2011/01/31

朝刊のトップ記事から

 ~日本人もやるジャン!?~
 なんて、とても失礼な表現で恐縮であるが、敢えて言いたいのである。
 与えられた戦力でベストの結果を出すこと。トップリーダーには業界(業種)に区別無く求められている不易の経営哲学である。古今東西、時代の変遷はあっても変わってはいない筈だ。
 控えに回った(目立たない)人材が、出番が与えられて見事な成果を出した今回の展開がそれを照明していると考えるのは小生だけではあるまい。もし、あの起用が無ければ「この結果」は無い。当然ながら、他の素晴らしい結果は出たかも知れない。しかし、「あの起用」が「この結果」に繋がることを考えれば、「その起用」を判断した監督のリーダーシップの賜ではないだろうか。
 マネジメント(=管理・経営)の極意。
 それは、リーダーが抱く管理・経営理念にに符合する人材を育てることが最重要課題である。他者が育てた力量を頂戴しているばかりではホンモノの経営は出来ないと確信している。
 今回はサッカーの国際試合。外国から招聘された監督が、(自らの手で育てた選手ではない)与えられた選手を起用抜擢することは至難の業に近い。だから賞賛したい。同時に、短期間で人材の個性と力量を見抜く力は、各界で活躍中のトップリーダーには是非とも学んで、身に付けて欲しい。
 リタイアした人間のぼやきと受け止められても仕方がないが、天晴れな日本人選手達の頑張りをこうして見せつけられれば、日本人の素晴らしいDNAを、素晴らしいリーダーシップで大きな「自信の花」を咲かせて欲しいと思ってしまうのはご理解いただけるだろう。
 貧祖な学校経営しか出来なかった小生如き人間には言われたくない?
 失礼を顧みず、暴言に近い考え方を吐露したことはお許し頂き、「やれば出来る」とのメッセージを次代の若者達に伝えておきたいのである。

2011/01/30

新・歩禅記(45)

 ~茅ヶ崎にも雪がちらちら~
 昼食を済ませた頃から陽ざしが弱くなった。
 和室に入り込んでくる温かさがぐっと冷え込んだ空気を室内に運び始める。久し振りの歩禅を予定していたので早めの出発を促して妻と二人で外出した。この時期はこの時期なりの「歩禅の躊躇い」が襲ってくる。その主因は玄関先を出た瞬間の「北風」である。しかし、数百㍍も歩けばもう、その誘惑は友好的な伴となる。
 昨日は長女宅に行った。幼稚園に通う孫の公開保育参観であった。
 妻は宿泊を考えていた。それは本日が長女にとって初めての仕事に挑む日であったからである。長女夫婦が今年から自営業(=千葉特産・落花生の販売業)を始めた。サラリーマン家庭で育った娘には初めてのことだらけのようだ。妻はわが事のように心配している。しかも、今日はフリーマーケットでの販売をするために「出店」をするらしい。まさに処女航海である。
 宿泊して孫達を預かってあげれば夫婦だけで営業することが出来る。その支援を妻は考えていたようであるが思わぬ展開となった。それは、3年生の孫娘が「私も行って手伝いたい」との思いをお祖母ちゃんにぶつけたからである。支援の申し出を門前払いされたお祖母ちゃんは昨夜、茅ヶ崎に戻らざるを得なかったという経緯である。
 歩禅の対話は、「寒いだろうねぇ、風邪引かないと良いけどねぇ・・・」の妻の繰り返しで成立しない。途中で写真の蝋梅(でしょ?)と出会うが、花好きな妻も今日はその話題も上の空。対話が不成立のママに買い物も済ませて直帰した(笑)。
 帰宅直後に夫が言葉を向ける。
 「心配だったらメール一つでも送信しておけよ」と。素直に打ち始めている妻を横目に見ながら、この夫も父親として心配して居るんだってこと・・・・わかってくれたかな?

2011/01/29

「手作り」の温もり

 ~これからが「本番」!~
 文字通り、この4月からが本番の「小学校英語教育」。
 右往左往しながら「試し」だらけの授業でしたが、それなりに当事者には苦労が多かったと理解しています。専門家の端くれとしては、もっと高度なスキルを伝授すべきだったのでは?と後悔が無い訳ではないのですが、「これで良し」との結論に達して楽日を迎えられたのが不思議な感覚でもあります。
 それは、素人集団の小学校の先生達が「他の本務」との鬩ぎ合いがありながらの苦闘を観るにつけ現状の頑張りにエールを送るだけで十分だと講師としての自らを納得させられたからなのかも知れません。辛口教育評論家の小生(だそうです)でも、こんな大らかな結論を抱くこともあることを多くの読者の皆さんにもご理解いただきたいモノです(笑)。
 これからが本番の本務に向かって、この2年間の努力をそのままぶつけて走り出して欲しいと願うばかりです。お声が掛かれば喜んで馳せ参じようと心待ちの心境が、また我ながら爽快でもああります。週末は少しゆっくりして年度末の多忙さに備えていただきたい。お疲れ様でした。
 今日は、これから孫守りの依頼に応じて老妻と一緒に電車に乗って移動です。
 私的な用務とは言いながらも遠路への移動は老体にとっては重労働です。しかしながら、孫達の成長に元気を貰えるので張り切って出立することにしましょう。
 夕べの楽日・打ち上げの美酒の残り香を愉しみながら車中で仮眠でもして英気を養うことにします。行ってまいります。

2011/01/28

今日は「英語を喋ろう」かな?

 ~研究会開催の意義を求めて~
 今日は2年間の指導を集大成すべき「発表会」。
 研究は「小学校英語教育」というジャンルである。そもそも講師としての指名は「元・中学校英語科教員」という過去の業績が功を奏したのである(笑)、のだろう。当時の研究主任の独断と偏見(?)からの決定であったような朧気な記憶が蘇っている朝である。
 ご指名の理由はいずれにせよ、ほぼ1ヶ月に1度の割合で訪問指導を続けた小学校である。
 国(文科省)も乱暴な事をするモンだ!とは現職の小学校長時代からこの事業に関しては強く思い続けていた。その憤懣も「指導への生ぬるさ」に伝わったのだろう。英語教育とは全く無縁な世界である小学校に、「いきなり英語の授業をしなさい」となり、それを徹底指導をすることに躊躇したのは嘘ではない。
 任を果たす・・・という大前提で研究校には通うのであるが、専門家であるが故の悩みが先行してしまい思うような進展は殆ど感知出来ずに1年間が空しく流れ去ってしまった。しかし、「日本の先生達」という集団は凄い!世界中の先生達を知っているわけではないので偉そうに断言するのは危険だろうが、敢えてそう発言したくなる。それは、研究の指定を負った小学校のどの現場でも必死な形相を見ることが出来るからである。ご多分に漏れず本校の教員集団もそうであった。他校にも伺って英語の授業の「上手・下手」の評価を下すという判断基準からではないことだけは特筆したい。取り分け、本校は指定研究を受けている学校ではない。自主研究校であることがまた素晴らしい。「何とかやり抜こう」という集団の勢いがこちらにも伝わってきたからである。
 だからと言って、決して十分に満足などしているわけではない。しかしながら、現時点(本格実施前の2年間)での取り組みには及第点を上げても異論はあるまい。
 今日の発表が来年度への「始発点」である。
 全学年が「英語指導」に取り組んでいる体制が何といっても素晴らしい。該当学年(国段階では5~6年生)だけの担任が苦慮する低次元ではない。つまり、誰が該当学年を担当しようがそれは問題ではない。全校体制の研究が素晴らしい。写真版のメールは研究主任が年の瀬に実施した最後の公開授業を終えて送ってくれたメッセージである。届けられた完成した冊子には研究主任が作成した『校内研(究)通信』が全て綴じ込まれている。一瞥に価するシロモノである。
 研究発表会の参加者数を気にする主催者が多い。それは本末転倒である。参加者のための研究会であってはならない。研究会は「当事者が一番得する機会」であることを再認識して欲しいモノである。そんな豊かな期待(感情)をひっさげて(笑)、午後の本番に臨みたいとウキウキしているところである。
このブログを認めている時間に、今、校長先生から「今日はよろしくお願いします」との挨拶の電話が飛び込んできた。行ってまいります!!
 

