2013/10/13

他人事に考えていた「仏教のしきたり」



 子どもは1人。孫は3人。曾孫は5人。子にも孫にもそれぞれ配偶者がいるので総勢11人になる。「七回忌」法要の主人公2人の至近直系の参列者である。本堂で副住職の読経の後、法話を聴いて帰宅した。

 若い副住職であるが、短い説法に参列した我が一族は惹きつけられてしまった。

 どうしたら幸せになるのか、と民が僧に問うと、僧は「良いことを行いなさい」と答える。しかし、民は「良いことがどんなことかがわかりません」と、更に問うと、僧は「良いことには後悔はありませんが、悪いことをすると後悔します」と答えた、と説法は閉じた。

  説法を聴きながら、この「ことば」(=色紙)を思い出しましたのでご披露しましょう。

 10分間も無い短い説法だったが6歳の孫も小学生の孫たちもその間は、静かな語り口に私語も無く聴き入ったのは感じ入るモノがあったのだろう。ふと、「一日一善」という言語を教わった遠き昔の日々を思い出した。小学校5年生だった。級友との戒めの合言葉が「一日に1つだけでも善い行いをしましょう」だったからだ。

 その後、帰宅して賑やかな昼食を終えて楽しい半日を過ごして二人の娘たちはそれぞれの予定に従って自宅に帰って行った。

 9時過ぎに、いつもより遅い入浴を済ませて床に就く。

老妻が徐にお礼を言い出した。老夫も神妙に耳を傾ける。若い日々には、今日のような仏教のしきたり(=法要等)への参列には気乗りがしなかったのに、小さな一族が盆や正月とは違う時期に参集すると言う意義がとても感動的だった、との旨を老妻は語り始めた。老妻はきょうだいがいない。一人っ子で育っている。3人の子どもたちを産んだ。その子供たちが孫を連れて時ならぬ時期に参集することの重さを感謝の気持ちに換えて語ったのだと考えながら聴き入った。

 冗談半分に、老夫が「夫婦そろって次回のお役目を果たせる約束はない」と伝えると、「同居する長男一家はじめ嫁いだ娘たちが協力して執り行ってくれるでしょう」との結論らしき考えを老妻は返してきた。

 古い習わしやしきたりに「振り回される」と考えた日々には、その本質を追究する心が宿っていなかったんだろうなぁ~」と考えながら目を閉じた。「天国の両親も安心してもらえただろうか!?」と、思いを馳せている内に睡魔に襲われた。

無事に果たせた法事の責任感が心地よい眠りに誘ってくれたようだった。
 
 
 
 
 
 

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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