。それが、世論への回答になると確信している。「教育界ばかりが風当たりが強い」と僻んでいるようでは足元の子ども達に対して正対すら出来なくなってしまう。
卒業生とビールを酌み交わし懐古ばかりしているようでは卒業生の成長をも阻んでしまうかもしれない。体罰には時効はない。教育界しか知らない小生には、教育界への回顧も多い。
0 件のコメント:
コメントを投稿