2011/01/27

「広島」ってこんなに寒い?

 ~参会者も凍てつく?~
 思考回路が凍りついてしまったのではないかと、案じつつ「高いところ」(演壇)から失礼しました。
 この時期の体育館という容器は「じっくり聴き入って考えて」の場面設定には不似合いですね。実感として表現できるほどの寒さでした。主催された学校関係者のお気遣いも大変だったでしょう。研究冊子が入っている封筒に、何と!!「あったか袋」(=商品名はご想像願います)が同封されていました。恐らく殆どの参会者がご使用になったのではないでしょうか。
 授業は教室であることと、教師と子供達の熱気があり「寒さ」はさほど感じませんでした。
 懸命に頑張っても「上手く行かなかった」と自己嫌悪に陥ってしまう教師がいたとしても、渦中の人としては寒さなんぞ何のその・・・、だったでしょう。その熱気を削ぐかのように当の講師の「寒い話し」になってしまいました。能天気で「振り返り」など似合わない小生が講師でしたが、振り返ることばかりが何度となく襲って来てしまいました。
 寒さのあまり、言葉に血液の温かさを乗せるほどの熱い言葉を発することが出来なかったからです。何の取り柄のない講師ではありますが、熱い話だけは出来る?そんな取り柄を発揮できなかったことが校長先生始め参会者の皆さんに申し訳なく恐縮している就寝前の心境です。
 そこで、リベンジをさせていただきたい!!と、(能天気な性分は)性懲りもなく、とんでも無い企みを考えているところです。どうやら、次年度も継続して第4回教育研究会を開催するという「ゼロ次案内」が会場に映し出されていたことを思い出したからです。ご迷惑でなければ・・・・の話ですが・・・(笑)
 

2011/01/25

反響の強かった『恩送り』という言葉

 ~「ご恩」を感じたら~
 今年いただいた年賀状を本ブログで紹介しました。
 個人情報が飛び出して差出人にご迷惑をお掛けしてはいけないと、随分気を遣いました。登載した年賀状の差出人には承諾も得ていませんし、掲載のお知らせもしておりません。まだ、ご本人からの反応は届いていませんので半ば心配でもあります。読者の皆さんからは沢山の反応を頂戴しています。
 取り分け、苦学生だった小生の「恩人」として取り上げたご一家の話題には様々なご感想が届きました。先日の、熱海・ホテルで開催した新春教育講演会では、師匠と仰ぐ元・上司の年賀状を話題に取り上げさせていただきました。ご参会の方々からは、その補助資料として読み上げた新聞記事(上・写真版)への反響が強かったように感じています。参加者の数名からは、初めて聞いた「ことば」として感想が届いています。実は、小生も長い間「恩返し」という表現で人生の機微として大事にしてきましたが、井上ひさし氏のこの表現を知って驚きつつ納得してしまいました。
 年賀状こそ(他界されたので)届きませんが、小生には「特上の恩人」がいらっしゃるのです。その方からは大学生だった若き小生には人生哲学となるようなお言葉を頂いていました。「恩返しは、受けた人にするものではない。恩を感じた分だけ次代の人にお返しすべきである」と。この教えは今でも小生の人生そのものとして君臨している言葉として大事にさせてもらっています。この恩人の御言葉こそが『恩送り』そのものだと確信しているのです。
 人を育てる。人を変える。
 小生如き未熟者が、こんな言葉を発すると、仰々しい表現で偉そうに感じ取られるでしょう。当の本人は『恩送り』の真似事として次世代の人たちに接しているだけのことなのです。言葉では言い表されないほどの「恩義」を感じているからなのです。恩義ある多くの先輩諸兄への「恩返し」は、今となっては『恩送り』しか術はないのです。小生のちっちゃな器量では『恩送り』などと大袈裟なことも出来ませんが、自分なりに納得がいくように工夫を乍ら、日々心して接していることだけは事実です。
 講演活動も本格始動となる今週辺りから、『恩送り』の真似事に今年も挑むことにします。
 今日から広島市に移動します。行ってまいります!

2011/01/24

新聞・広告を見ながら・・・。

 ~テレビは嫌いですか?~
 これは良く受ける質問の一つです。
 応えに窮するほどの質問ではないのですが、応えが通じたかどうかを案じることがあります。それは「嫌いではない」のですが「好きではない」からなのです。
 今朝の新聞「意見広告」という欄に目が行きました。卵は高いの?と問われた関係者は「決して高くない」と資料を添付して反論しているのでしょうか。では、安いの?と追求されれば「安くはないでしょうが、高くはない」との言及に落ち着くのでしょうね。
 そこで、小生への質問に移動しましょう。
 講演会場では、推薦本を紹介することが多いのです。読んだ本や月刊誌などを話材にしてお話しすることも多く、半面、「愚かなTV番組」をその対照にすることも多いのです。だから、テレビを嫌いな人種として判断なさって質問を浴びることになるのだと理解しています。
 決してテレビは嫌いではないのです。
 ドキュメンタリー番組に釘付けになって、気が付いたら涙を流していることもあります。ただ、「世間話し」風の、「何でもあり」的な話題で構成され、根拠もなく場当たり的にコメントする画面を垣間見るだけで「バカじゃないか!」と憤怒することが多いことも事実です。大した業績もないとは言え、教育界だけでしか生きていない小生にとって、その部分での現場と現状を知らずして意見らしき考えを最もらしく発言されると、その番組政策担当者の品位を疑ってしまうわけです。
 衝撃が感動を突き破るような番組には感謝の気持ちで「居ながらにしてこんな感動を・・・」と嬉しくなる瞬間となります。敢えて「テレビは嫌いではない」と神妙な気分にもなると言うことです。
 外に出ることの多い亭主に、妻は「録画して」おいてくれる番組もあります。当たりはずれもありますが、そこには「テレビを嫌う」亭主はいない、と言う証になりませんか?朝刊を見ながら、ふとそんな考えが過ぎりましたのでご紹介しました。

2011/01/23

『響の会』新年度始まる!

