2010/12/18

真の「体力」とは?

 ~「車」と子どもの体力~
 母親らしい運転手が運転する車から高校生らしい若者が駅の送迎レーンで降りる。電車に乗り換えて通学するのか。口には朝食らしいモノが入ったままに駅の改札口に向かった。
 小学校の近くに高級車が止まって誰かを待っている様子だ。校門を出たランドセル姿の児童がその車に向かって走り出す。乗り込んだと同時に車は自宅とは反対の市街地に向かって走り去った。
 21世紀は完璧な車社会。この時代に生を受けて人間となる。生まれた時は、既に「車が必需品」の社会。歩いたり走ったりする機会が少なくなってしまうのは仕方がないことなのかも知れない。
 這えば立て 立てが歩め の親心
 人間として生まれたからには「歩く」ことは必然のこと。歩くことを覚えた赤ん坊が「歩きたがる光景」は微笑ましいではないか。それが、僅か6年間ぐらいで「徒歩通学」にすら疲労感を覚え、「つかれたぁ~」と連呼するようになる。都会の学校には「遠足」という行事すら消滅し掛かっている。ましてや、「全校遠足」なるものは車社会では「迷惑行事」に化してしまっている。
 孫が「マラソン大会はイヤだなぁ~」と言う。祖父ちゃんは応える、「祖父ちゃんも好きじゃなかったぞ。それでも走ったさ」と。マラソン大会を実施してくれる小学校に通える孫達に体力作りの大切さを学校教育で教えていただいていることに感謝する。体制批判など出来るモノではない。歩行が大脳の刺激には有効薬だと今でも信じている。
 面白い発想の先輩教師を思い出した。
 「廊下は走ってはいけません」との張り紙を指さして、若かりし頃の小生が生徒に注意をしていた。その横を苦笑いをしながら通り過ぎた先輩が、職員室に戻った小生に向かってこう仰ったではないか。「若者は走れるから走っているんだよ。老化したら走れと言われても走れないだろう。廊下(=老化)って、そう言うところなんだよ。いや、これ、ジョーダン(笑)」。その時点では真面目に指導した後輩をバカにして、と憤慨したモノだった。しかし、時を経て、思うように走れなくなった頃から、「実に妙を得ている例えではないか」と感心するようになった。正真正銘の笑い話である。走れる内に走る。(学校の廊下は衝突の危険性もあり、ジョーダンは受け止められないが)
 新聞記事(上掲)でのコメントを読んで妙に納得。
 やっぱり、学校教育は大事だと。車社会になって歩くことすら億劫になっている家庭生活がそうであるなら、いやそうであるからこそ「学校教育での体力作り」には大きな責任があるように思えてならない。
 そう言えば、このブログも「歩」禅記。一人の老人が懸命に歩いている。足腰の弱まりを感じ始めているからである。車の無かった時代に育った若者(今は高齢者)でさえこの現状。車社会に育つ若者達が高齢者になったらどうなるのか。案じても仕方ないことだろうが、やっぱり心配してしまう。幾つになっても「教師病」は消えないらしい(笑)。

今日の夕刻(5:30)は、「参加者全員が52歳」という集団との忘年会です。これで、今年3回目の忘年会になります。成長した「教え子達」との美酒は、また格別なことでしょう。明朝はまた寝坊かな(笑)。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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