子どもは1人。孫は3人。曾孫は5人。子にも孫にもそれぞれ配偶者がいるので総勢11人になる。「七回忌」法要の主人公2人の至近直系の参列者である。本堂で副住職の読経の後、法話を聴いて帰宅した。
若い副住職であるが、短い説法に参列した我が一族は惹きつけられてしまった。
どうしたら幸せになるのか、と民が僧に問うと、僧は「良いことを行いなさい」と答える。しかし、民は「良いことがどんなことかがわかりません」と、更に問うと、僧は「良いことには後悔はありませんが、悪いことをすると後悔します」と答えた、と説法は閉じた。
説法を聴きながら、この「ことば」(=色紙)を思い出しましたのでご披露しましょう。
10分間も無い短い説法だったが6歳の孫も小学生の孫たちもその間は、静かな語り口に私語も無く聴き入ったのは感じ入るモノがあったのだろう。ふと、「一日一善」という言語を教わった遠き昔の日々を思い出した。小学校5年生だった。級友との戒めの合言葉が「一日に1つだけでも善い行いをしましょう」だったからだ。
10分間も無い短い説法だったが6歳の孫も小学生の孫たちもその間は、静かな語り口に私語も無く聴き入ったのは感じ入るモノがあったのだろう。ふと、「一日一善」という言語を教わった遠き昔の日々を思い出した。小学校5年生だった。級友との戒めの合言葉が「一日に1つだけでも善い行いをしましょう」だったからだ。
その後、帰宅して賑やかな昼食を終えて楽しい半日を過ごして二人の娘たちはそれぞれの予定に従って自宅に帰って行った。
9時過ぎに、いつもより遅い入浴を済ませて床に就く。
老妻が徐にお礼を言い出した。老夫も神妙に耳を傾ける。若い日々には、今日のような仏教のしきたり(=法要等)への参列には気乗りがしなかったのに、小さな一族が盆や正月とは違う時期に参集すると言う意義がとても感動的だった、との旨を老妻は語り始めた。老妻はきょうだいがいない。一人っ子で育っている。3人の子どもたちを産んだ。その子供たちが孫を連れて時ならぬ時期に参集することの重さを感謝の気持ちに換えて語ったのだと考えながら聴き入った。
冗談半分に、老夫が「夫婦そろって次回のお役目を果たせる約束はない」と伝えると、「同居する長男一家はじめ嫁いだ娘たちが協力して執り行ってくれるでしょう」との結論らしき考えを老妻は返してきた。
古い習わしやしきたりに「振り回される」と考えた日々には、その本質を追究する心が宿っていなかったんだろうなぁ~」と考えながら目を閉じた。「天国の両親も安心してもらえただろうか!?」と、思いを馳せている内に睡魔に襲われた。
無事に果たせた法事の責任感が心地よい眠りに誘ってくれたようだった。
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