 ~1月からスタート~
 今年も熱海の会場から素敵な日の出が拝めました。
 心新たにして新年度を始めることが出来てホッとしています。「もう、止めようかな」と毎年のように思いながら会場に到着するのが習わしになっている会長です。変ですよね!主宰する『響の会』も昨年15周年を迎えましたが、一緒に起ち上げた重鎮は、もうこの世にいません。そんな寂しさが開催する度に脳裏を駆け巡ってしまうからです。しかし、この新春教育講演会も9回目を開くことが出来ました。後継者がしっかりと襷を繋いでくれているからです。今回も、主催者である ちがさき『響の会』事務局長も風邪気味で数日前には高熱に苦しめられていたとの談話を聞くに付け、「申し訳ない」という気持ちで一杯になってしまいます。「そんなにまで無理させて開催するような講演会でもないではないか!」と自責の念で潰されそうです(ホンと)。
 今回は、講師として演壇に立って「予定変更」を宣言してしまいました。
 演題に添って、「参会者の自己紹介」として自らの人生で、「変わることが出来た」事件や事故、それがいつの時代だったのか。そしてそこに関わった人物が存在したらその事について語って貰うことにしたのですが、結果は講師の想定外となりました。嬉しい誤算でありました。
 熱く自己変容を語る参加者の「自己紹介スピーチ」が予定した講演時間すらも超えることになってしまったではありませんか。時間制限で借りる会議場であること、と熱海駅へのピストン輸送するバスの最終便に迫ってしまったのですから主催者は時計と睨めっこになってしまったようです。気苦労をさせてゴメンなさい。
 講師である小生の「自己変容」についてのコメントは殆ど触れることが出来ませんでしたが、懇親会までご参加いただいた参加者や、宿泊された参加者からは「即席スピーチ」で、それぞれの人が、色々な人との出会いやその衝撃での新発見や発想の変遷等を新鮮に聞き取れたことの意義も語って貰えたので、「まぁ、良かった」と評価することで今回の幕を閉じることにしました。
 来年は「第10回目」の新春教育講演会。
 趣向を変えながら新世代への飛躍を期すつもりでいます。腹案としては「新春の東京で会おう」という意識で、講演+サプライズ(昼食会・観劇)、さらにオプションとして希望者だけの「呑み会」を・・・、と同席していただいた旅行案内業者に口頭でデザインを頼んでいます。どうなるかは、現時点では未定です。
 東京駅から徒歩数分の距離圏内での会場にすると新幹線利用者の参加が可能になるのではないかと企んで(笑)いるところです。ブログ愛読者の皆さんもいかがでしょうか?事務局とは、そのデザインが届き次第運営等について相談してみたいと考えています。
 お陰様で今年もスタートできました。老体に鞭を打たない程度の運営でがんばってみましょう。


2011/01/22

年賀状を考察する ⑦

 ~「恩人」という日本語との出会い~
 遠い九州の地で誕生して育った18歳の青年には見るモノ聴くモノ全てにカルチャーショックを受けた日々に出会ったご一家がある。
 見たこともない品の良い老婆に出会ったのも衝撃であった。
 発せられる一つ一つの言葉が「映画の世界」を覗いているような上品さを全身に浴びた。異次元の世界を歩いているようでもあった。その老婆のご長男が医師である。そのご長男の「家庭教師」としてお付き合いをさせて頂いた。雲の上をあるくような別世界の生活にはまりこんでしまった。
 貧乏な母子家庭に育った小生にとって1週間に2度訪問する豪邸の正門も玄関も「住む世界が違う」世界へ突入すべく「意を決して」通らなければならない関所であった。苦学生の面倒を看る奇特なご一家であった。夕食付きの家庭教師で、兄と一緒に住んでいる借家の1ヶ月の家賃より高い額の家庭教師料であったのが今でも信じられない。「断られたら・・・」との臆病風も吹きまくり、緊張の時間にもなっていたことが、今となれば懐かしい。
 奥様の手料理が「家庭教師の夕食」。
 筆舌し難い豪華な夕食には度肝を抜かれることばかり。こんなに柔らかい肉が世の中にあったのか!エビの天ぷら?生まれて初めて食するような名前も知らない「洋食」(笑)に、18歳の青年の胃袋は、横になったり縦になったりして落ち着かないほどの豪勢なモノであった。
 肝心な家庭教師の相手は当時中学三年生。
 高校受験前であったが、家庭教師として「教える」苦労も殆ど無かった。2時間の自学自習の時間にお付き合いをしている怠慢な家庭教師であった。優秀な中学生だった。大学4年間を休むこともなく通い続けた。結果は家庭教師の力量が産んだモノでは無かったが見事なモノであった。
 4年間の学生時代の「お付き合い」。
 小生にも結婚して家庭が出来た。たまたま購入した家からは徒歩で数分の距離であった。3人のわが子達の「主治医」として愛情豊に接していただいたのは強力な「子育て支援隊」であったことは感謝に堪えない。今では親になったわが子達も、「話題の人物」として、このご一家のことは事欠かない。
 家庭教師をした中学生も、その妹さんの結婚式にも参列させていただいた。18歳の青年がお祖父ちゃんになった今でも、こうして年賀状の交信をさせていただいていることは罰当たりではないか、と時々考えたこともある。
 恩人。この古めかしい日本語しか当てはまらない素敵な響きを今でも抱けるご一家である。感謝しながら、「恩送り」をすることに残りの人生を歩もうと心している新年の正月である。
 

2011/01/21

もう、こんな時期?②

 ~明日は『新春教育講演会』~
 亡き友人が、「爪木崎の水仙を愛でに行きましょうか」、囁いた。
 場所も知らなかった小生は、「どこにあるの?」と訊いた。熱海からなら直ぐ行けますよ、と笑って答えてくれた。そんな話題で開設した「新春教育講演会」も第9回目となる。
 今日の昼間のこと。
 NHKテレビの画面に釘付けになった。主演者は立川談春という落語家であった。恥ずかしい話ながら認知していない。ただ今ブレイク中の落語の様である。落語家・立川談志師匠のお弟子さんのようだ。話題と表情に、流石のテレビ嫌いも引きつけられてしまった。「好きな人が出来たら命懸けで尽くせ」という談志師匠の教えを守っていると言う。だから「好きになった人」には夢中になってしまう、という談春氏の言葉に不器用だが「裏表のない」人柄と察する。そんな落語家を小生も「好きになってしまった」のである。氏は「さだまさし」と言う歌手が大好きだそうだ。テレビ画面にその歌手も登場した。談春に向かってストレートに忠告をするさだまさし氏の言葉にも引きつけられてしまう。もともとが「好きな歌手」であったので当然である。
 最後に師匠が手紙に託した「ことば」をアナウンサーが代読(?)した。その間に、額から発する汗に弟子・談春が「好きな人」(談志師匠)への熱い思いが伝わってきた。師弟愛の素晴らしさを感動と感激で見終えて、小生も汗をかいてしまった。
 午後になって外を歩いた。水仙の花が日溜まりですっかり「我が世の到来」を直訴している。
 水仙を見に行こうと誘ってくれた友人はもういないが、無理して(=命懸け?)でも伊豆半島(爪木崎)に行っておけが心残りなど無かったかも知れない。本当に好きな友人ではなかったのだろうか。そんな後悔をしながら、ふと考えてしまった。その友人の死から5年が過ぎようとしている。
 もう、こんな時期か?と自問しながらもタイミング良く素晴らしい話題を拝聴できたことが嬉しい。
 

2011/01/20

年賀状を考察する ⑥

 ~「教員の道」への滑走路で会って・・~
 2校しか経験していない小学校での勤務です。
 この2枚の年賀状の送り主達とは、それぞれの勤務校で出会いました。いずれも「臨時的任用教員」という正規の教員ではありませんでした。つまり、教員採用試験に向けて受験体制を取りながら働いていたのが彼らです。教員への道の滑走路という人生の途上での出会いです。
 特段の指導をしたという記憶はありませんが、正規の教員になってからもこうして毎年年賀状が届きます。今では、第一線から身を引いた老輩には直接の接触はありません。しかし、「我が家」の近況をこうして知らせて貰えば嬉しいことは間違いありません。
 教員仲間の子息であった大輔さん。小生の講演先で知り合った校長先生の紹介で勤務校を訪問してくれたのがキッカケとなった浩之さん。出会いの偶然はこんなにも違います。しかし、出会ってみたら、まるで「会うのが必然」と思えるほどの交際になるモノです。浩之さんは同じ境遇にある女性友達も紹介してくれました。彼女(直子さん)が奥様になりました。教員採用試験に合格してバリバリと働くようになった頃には小生は定年退職でした。世代交代だったということでしょう。
 大輔さんのお母さんとは同郷です。年齢も殆ど変わりません。同一市内で教員をしていても校種が違うと全くと言って良いほど接触はありません。偶然の悪戯は、校長と臨時任用教員との出会いで同郷と言うことが正式にわかるのですから「ご縁」を感じました。忘れもしないのは、当時から採用試験に採り入れられた「模擬授業」の対策を講じたことです。懸命に挑戦する大輔さんに向かって非情な指導を入れて落ち込んでしまった大輔さんの姿が浮かんできました。結婚式にご招待を受けて、改めて「同郷人」としての親しみを込めてお母さんにご挨拶をすることが出来ました。
 こうして、正規の教員として教壇に立つ後輩に年賀状で再会するのもまた格別です。
 「お父さん・お母さん」になった彼らに一言・・・・・。それは、「人の親」になって初めて「教育する」人としての意識が高揚するはずです。つまり、「子を持って知る親の恩」という古諺を深く認識して、教員採用試験で苦労した「滑走路時代」を忘れることなく、日夜、教師としての自覚を全身に纏って教師道に邁進して欲しい。今年も頑張ってください。

