13-10-07 『新聞記事』を読んで
我が国の「文化」を支えると表現しても過言ではない最高の賛辞がしばしば使用され興味関心のあるその領域・分野の国民の視線が集中して想定外の言動に移る。最高の賛辞を貰えないわが身への愛おしさを吐露しているモノではない。最年少でも最年長でもその結果はその当事者の研鑽の途上での向上心を軽視は出来ない。だからこそ、心からの祝福を制限してはいけない。
当方が余計な思案を巡らせてしまうのは??
最年少で到達した『最高峰』が、そのまま自身の最高峰となってしまうことを実証した多くのアスリートを知っている。中学生や高校生の「発展途上」の人生で、周囲の称賛に酔ってしまうことだけはどの若者たちにも避けさせたいと思うのは薄っぺらい人情論だろうか。
ホンの一例ではあるが、「甲子園(=高校野球の殿堂)」での活躍が、まるで今後の人生を終わるまで保障されたかのように持て囃され「プロ野球(=職業=生業)」の道を選ぶ選手が多い。「夢心地の春」気分のままで努力を怠ったままで「戦力外選手」として通告されるまでの楽園生活を過ごしてしまう。「我が人生の目標を失した」選手は枚挙にいとまがない。高校生として頂点に立ったことが、次の人生のステージに強いエネルギーをもたらす様な「人生勉強」も叩き込むことも指導者には要求したいのである。向上心を支える努力する気持ちまでが慢心で緩みに誘われてしまう。最年少記録の保持者が、たゆまぬ努力を講じて最年長記録の保持者になることを期待するのは、蚊帳の外に居る曲者・評論家の小生の勝手な期待なのだろうか。
人生は長くなってしまった。信長の時代は50年だったらしいが、現時点では更に30年も延びてしまった。そんな時世を生き抜くためには「定年退職」してからのエネルギーも必要とされるのである。二十歳前に燃え尽き症候群の軍団があちこちで堆積されれば「使用済み核燃料」と同様に時代のお荷物となってしまう。こんな取り越し苦労も老婆心からだろうと一笑されそうだが、言っておきたいのである。
同日の同一新聞の記事にも注目した。
読者の注目を呼ぶべく設定されている『ひと』と言う欄に冒頭の賛辞がのべられているが、『天声人語』というコラムでは同一人物を主人公として論述しながらも「観点の違う」文章表現であることに違いを発見した。この新聞のコラムは非常に著名である。大学入試にも出題されることでも識見の高さが証明されているほどである。美辞麗句で主人公を褒めている箇所はない。事実と努力の経緯を述べながらコラムの読者を「学び」に誘導する表現には舌を巻いてしまった。(1064)
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