
子ども手当の「支給目的」が解せないままに・・・。
我が5人の孫達もその恩恵を受けているようだから、祖父としての見解にはズレがあるかも知れない。しかし、単なる「日本人として」の子育て論に立てば、この財源の捻出を考えても不思議で仕方がない。事業仕分けとやらは、税金の無駄遣いを追究して、その必要性から誕生した業務だったようだ。異存はない。寧ろ大賛成であり、以前の政府が出来なかったところに着手した点で、「政権交代」に大きな拍手を送ったものだった。
この新聞記事を読みながら、勤務校の学区に2つの児童養護施設があったことを思い出した。親との縁が薄いと言うのか、親としての義務を放棄した(せざるを得ない)大人たちから委ねられた子供達が大勢で通学してきた学校だった。健気に生きている様子を見るに付け心が痛んだ。安っぽい同情は禁物とは言え、やはり親心から同情してしまったことが何度もあった。必死になって子供達と一緒に生活指導に取り組んでおられた関係職員の様子が浮かんで来た。補助金という名の「使い勝手の悪い」役所文化に残る前代の遺物が、ここに来てまだ頑なまでに現存するのか!親に替わって子供達を育てている機関には、それなりの援助は必要であることは当然のこと。ところが有効活用が出来ない。こんな理不尽な事では福祉機関の存続も危うい。
子育てにはそれなりの「費用(=お金)」が掛かるのは誰でもわかる。お金がないことを貧乏と言うらしい。「貧乏人の子だくさん」と言われながら立派に育った先輩同輩、そして後輩をたくさん知っている。「子育ては貧乏と言われる程度で丁度良い」。これは祖母の売り言葉である。「お金はあれば使う。欲しいな、と言うぐらいで子育てすれば子どもは立派に育つ」とは母の言葉。決して立派には育っていないが、貧乏の中で生きてきたことは事実である。母はきっと自分に言い聞かせていたのだろう。人は「お金だけ」では育たない。お金では買えない「愛情」で育つ、と聞いて育った。
高齢者が他界しても法的処理が放置されたのも、高齢者が得る公金(=年金)という「お金」への執着からだったようだ。いつからこうなったの?限定は出来ないだろうが、どこかにその流れの節目はあったかも知れない。少子化対策の一環で産み出された「お金」(=子ども手当)であったとすれば、本末転倒であるとしか言い様のない切ないほどの現状ではないだろうか。若い女性が産みたくないという現状やその心理の奥底を追究は出来ないモノなのか。哀しい気分には浸りたくないが、「子育て」は将来の国家形成に重要なポジションにある。「日本」号のダッチロールが気になって仕方がない。
師走の忙しい時間にこんな余計なことを考えることこそ、異常でしょうかね?
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