 

2011/01/19

西日本の異常寒波

 ~生まれ故郷から積雪の便り~
 四国の高知からは氷点下3度に驚いてしまっているというメールも届きました。
 鳥取からは何十年ぶりの「毎日が雪かきから始まる」という生活メールです。郷里の熊本からは積雪の便りも届きました。雪に閉ざされた山間部の高齢者向けに市役所が「代理買い物」に乗り出したという自治体のニュースをラジオで聴きながら大自然の驚異が恐怖心へと誘ってしまいます。
 写真は広島市内の小学校の校長先生が、校門前の桜の木に雪が凍りついている光景を撮って送っていただきました。自主的に早出出勤した先生方が、子供達が入って来る校門辺りの雪かきをしてくれていると感激のコメントも添えてありました。
 愛知県の小学校からは、直ぐにでも地肌が見えそうな程度の積雪運動場で、登校した子供達がランドセルを放置して雪投げ合戦を始めているとのメッセージも届いています。
 東海道新幹線も浜松駅~新大阪間が積雪のためにスピードを落としての運転だとこと。
 かなりの遅れが発生しているらしい。そんな自然現象を他人事にして聴いておれません。来週は今年2回目の広島への出講だからです。
 たまに見る「関ヶ原辺りの雪景色」は、雪に縁の薄い人間には眩しくも神々しく見えて心もウキウキしてくるモノではありますが、旅程まで狂わされると(勝手なモノで)迷惑に感じてしまいます。雪国の人たちに対しても失礼な「わがまま」ですね。
 ともあれ、異常なほどの西日本での寒波。
 年間で一番寒い時期という概念は承知しつつも「旅人」人生を送る小生には、ついつい、愚痴っぽくなってしまいました。どちらさまも風邪など引かれないようお気をつけ下さい。
 

2011/01/18

年賀状を考察する ⑤

 ~「弟」の名前と同じだよ~
 市外転勤をして中学3年生の姉の担任となった小生に人なつっこく声を掛けてきた女生徒。
 家庭訪問で両親と話をしていると小学1年生になると言う弟(=明くん)が、ちょこんと小生の膝の上に乗って来た。そしてニコニコしていた。奥の部屋からは誕生したばかりの赤ん坊の泣き声も時々聞こえた。ご両親も恐縮されて止めようとされたが当の本人は全く無視。そのまま訪問の務めを終えて学校に戻った。翌日からは、姉である生徒との話題は「明くん」。上手に繋いでくれた。前担任とはそりが合わず母親も悩んでおられたとの話も思い出しながら、楽しい対話が出来たのも「明くん」の存在だったようだ。その後、機会ある毎に母親とも話が出来た。反抗期の気むずかしさに苦労していると言う母親ではあったが、急に明るくなった姉に安堵しているとのお手紙も届いた。新担任としてもホッとした。
 彼女が高校生になった。確かな年月日は記憶にないが母親が亡くなったという情報を得た。赤ん坊も未だ小さい。父親は再婚されたらしい。そんな情報を得つつも遠くから心配していただけだった。月日が流れて小生は茅ヶ崎市教委の指導主事になっていた。ある中学校への計画訪問は業務の一環であった。訪問先の校長先生から、「角田先生に会いたいというお客様があります」と紹介された男性があった。「総合的な学習の時間」の特別講師として数名の関係者の一人だった。海外青年協力隊(名称は定かではない)の隊員としての名刺を貰った。そして、「先生、覚えてはいらっしゃらないでしょうね」と名乗った青年を見詰めながら、遠い記憶が蘇ってきた。あの当時の「明くん」ではないか。
 その後のご家族の変遷ぶりも聴くことが出来た。
 歳月の流れを紐解きながら、「相変わらず姉が母親代わりです」と話をした。お姉さんとは同窓会で会っている。弟は「中学校の英語教師」を目指しているとは聴いていたので、話題をそこに振ってみるとその通りだと言う。他県の教員採用試験を受験をしているとの返答を貰ったままその日は別れた。
 数年後音信は無かった。時々思い出しては心配していたが「明くん」は九州の地(小生の故郷)で「中学校の英語教師」になっていたことが年賀状で知らされた。そして、更に数年後、結婚したとの年賀状が届いた。そして、昨年の4月に勤務地の市教委で指導主事に抜擢されたという異動を知らせる葉書が届いた。
 お姉さんと弟。母親代わりを務める姉の担任として家庭訪問で会っただけの弟。
 そんな小さな運命の糸での繋がりが今でも続いている関係。やっぱり教師冥利に尽きることなのか。今年も二人から年賀状が届いている。お母さんの分まで懸命に生きている姉弟にエールを贈りたい。

2011/01/17

あの日・あの時

1995年1月17日 午前5時46分
阪神淡路大震災
 妻と一緒に真っ暗な朝の道を「歩く」日課中でした。
 家を出る時点(6時)、ラジオからは神戸に地震が発生したニュースを聞いたのですが、「歩いている間」の夫婦の対話にも取り上げることなく1時間ばかりして帰宅しました。何気なく妻がテレビのスイッチを入れ画面を見た瞬間、「わぁ~、大変なことになっていますよ!・・・」と大声を上げました。普段から感情を大袈裟に表に出さない妻です。大声に驚いてテレビの画面を覗いて「ただごと」では無いことに足下が竦んでしまったことを思い出しています。
 16年前の今日。
 当時は茅ヶ崎市教委の課長席が勤務場所。市内の校長先生方もチームを組んで神戸に向かわれました。想像を絶する被災状況に心は痛むばかりでしたが、何一つ出来ない「個の無力さ」を実感した日々でした。その後、校長として赴任した小学校に被災した女児が転校してきました。叔母の家に疎開してきたとのことでした。「何が辛いですか?」の問いに、彼女が小さな声で「思い出しても哀しいのに、皆が、どうだったの?と訊くこと」と応えのには凡庸な校長も心が痛み、堪えました。
 2001年に最後の勤務校に着任しました。そこに採用された初任者が神戸出身者で、高校時代に被災したとの自己紹介を聴いて歳月の流れを感じたことも今思い出しています。
 今朝のラジオでは、「震災を知らない子供達」に被災の厳しさを伝える事業が発足するとのニュースを伝えています。「戦争を知らない子」で育った小生も、あと数年で70歳になります。歳月はやっぱり人の営みを待っていてはくれませんね。日々の雑事に追われて過ごしている内に・・・・。
 そんな朝。
 日本列島では太平洋側にも大雪だそうです。異常な寒波だそうです。愛知県の知人からは大雪警報が出て今日の学校が心配だとメールが届きました。大自然も本格的に狂いだしたのでしょうか?大自然の前では人間など小さな小さな存在なんでしょうね。自然災害から、電気が使えない事態にでもなったら、便利社会の現代生活はどうなるのでしょうか?
 そんなことを考えていると、今、ラジオから追悼番組が始まりました。心からご冥福を祈ります。

