2011/01/22

年賀状を考察する ⑦

 ~「恩人」という日本語との出会い~
 遠い九州の地で誕生して育った18歳の青年には見るモノ聴くモノ全てにカルチャーショックを受けた日々に出会ったご一家がある。
 見たこともない品の良い老婆に出会ったのも衝撃であった。
 発せられる一つ一つの言葉が「映画の世界」を覗いているような上品さを全身に浴びた。異次元の世界を歩いているようでもあった。その老婆のご長男が医師である。そのご長男の「家庭教師」としてお付き合いをさせて頂いた。雲の上をあるくような別世界の生活にはまりこんでしまった。
 貧乏な母子家庭に育った小生にとって1週間に2度訪問する豪邸の正門も玄関も「住む世界が違う」世界へ突入すべく「意を決して」通らなければならない関所であった。苦学生の面倒を看る奇特なご一家であった。夕食付きの家庭教師で、兄と一緒に住んでいる借家の1ヶ月の家賃より高い額の家庭教師料であったのが今でも信じられない。「断られたら・・・」との臆病風も吹きまくり、緊張の時間にもなっていたことが、今となれば懐かしい。
 奥様の手料理が「家庭教師の夕食」。
 筆舌し難い豪華な夕食には度肝を抜かれることばかり。こんなに柔らかい肉が世の中にあったのか!エビの天ぷら?生まれて初めて食するような名前も知らない「洋食」(笑)に、18歳の青年の胃袋は、横になったり縦になったりして落ち着かないほどの豪勢なモノであった。
 肝心な家庭教師の相手は当時中学三年生。
 高校受験前であったが、家庭教師として「教える」苦労も殆ど無かった。2時間の自学自習の時間にお付き合いをしている怠慢な家庭教師であった。優秀な中学生だった。大学4年間を休むこともなく通い続けた。結果は家庭教師の力量が産んだモノでは無かったが見事なモノであった。
 4年間の学生時代の「お付き合い」。
 小生にも結婚して家庭が出来た。たまたま購入した家からは徒歩で数分の距離であった。3人のわが子達の「主治医」として愛情豊に接していただいたのは強力な「子育て支援隊」であったことは感謝に堪えない。今では親になったわが子達も、「話題の人物」として、このご一家のことは事欠かない。
 家庭教師をした中学生も、その妹さんの結婚式にも参列させていただいた。18歳の青年がお祖父ちゃんになった今でも、こうして年賀状の交信をさせていただいていることは罰当たりではないか、と時々考えたこともある。
 恩人。この古めかしい日本語しか当てはまらない素敵な響きを今でも抱けるご一家である。感謝しながら、「恩送り」をすることに残りの人生を歩もうと心している新年の正月である。
 

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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