2011/01/16

お正月の「墓参り」

1月15日(土)
 暮れには墓参が出来なかった。
 気になりつつ年が明けてしまったが、義父母が眠る茨城県土浦市神立町にある観音寺の霊園を訪れた。早朝5時に家を出てJR茅ヶ崎駅から東京駅~上野駅経由で常磐線に乗って移動すると長男一家の住む家に最も近い駅には7時40分に到着する。
 今日は長男一家の上の孫がサッカーの試合らしく嫁はその支援で不在。長男は土曜出勤らしく二人の孫の世話を頼まれたのである。そのことを請けての墓参となった。両親の墓参が「ついでに・・」では少々気も引けたが仕方がない。
 真言宗なので弘法大師の立像もあり、しばし境内で「お正月」の雰囲気を孫達との戯れで満喫する。3年前に建立された立派な鐘楼もある。初の鐘突きをして音色とその響きを堪能しながら、持参した新しい花を挿してお詣りを済ませた。
 夕方には全員揃ったので、土浦駅まで送ってもらいながら夕食を共にすることになった。立ち寄り先は、どうやらお目当ての回転寿司らしい。1年ごとに食べっぷりも逞しくなる3人の孫息子達の成長を確認して帰路に着いた。孫達は泊まらないのが不満らしいが、翌日の予定があり今回は後ろ髪を引かれつつ帰って来た。
 しかし、寒かった。
 南国高知でも氷点下だと言う。広島も雪が積もったらしい。メール情報で居ながらにしてラジオやテレビの気象情報より早く様子が飛び込んでくる。2月初めには、広島での講演もあり「冬将軍の居座り」が心配にもなっている。
 夜10時過ぎに自宅に着いたが、まさに「ハードなスケジュール」の寒い一日であった。

2011/01/15

年賀状を考察する ④

 ~辞すれば「ただの人」?~
 十分に意識していましたので衝撃を受けるほどの痛手はありませんでした。
 しかし、自らは殆ど気付かなくても周りの人たちには完璧なほどに職業病が感知されていたような痕跡が今となって(辞して7年経過)分かってきました。恥ずかしいという思いより、これこそが現実なのでしょうね。つまり、「元・校長先生」という人物には、「~らしいですよ、~した方が良いですよ」等の忠言や情報の提供はは殆ど耳に届いて来ないのです。伝えたり教えてあげること自体が失礼や非礼に価すると周囲の皆さんには気遣いが先行する、ってことなんでしょうね。
 今春退職される校長先生や、あと1年の在職期間のある校長先生方から、今年も多くの年賀状が届いています。個人情報が文面や筆跡(字体)からでないと判断できない年賀状に絞って登載しましたが、長年のご勤務を吐露する味のある年賀状がとても多く、見入ってしまいました。その都度、親愛の情を込めて囁くのです。
 「長い間のご苦労に心からお疲れ様と申し上げましょう。でもね、校長先生。この呼び名に慣れてしまっていると退職してしまえば・・・・」側近の同業者もいなくなり、「単なるただの人」になっちゃいますよ。時として、自分だけが社会から取り残されてしまったような孤立感を覚えますよ。・・・・と。
 小生もそうでした。「そんなことないよ」と力んでみても現実の社会は、慣れ親しんだ「組織社会」とは温度差も空気もまったく違うんですよ。大学を卒業して以来、「教育一筋」の道を歩んできたからこそ、一般社会の常識の尺度と大きなズレがあることに気付かないんですよ。
 だからと言って、決してイヤなことばかりではありません。趣味の世界や異業種の方達との接触が出来れば、また違った素晴らしい世界に没入することもあるでしょう。
 新しい世界に飛び込んで、新しい人生を切り拓いて余生を生き生きと満喫されることを祈っています。また、小生如き人間もお忘れ無く音信を交換させてください。責任感のみ(笑)、で生きてこられた方ほど、「無・責任」の世界で自身とだけ歩めると安心した時点で心に空洞が出来てしまうそうです。健康管理には十分お気をつけていただいて、心身共に健康でいていただいて、年に数回はお会いしましょう。後1年残っている校長先生は、力まずに身の丈で、今の「孤軍奮闘」を無理なくお続けになってください。素敵な年賀状を有難うございました。

2011/01/14

『走る書斎』から



 ~仕事始めの旅・・~
 小田原駅発8:09のひかり号は名古屋駅でのぞみ号乗り換えて広島駅着が11:42。
 訪問校からは教頭さんの車が新幹線口で待っている。宿泊ホテルに立ち寄って旅の荷物を預け一路広島市立亀山小学校へ向かう。車中では運転手である教頭先生は、講師の餌食?車中で自学自習したことを喋りたがる(笑)この老輩のお相手を強要されるので堪ったモノではないだろう!
 小生の旅の醍醐味は『走る新幹線車中」に勝手に創り上げた『書斎』でのご満悦なひと時。
 旅の伴は「お気に入りの月刊誌」とラジオ、デジカメ。学びを深めるためのツールは電子辞書。三種の神器とまでは言及しないが、旅の必需品であることは否めない。今回も月刊誌の対談の内容で90分間は全く車窓を眺める時間もないほどに愉しまされてしまった。2冊携帯した月刊誌が1冊の中の対談で岡山駅到着まで全く活字の虜になってしまうほどであったことは至福の時間そのもの。
 そして、年甲斐もなく興奮するのだから、時として隣席のお客様から「お声掛かり」に遭遇してしまうのである。今回は極上の『書斎』になった。極上とは、3人掛けの椅子を独占できること。そしてその中央に位置して両サイドのシートもテーブルも旅の荷物や学びの教材を放置できる状態である。写真でその状況を垣間見てご想像をお願いしたい。
 ここで、夢中のメモ書きをご紹介しましょう。
 まさに、殴り書きですので読みづらいところもあることは勘弁願いたい。釘付けにされてしまった部分は、このページの前に衝撃的なフレーズが合ったからである。
 その部分は下記に紹介します。
 科学と芸術が一体になっていなければ経営はできない。
 科学と芸術の一体化。
 書斎の主の脳味噌はぐちゃぐちゃになってしまい、支離滅裂。その後のノートがこのページとなって続いている。教育関係者として「授業作り」を焦点化している当事者。授業づくりは学校づくり、と言う自作フレーズを創りだした本人としては、学校経営に「科学と芸術の一体化」を挿入するとなると、どのような思考回路のデザインが必要となるのか。刺激が刺激を産みながら新幹線は、それとは全く無縁なほどに定時運転である。ふと、気付いたら岡山駅ではないか。そろそろ終着駅「広島」の1つ前の駅になっている。
 興奮のママに今回の旅も「あっと言う間の」書斎生活であった。
 新幹線車中では携帯ラジオは便利(写真下段)。自前のラジオでFM放送がキレイな音楽を提供してくれる。欠かせない友である。ラジオから流れる音楽に気付かないほど集中するのである。ふと音楽に気付いて降りる準備を始める。
 写真の富士山は帰路で撮ったモノ。超高速の新幹線から撮る富士山の位置がある。それが冨士川の鉄橋を渡り始めた頃がそうである。どうぞ、一度チャレンジしてみて下さいませ。

 

2011/01/10

『成人の日』に思う

 ~ホンモノの大人になるには~
 こんな社会に誰がした?!
 勉強をするべき学生生活の大半を「就職活動」に費やす?何のための大学進学だったのか。学生時代に留学をしてみたくても、帰国してみたら就職戦線に置いてけぼりでは、若さ故の冒険もチャレンジも許されない現状を知るにつけ、社会情勢を恨みたくもなるかな?成人式を終えたら「就(職)活(動)」に突入するなんて信じられない。経済市場原理が、将来の国を任せる若人を窮地に追い込み、今の若い者は!と責めている現状は、「どがんかせんといかん」(某知事の故郷愛が言わせた言葉)状態である。何も出来ない元教員としては地団駄だけを強く踏んでしまう。
 今日は『成人の日』。
 時代に反発したり親に抵抗したのも「ホンモノの大人」になるための基本条件の一つである。しかし、いつまでも抵抗や反抗を「青春の証」とばかり思い込んでしまうことは危険である、と提言しよう。どこかでそれを断ち切らねばオトナになれない。その節目が今日の日(『成人の日』)であると肝に銘じて欲しい。人生には沢山の節目がある。その一つ一つの節目の大事さを忘れないでいて欲しい。
 人の褌で相撲を取る(=岩出監督のお言葉を借りて伝えたい)。
 勝つことは喜びと達成感をもらうが、油断の入り口にもなる。負けると悔しいが逞しくなる入り口にもなる」
 入り口と出口。節目に的を当てた表現ではないか。成人者になるための出口と成人者となった入り口のギアチェンジに失敗をしないように逞しく生きて欲しい。
追記:明日が小生の今年の「仕事始め」です。早朝から広島に向かいます。この「成人の日のメッセージ」が書けそうにないので、今夕書いています。小生を待っていただいている人たちが未だいらっしゃるのが幸せです。元気で今年も仕事を始めたいと心を熱くしている夕暮れです。行ってまいります。明日から3日間、ブログは休刊いたします。
 

新・歩禅記(44)

 2011年1月9日(日)
 ~「初富士」を愛でながら~
 「明日の成人式は寒くて天気も良くないみたいよ。」
 妻のその一声で「田んぼまで歩こうか」と御輿を上げる夫。ここ数日間で最も穏やかな天候であるような体感で判断。それは、連休明けに始まる広島への出向のために床屋に行って帰ってきたばかりの夫の身体感覚がその判断基準となった訳である。
 妻の準備を待って丁度10時に出発する。
 JR相模線沿いに北に向かいながら歩き始めると予想通りに北風がそんなに冷たく感じない。小出川を渡りながらカモの群れに目が行く。渡り鳥には季節感を貰うが、「鳥インフルエンザ」とやらの元凶になるとの情報が錯綜すると決して穏やかではない。故郷に近い鹿児島県出水市(なべ鶴の越冬地)の苦悩が偲ばれる。
 寒川町の田んぼ地帯に出ると防風物が無いので、チョッピリ北風を体感するがお天道様には勝てない。汗ばむ程の温もりを感じながらジャンパーを脱いだ。大好きなたんぼ道を歩きながら正面に見える富士山を拝む。新年の初めての風景(写真・下)である。
 茅ヶ崎市と寒川町の境界線周辺の田園地帯は大きく変わる兆候がハッキリしてきた。
 圏央道の姿が顕著になっている。東京を包囲するようにして、千葉~茨城~埼玉~神奈川を結ぶ高速道路がハッキリわかるような状況になっている。側道の通行が可能になったのもつい最近の話である。歩行者も通れるとの情報が回覧板で知らされていたので歩いてみたくなった。写真(上)が、側道脇の歩道から通行する車を見ながら西に聳える富士山を撮ったモノである。
 この地に転居した頃(昭和52年)から、この道路に関する大構想は住民には知らされていた。40年もの歳月が流れてその現物をこうして目の当たりに見ると感無量である。当時は幼児だったわが子達もその間にすっかり成長して親になってしまった。
 丁度1時間の歩禅は、いつものコースに「新観光地」(笑)を加えたのでいつもとは少し感覚が異なったような歩き心地である。7000歩のコースも、いつかは厳しい時間帯になるのだろうが、この日の新年・初歩きでは、「まだ大丈夫」との実感を得て帰宅した。
追記:「年賀状を考察する・・・・シリーズ」は、まだ続きますので、次回をお待ち下さい。

2011/01/09

年賀状を考察する ③

 ~おはようございます!~
 3連休の中日。
 新年の仕事も始まって、身も心も「働き」モードになっていることでしょう。「毎日サンデー」の小生は、皆さんとは少々出遅れましたが、連休明けの11日が仕事始めです。今年も「県外」での仕事から始めさせていただくことになっています。
 昨年も県外には多くの機会をいただいて出向しました。今年も、どんな「新しい出会い」があるのか?考えるだけでもとてもドキドキします。「年甲斐もない」なんて苦笑しないでくださいな。
 シリーズ第3弾をお贈りします。
 23歳で教壇に立って以来、辞するまでの歳月は「教職一筋」。
 聞こえは良いでしょうが、現職中から脳裏を離れなかったのが「教師バカ」と酷評された一般社会からの教員への代名詞でした。相手が10歳以上の年齢差の未熟な青少年を「いつも相手にして」生活するのが教員業です。無意識の内に、「上から目線」になってしまいます。当事者には悪気はありません。保護者や地域に対しても「言われる」側に対して何らかの防御壁を作ってしまうのが職業病の一種だったようです。小生にとっては、他の職業に従事している同年齢以上の方との接触はとても刺激がありました。初めて知る業界用語には大変興味があり、取り分け、保護者の皆さんとの接触では異業種文化を知る事が出来たことは大きな「学び」となり感謝しています。
 今日の年賀状は、異業種との接触で親しくなった方からのモノです。
 現職時代の僚友だった、故・大瀬敏昭君(初代・茅ヶ崎市立浜之郷小学校長)の取材に1年間以上通い続けられた某新聞社の女性記者です。小生が勤務していた小学校の校長室にも何回となく立ち寄られ、取材とは無縁なことまで話し込んで親しくなった方です。その後、結婚なさってそのお知らせのお葉書を頂戴してからは、こうして毎年年賀状を戴きます。社名や住所(氏名)の箇所は、小生がイラストを挿入していますので個人情報としては護っているつもりです(原版とニュアンスが異なることをお許し下さい)。数行の近況を読みながら、現職の記者として活躍の様子を知り、我が娘のように愛おしくも思えるほどの至福を満喫しています。
 もう1枚は、(年が明けたので)接点は一昨年のことになります。
 愛知県教委からの依頼で県下の20校ばかりの小学校で英語の訪問授業をさせていただきました。年賀状差出人は、訪問先の地元テレビ局専属のカメラマンです。ビデオに収め編集して地元ニュースソースとして番組を編集している男性です。プロ・ビデオカメラマンの視線がユニークでした。まさに「カメラに映る」人物像へのカメラマンらしい率直な考え方には「教員バカ」そのものの目から鱗を落として貰いました。鱗が落ちる時期が少々遅かったと「出会い」に後悔した程でした。賀状の2行コメントが読み取れますか? ・・・先生のお話は伝説となっています・・・。と記していただいています。 
 こんなストレートな表現は教員であった小生には出来ません。彼と共有した時間でカメラに向かって喋った小生には、その事後放談(時として名古屋駅前の宿泊ホテルまで自家用車で送ってくれる車中でも)を通して考えてみても、「学び力」のある人物であったことは今でも鮮明に残っています。・・・先生の人生哲学は今でも健在でしょうか?・・・と詰問されそうな緊張感が蘇ってきて、思わず周りをキョロキョロしながらも背筋がシャンとする年賀状です。
 それぞれの業界での活躍を祈りながら、こんな幸せな「出会い」を戴いた関係者に感謝するばかりです。天国の友・大瀬君にも改めて感謝すると同時にヤツが果たせなかった思いの一部でも代役が出来るように今年も貪欲に学んで行こうと決意を新たにしている爽やかな朝です。

2011/01/08

年賀状を考察する ②

 ~七草粥を食しつつ~
 尊敬する大先輩からの年賀状を改めて読み直す(上・写真=左)。
 飛び込んでくる活字の重さが、20年も前になってしまっている日々と一緒に脳裏を刺激的に駆け巡る。
 小生43歳の春。学校教育現場から離れて行政への勤務となる。場違いと感じる「気後れ」が躊躇いを増幅させ、戸惑いの連続の中で新生活に飛び込んだ世界。そこで出会った素晴らしい「人物」が年賀状の差出人であった。と、表現できるまでに20年もの歳月が流れたと言っても過言ではあるまい。口にこそ出してはいない(ご本人もご存じではない)が、勝手に「師」として仰ぐ立派な大先輩であることも間違いない。
 年賀状の分析をする、なんて烏滸がましい。 しかし、当時の教育行政のトップとしての言動には、聴くモノ・見るモノ全てにカルチャーショックのような衝撃を受けた人物であることは事実である。こんな人がいらっしゃったのか!と。
 黒丸印の3つ目。
 将来の展望についても世界をみすえて・・・。語りかけていただいている言葉の一つ一つに身の引き締まる思いがする。師の世界観は幾たびか耳にした。しかし、当時の小生には「雲を掴む」ような思いで理解しがたい別世界の原理のように思うだけで、雲は風に流されて触る感覚すらなかった。
 これは小生が投函した年賀状への返信としていただいた年賀状である。それゆえに重い。
 影響とは恐ろしい。いつの間にか「理念と哲学」というフレーズをまるで自分の言葉のように濫用している自分に気付いている。本質を極めないままとは言え師の口癖のように発せられたフレーズである。小生の軽率な発言への戒めなのかも知れない。無責任な放談(講演ではない)への叱咤である。
 印象に残るお言葉は数知れない。ここで、読者諸兄と共有したい内容を★印にして2点だけ揚げておいた。強烈な印象は★印の最初の2行であった。新任校長として赴任するに当たって肝に銘じたのがこのお言葉である。「校長」という職名に向かって多くの人たちが「頭を垂れる」のであって、「角田明」個人には頭を下げているのではない、と。個人としての魅力と実力で「頭を下げていただける」人材にならなければいけない、と心したモノだった。しかし、結果は、師の思いとは全く掛け離れたままの教員人生を終えてしまった。ご期待に添えなかった後悔の念は今朝も消えていない。
 来週から、そろそろ仕事(講演)開始である。
 師の年賀状を心に刻んで登壇することにしよう。今までは仕方なく食していた七草がゆが、とても美味しく感じるほどの(胃腸)年齢に、(恩返しも何一つ出来ないままに)、なってしまったようである。恩返しの真似事にならないが、本格的に始動することにしよう!
 

2011/01/07

年賀状を考察する ①

 ~「悩んだ年賀状?」から~
 この年賀状の送付者との関係は、と問われたら躊躇はするものの敢えて『師弟関係』と表現しましょうかね。弟子を取る程の師匠でも無いのですが、送付者が、小生のことを師匠と呼ぶのでご了解願いたい。出会った時点では、弟子は小学校の教頭職。校長を退職したばかりの師匠は、弟子の勤務する小学校へ(当時の校長先生の熱心な要請で)授業研究会の講師として通い始めたばかりでした。老父母の介護のために、校長職を1年早めて辞した小生は故郷の熊本に帰って行ったばかりの時点での要請だったので、当時は熊本~広島間の通いとなっていました。
 「人事異動の妙」とは、巧く表現した名句です。広島市は政令都市ですから人事は単独ですが、彼は県内の他市から「人事交流として」の移動で赴任してばかりの教頭先生でした。同一県内と言えども「所変われば品変わる」の例え通りに大きなカルチャーショックを受けて、管理職としても「地団駄を踏む」思いの日々だった頃ではないでしょうか。そんな日々の出会いです。
 前置きが長くなりました。
 学校経営に関する「思考の観点」を、機会ある毎に話しました。鋭い質問も浴びました。理論では経営が出来ないことは、学校経営者の視点から駄弁を労しつつも語ったような記憶があります。登載した写真版が年賀状ではありません。彼の所に届いた年賀状への、「現職としての考察」を加えて、メールで伝えてきたモノです。この写真版はその一部分です。
 鋭い視点に満足です。それは下の箇所です。
 よくわかったようで実はよくわからない美辞だなぁと思いました。
 この部分に気付いた弟子に拍手を送りましょう。なぜならば、「褒められているにもかかわらず、悩んだ年賀状」として締めくくっている表現で、大きな成長を感じるからです。小生も「子どもの目線」という業界用語の「きれいな表現」がとても嫌いなのです。きれい事では教育はできないからです。20年間以上モノ時間の経過にズレがある「生き様」感覚(教員が)で、現時点での「子どもの目線」を活かしきって授業を展開している教員はどの位いるのだろうか、と考えるからです。
 十分に理解して、その理解の上で教材を発掘して、目の前の子どもの力量を加味しながら工夫して授業を提供する教師が存在することも知っています。しかし、ホンの少数です。そうあって欲しいと心底から願っている師匠としては我が意を得たりという心境になります。この視点から考察できる現職に辿り着いた弟子は、もう弟子ではなくなりました(笑)。
 園長(校長)として、更に成長されることを確約しましょう。いずれは、その経営ぶりを覗きに出向いて「再会できる」日が訪れることでしょう。弟子の成長を噛み締めている至福の朝です。

2011/01/06

「寒の入り」に思う

 ~鳥取地方の豪雪に思いを馳せながら~
 朝刊の記事に目が留まった。
 寒気が厳しければ厳しいほど、そこで精進する人の身中奥深くに飛躍の種が宿る。この文章の下りに目を投じながら、「そんなこと言ったって・・・、この辛さから何が産まれるんだい!」と反発した若き日々が浮かんでくる。師たるオトナの信念が「練習する・稽古する」過程の重要性をイヤと言うほど押しつけてきたあの日々。師を恨んだ。師を憎んだ。オトナのエゴだと誤解をした。そんな日々が・・・。
 そして、教員になった。呼び名には「師」が付いた。教師である。
 そして、教壇に立った。グランドにも立った。「師としての」信念の欠片もない若輩の教師は、もっともらしく指導に勤しんだ。生徒達の反発を喰らった。選手達の抵抗にめげそうにもなった。気が付けば、厳しかった「冬の時代」が、晩年の教師像を形作ってくれたことに感謝をしたくなる齢になっている。
 どんな厳しい冬も、必ず春に近づいていく。
 そんな、歌の文句のようなきれい事ではなかった。指導する方も、される方も・・・・・。今日はそんな厳しさと「闘い始め」の日だそう。
 ふと一昨日再会した野球部員達との格闘の日々が、また蘇ってきた。時効になってしまった(笑)未熟な「師」の指導には自省は今日も続いている。
 きれい事は言うまい。しかし、考えてみる余地はありそうだ。そんな「寒の入り」の夕暮れである。年賀状の返信を投函した帰り道、「寒いですね~」と交わした隣人との挨拶の言葉が符合した。

2011/01/05

爽やかな二日酔い(!?)


 ~年に1回とは言え・・~
 流石に今朝の目覚めは遅かったですね。
 最近は酷い二日酔いも無い状況下にある人生を歩んでいますが、彼らと再会するとどこかに潜んでいた「あの日の熱い」エネルギーが再燃するんですよね。ホントに不思議(笑)。部員が男性であることで、まだ「孫が・・」の言葉は聞きませんが、時間の問題でしょうか。年々歳々、同じように加齢する訳ですが、会話の敬語は別にしても、どんどん接近しているような錯覚(?)を実感しますね。彼らの成長そのものですね。
 日本プロ野球界・最長老投手となった教え子(写真上段・中央)もいます。
 この日が断酒の開始日だとか。身体が資本のアスリートにとっては自意識の高さと目標設定の確かさが求められるんでしょうね。近日中に鳥取市のジムに移動するのが今季のスタートだと言う。昨年は日本シリーズ登板ゲームに招待を受けた。「今年も・・・・」と言いかけて我が身の傲慢さに気付いて言葉を納めました(笑)。
 卒業生たちの成長をカメラで追ってみた。
 ここでは紹介できませんが、映像を追いながら一人一人の選手時代の幼い日々に勝手なタイムトラベル気分になっています。褒めた記憶が無い。叱り飛ばした思い出は共通に保存していることも昨夜の会話でも確認できました。しかし、良くもあんなに毎日怒鳴ったり殴ったり(オッと、これは・・・・いや、もう時効にして欲しい!)したなぁ~、と写真に向かって反省している朝でもあります。
 本格的な二日酔いには「爽やかな」という形容詞は相応しくない。しかし、今朝は「爽やかな二日酔いをありがとう」と言いたい気分ですよ。来年、また、会おう。

2011/01/04

今日は「仕事始め」です。

 ~ホンモノの仕事ではないけど・・~
 「毎日サンデー」の年金生活者にも「仕事始め」ってあるんですよ。
 本日のお仕事は? 18:30 会費5000円 焼肉店「とき」  年内に幹事からのメール便で案内が届いているんです。現役教員として最後に勤務した中学校の卒業生達との「恒例行事」です。欠かすことなく25年も続いている「野球部・OB会」なのです。最初の卒業生は、間もなく50歳です。中心になっているのは今年46歳。13~15歳の「3年間」だけの接点ではありますが、その後の接触年数がかなり長くなってしまいました。五十路に近い立派な社会人となっている卒業生ですが、会ってしまえばタイムスリップに抵抗もされずに「あの頃」に戻ってしまうのが不思議でもあります。毎年「1月4日」がその日なのです。つまり、今日が、無職の小生にとっては貴重な「仕事始め」と言うことになるわけです。
 人生の楽しみの一つ。
 なぁ~んて言ったら後輩諸兄から石の礫が飛んできそうですね。年間に幾つかの「楽しみ」が、勿論・・・ありますよ。しかしながら、一つしか知らない職業を通して出会った軌跡には苦しんだ思い出が多ければ多いほど同等の「喜び」に還元して貰えるようです。
 立派に成長した卒業生と再会する喜びは「自戒」の念が同居するが故に、喜びも倍加するのかも知れません。今夜はそんな楽しみが待っています。
 仕事始めの皆さんも頑張ってください。

2011/01/03

新・歩禅記(43)

 ~往復歩禅の「初詣」は今は昔~
 拙宅から最も近い駅が徒歩10分ばかりにあるJR相模線「香川駅」である。
 そこまで歩いて、目的地である寒川神社の下車駅「宮山駅」まで乗る。下車して徒歩5分もかからずに神社の正面に出る。箱根駅伝復路の走者が、芦ノ湖をスタートした時点で我々老夫婦も家を出たのは、帰宅する時間を、トップランナーが茅ヶ崎海岸を通過する頃と合わせるためであった。
 以前(と言ってももう10年以上前)は、自宅からこの神社までの初詣を往復とも歩いた。いや、歩けた。いやいや歩きたかった。しかし、今は?歩きたいけど少々無理であると怯え腰であるのが現実でもある。神社に詣でてからは、至近距離の駅に戻らず、町の中央郵便局で返信用の年賀状を購入しながら「寒川駅」まで戻ってきた。タイミング良く、少ない待ち時間で電車が来ることが分かり、「歩かないで」電車を使うことになってしまった。(復路だけでも歩くつもり・・・だった)
 無理はすまい。
 そんな言い聞かせをしながら僅か1駅区間の車中から景色を眺めつつ帰ってきた。歩数にして8000歩である。少々物足りなさも感じないわけではないが、妻にはこれが限界に見えたので妥当な企画だったと記しておこう(笑)。
 計画通り。
 帰宅後のテレビ画面に箱根駅伝・復路「平塚中継所」が映し出されていた。暫くの間、茅ヶ崎のカメラポイントから全国中継である。烏帽子岩も画面で見るとひと味違う風景として目に飛び込んできた。暫く応援(?)しながら、購入してきた年賀状に返信の準備をした。全部書き上げるまでには結構、時間が掛かるモノである。
 異常なほどの接戦に驚きつつ、駅伝界で勝ち抜くにも伝統だけでは対応できないことを痛感する。書き終えた年賀状を持参して、今度は「独り歩禅」。団地内の郵便局まで投函するために歩いた。
 裏に住むご主人と玄関先でバッタリ。肩を並べて途中まで一緒に歩いた。投函して電気量販店に立ち寄ってプリンターのインクを購入して帰宅。歩数計は13000を示している。久し振りに「歩いたぁ~」と実感する。

2011/01/02

新年も二日目ですよ。

 ~元日の大雪は?~
 鳥取県を中心に山陰地方では大雪の様ですが、大丈夫でしょうか?
 山陰本線の宍道駅~岩美駅で電車が34時間もストップした、という情報。昨年2月に訪れた岩美町の風景が浮かんできました。初めて鳥取市を訪問したのが4年前の1月のことでした。暖冬の影響で、「殆ど雪が降らないし、降っても直ぐに止んでしまい大山スキー場もお手上げですよ」と、雪乞いをしたい気分ですとの説明も同時に思い出しています。今年の雪は記録的な大雪だそうです。自然というのは人間様の言うとおりにはならないモノですね。
 今日は正月も2日。
 偶然とは言え、長女・婿と長男・嫁の双方のお祖父様が他界され喪中に付き年賀の挨拶が出来ません。孫達からの年賀状も届きません。こんな偶然もあるのですね。三が日でも過ぎたら電話での交信ぐらいは致しましょうかね。
 元日の午後の日課は恒例の年賀状の返事書きです。
 ほぼ完了したので今朝は「今年一番・初歩禅」として歩いて郵便局まで行くことにしましょう。茅ヶ崎市に住んで33年間になります。正月2~3日は『箱根駅伝』の通過が一つの文化を創出しているような気がしないでもありません。拙宅は駅伝が通過する茅ヶ崎海岸からは遠いので直接の「被害?」はありませんが、駅伝の通過する134号線沿いにお住まいの人たちは「何も出来ません」という程の交通渋滞になるようです。歩禅で郵便局まで、と言っても駅伝の影響はほとんど御座いません。ゆっくり富士山を仰ぎながら歩いてくることにします。
 皆さんのお正月の様子もお知らせ下さい。

2011/01/01

新しい年が、また、やって来ました!!


 ~もういくつ寝ると・・・~
 お正月が来るのを楽しみにして待った日々が愛しい。
 紅白歌合戦という国民的行事を「テレビで観る」感動に酔った青春の日々も今となると懐かしい。
 妙に落ち着いて懐古している元旦の朝で御座います。皆さんのご家族ではいかがでしょうか?
改めまして
 新年あけましておめでとうございます。
 昨年もお世話になりました。今年もお世話になります
 暮れに、京都に住んでおられ今でも第一線でご活躍中の友禅絵師の方から干支『卯』の色紙絵を今年もお送りいただきました。先般のこのブログでお約束しました通りにご披露いたしましょう。併せて新年が皆様に取りましてご多幸をお祈りいたします。
 いつものように3時には目を覚まして「ラジオ深夜便」を聴いておりました。美空ひばりさん特集番組で歌声に聴き入りつつ、「芸」の深さを今更の如く感嘆している元旦の朝です。
 3時半には床から起きてパソコンを起ち上げ、年賀メールをチェックしました。思いがけぬ年賀メールに驚きつつ感激しつつ返信をしている間に、こんな時間になってしまいました。豪雪になっている鳥取からのメールに仰天しました。穏やかな湘南では書斎の窓を照らす「下弦の月」の光にウットリしている能天気ぶりは今年も健在のようでございます。(鳥取の皆さんの被災状況には心を痛めています。)
 そろそろ「お風呂が沸きました」と言う金属音が、階下から聞こえてきそうです。いつものように半身浴(『腰湯』)をして活動開始としましょう。
 新年の「新たなる抱負」等については、『書き初め』として明日の朝、発進することにいたします。今年もよろしくお願いいたします。
 

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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